「美しい顔」について本気で考察
私の大好きな歌手、土岐麻子さんが新曲「美しい顔」を配信リリースしました。
この曲の歌詞が、いつもの麻子節だけじゃなくて、深すぎてどこまでも沼に沈んでいけそうな、底恐ろしさをはらんでいて、めっちゃ好き(ここ大事)なので、考察することにしました。
昔と今と未来の価値観
話を始める前に、導入として、想像を膨らませるところから始めましょう。遠い時代のおしゃれについて、思いをはせてみましょう。
100年前、日本は大正時代です。資生堂の粉をはたいて、銀座で映画を見た後にコーヒーを飲むことがおしゃれだと言われていた時代でした。当時の女性を指す言葉として、のちに現れたものに「モガ」や「モボ」というのものがあります。
限りなくモガな資料です。浅井カヨさんは素敵な方なので、気になった人はぜひ調べてください。
話は戻りますが、現代でおしゃれと言われていることは一体なんでしょうか。原宿の竹下通りで、タピオカを飲みながら、インスタグラムに載せる自撮りの角度を研究しているJK。とても今っぽいですね。しかも、今っぽくて、なんとなくそれをしていれば、おしゃれな感じがします。
ここからもわかるように、100年も経てば、生活の仕方やセンスは違うかもしれません。しかし、ミーハーな感じは時代を通じて同じような気がします。こうやって、時代を超えた感覚は、これからも残っていくんじゃないのか、というのは、きっと皆さんが同じことを思っていることでしょう。
では、楽しくなってきたところで、本題に戻りましょう。
この「美しい顔」のなかには、2019年の100年後が描かれています。おばあちゃんが望んだ美しい顔について、孫が語る、という形です。
全編を通して描かれるのは、価値観の違いです。本人は、自分の望んだ美しい顔を手に入れるために、整形という方法をとりましたが、彼女の孫は、その祖母の遺伝子を「美しい」「誇り」だと言っています。
しかし、それを本人がどう思っているかはわかりません。自分の中の美というのは、あくまで本人の経験と感性によって育まれていくものです。さらに、ある程度、社会の「美しい」というのは一方向を向いています。それに準じても、本人の「美しい」は変わっていきます。
「美しい」に、明確な基準はないのです。
さらに、もしかしたら、本人は自分の顔を美しくしたかったわけではなくて、なにか違う理由があって作り替えたかったのかもしれません。ということで、歌の中に出てくる少女はなぜ整形をしたのかについて、二つの仮説を立てました。私がこの仮説を立てるにあたって、読み解く必要があると思ったキーフレーズは、動画内の#2:17から聞くことができます。(版権の関係で載せることができず、申し訳ありません)
その① 自分を醜いと思っていた(内面的要因)
孫は、彼女のことをとても弱い存在であったかのような語り方をしています。彼女がもっと誇りを持てればよかったのに、と鏡を見ながら考えます。そして、その祖母の遺伝子を「美しい」とも思っています。100年前のコンプレックスに、孫は美しさを見出していたのです。
しかし、100年前の彼女は、自分の醜さ、もとい「美しさ」とはかけ離れていることを、相当ストレスに思っていたようです。こうしたことからストレスを感じるということは、周りの影響が強いと考えられます。
「周りの人はあんなに美しいのに、私ばかりが醜い」
「ほかの人はあんなに輝いているのに、自分に自信のない私はなんて醜いんだ」
時代は、常に一つの方向をむいています。それに沿っていることが美しさのすべてではないのに、彼女は過敏に気にしすぎてしまった。周りとの違いが、自分の中から次第に誇りを薄れさせていき、その結果の整形なのではないでしょうか。嵐にも似た時代の渦が、彼女を流した。船というのは、それを乗り切るための船にも似た、彼女なりの救済措置だったのでしょう。
つまり、周りや時代が彼女の内側を侵食し、自分がそれに対して過敏になりすぎてしまった、という説です。
その② 周りからの過干渉
嵐を乗り越えるというのは、容易なことではありません。自分が関わりたくなくても、受けてしまいます。これを、人の言葉と置き換えてみましょう。
本当に、彼女が顔を変えたいと思わせる要因が、人の言葉にあるとしたら、それはいじめや賞賛が原因でしょう。
周りは、極端な彼女の容姿(それが一般的な「美しい」であったか「醜い」であったかわかりませんが)に、言葉を投げかけます。
「あの子は美人よねえ、性格はどうなのかしら。美人は悪いっていうわよね」
「あいつ美人だよなぁ、やってみてえなぁ」
きっと彼女が一般的に美人と呼ばれる部類の顔をもっていたのなら、こうして偏見や性的な目にさらされていたでしょう。その逆も然りです。
「おいブス!きたねえ面だな」
「豚、見てるだけで腹立つ」
なんて、ひどい言葉を投げつけられたら、誰だって逃げ出したくなります。
悲しいことですが、ここで描かれている彼女と同い年である私は、中学時代にいじめを経験しています。ネット黎明期ですから、twitterを利用したいじめも行われていましたし、それを制御するシステムも、今より未発達でした(今でも完ぺきとは言えませんが)。つぶやくことで鬱憤を晴らすことができるのですから、言葉はストレートになってしまいます。
今、私は貶された自分の顔を化粧という方法で美しく見せています。しかし、彼女はそれでは癒しきれないほどの醜さを自分の中に持っていて、整形という方法でしか、それを癒す、もしくは隠すことができなかったのではないか、というのが、2つ目の仮説です。
孫の誇り
ここまで、なぜ整形という方法をとらざるを得なかったのか、ということについて考えてきました。ここからは、その醜いと思われていた遺伝子を誇りに思っている孫について考えてみましょう。
世界には、もちろん色んな顔があります。その中で、美人の部類も様々です。それに応じて、様々な美しさも生まれました。二重ぱっちりのお人形さんのような顔や、海外モデルのようなシュッとしたスマートな顔、いわゆるトレンド顔など、美人と呼ばれる人の部類は数知れずあります。
つまり、今や美人という言葉は存在しないと言っても過言ではありません。きっと、未来になればなるほど、細分化が進んでいくでしょう。昔の学問がそうであったように。
孫は、祖母の気に入らなかった顔を誇りに思っている、ということは、彼女の顔は、きっとそこまで醜いわけではなかったのでしょう。もしかしたら、醜くても、自分に自信を持てるような性格だったのかもしれません。
ここで、もうひとつの仮説が立ち上がります。
その③ 目指しているものがあった
彼女は、果てしなく高い理想を追い求めていたのです。自分と対象的なものほど、人間は惹かれます。恋愛や、ファッションがそうです。そもそも一緒だったら、目指しませんし。自分とは限りなく反対側にあったものに近づく方法が、整形だったのでしょう。
ここで、自分と対象的とはどういうことか、という疑問が浮かびましたが、そこは結局のところ個人の尺度でしかないので、彼女自身の反対側があったということにしておいてください、そうじゃないと私が考えすぎて逆流性食道炎を起こしてしまいます。そっとしておいてください。
さらに、対象的であるということは、つまり、自分以外のなんらかの要因が絡んでいるということになるので、結局外的要因によるところが大きいということになります。
人は、自分以外のなにかと接することを避けることはできません。もしそれがなかったら、自分を人間だと認識することはきっとできないでしょうし。無人島に赤ちゃんのころから住んでいて文明をしらない、というなら、それは人間ではなくて動物です。
以上のような要因の共通点を並べると、
・いずれも外的な要因があるだろう(時代、人、憧れなど)
・彼女はあまりにも気にしすぎた
これを踏まえて、土岐麻子さんが伝えたかったことは、「誇りを持つほど美しくなる」ということでしょう。
twitterでもよく見かけますが、「かわいい」といわれるほど化粧のノリがよくなるというツイートがありますね。あれは一種のプラシーボ的なものも働いているんじゃないかなーと思います。結局、自分でも他人でも、自身のことを認めてくれる存在がいれば、人間はおのずと美しくなるのではないでしょうか。
以上が考察になります。至らない点が多いかとは思いますが、言葉にすることで私がすっきりしたので、それでいいです。この曲が気になった人は、ぜひCDを買ってください。
土岐麻子「PASSION BLUE」、10/2 発売です。
レッツ!クマ囲みライフ!