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女の子でありたい私、それを許さない世間

私はがっつりシスジェンダーです。

わかりやすく言うと、女性として生まれ、心も体も女性です。
私の希望としては、できることなら一生、出勤・登校時はスカートを履きたいし、バチバチに派手な化粧をしたいし、ヒールの高い靴を履きたいです。

でもTwitterには、「パンプス出社をやめさせろ」だとか「女性がこうでなくちゃいけないという刷り込みが気持ち悪い」だとか、そういうことを言う人がいます。フェミニストです。もちろん全員ではありませんが、女性が女性らしくあることを否定する人が一定数いることがとても悲しく思います。

もちろん、初めは男性が押し付けた価値観だったり、世間が「こうでなくてはいけない」と考えたからこうなったのかもしれません。でも、それを実行する行為そのものは「ダメ」なことなのでしょうか。

私は、行為自体は悪くないと思っています。他人由来だろうが自分由来だろうが願望は少なからずあるものだと思います。「コンプレックスという考え方自体が良くない」という人は、きっといい環境で育って、健全な心を持っていたからそうなのだと思います。もちろん、そんなあなたはとても素敵です。その自信を心から尊敬します。

じゃあ、足が長くてスタイルがいいなぁとか、とても綺麗な顔立ちだなぁと憧れることの何が悪いのでしょう。実際、「綺麗」というのは、一概に魅力があるということではなく、顔が左右対称であるとか瞳が大きかったりとか人間の本能的なバックグラウンドが存在しているものです。男はそういう女が好きだから、みたいな後付けの考え方ではありません。あくまで本人の中で明確に「こうありたい」という信念があるのです。個人の考え方(憧れ)として、そういうのがあるなら、否定してはいけないと思います。コンプレックスを今すぐ捨てなさいというのも無理な話だし、憧れを捨てろなんていうのも残酷なことです。

あくまでもパンプスを脱ぎたい、というのは「性差別からの脱却」のための手段であり、パンプスを脱ぐこと自体が目的ではありません。
女の子としてかわいくありたい人がいます。自分が女の子であることを、パンプスというわかりやすいマークを使って示したい層がきっといます。私がそうです。何を言われても、自分の意思以外でパンプスを脱ぐ気はありません。みんながみんなパンプス脱ぎたいと思ってるのは間違いだと思います。

だからといって、男の後ろを歩いたり、従来の古い考え方に甘んじているのはイヤです。だから、パンプスを脱ぎたい人を否定しません。なぜなら、その人が脱ぎたいと言っているからです。性差別というのは、自由がないからこそ起こります。その自由を、あなたの叫ぶ自由で押し潰して欲しくないです。フェミニストって、そういう考え方であるべきだと思います。

それこそ、パンプスを脱ぐことを強制されたら、女性の自由の剥奪であると思います。女性はある一定の方向にしか向けないのでしょうか。そうじゃないでしょう。パンプスを脱ぐ自由、履く自由。両方あって正解なのです。もし裸足でいたいなら?それでもいいでしょう。それが自由です。もちろん公共の福祉のような考え方は大事にしなければなりませんけれども。

「これは男が押し付けた考え方だ!」とか「誇張表現はやめろ!」だとか、そういうのを見て、毎回胸を痛めています。見たくないなら見なければいいのです。あなたの価値観です。でもそれを押し付けることはいけません。本当にやばい表現や考え方には、いつか大きな何かの鉄槌が下されます。あなたがその人を傷つけるなどして手を下す必要はありません。

もちろん、私の「女が女らしくありたいと願って何が悪い論」も、見たくないならもう二度と目に入れなければいいです。あなたが私をブロックすれば、私の考え方は二度と見れません。システムに誓って約束します。

私が言いたいのは、あなたの言う自由で、誰かの自由を傷つけることそれ自体が「差別」であるということです。

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なかみさん
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