実は大切にしたほうがいい隣人関係。ドイツ人は日中、日韓関係をどう見るか。

このブログでは、ドイツに在住して長い日本人の筆者(男)が、ドイツで婿養子になり、働き、子育てをしながら、日々の生活を言語化します。

非東アジア圏の海外に行かれた事のある方なら、経験されたことが多いであろう、どこから来たの?という質問。どこから来たの?という、*W質問ならまだしも、いきなり、中国から来たの?と聞かれることもある。これを人種差別か捉えるかどうかの議論もよくあるようだが、それはここでは扱わず、私達、日本人が非東アジア人からどう見られているか、外見的な部分を考えていきたいと思う。

結論を言うと、このような質問をする人にとって、正直、あなたがどこから来ようと、どうでもいいのであって、あわよくば、自分が詳しい国から来ていれば、会話を続けて、さらにその先の思惑(=ゴール)につなげたいと思う人が大多数だろう。もし、質問者が、中国語を勉強していて、あなたが中国人なら、その質問者は喜ぶし、アニメが好きな質問者は日本人のあなたに興味を示すだろう。

もちろん、それらの例に当てはまらなず、東アジア人を嫌悪する人もいるのは間違いない。それは、外見的特徴から、文化的側面、または、個人の過去の経験により、特定の人種を避けてしまうという、人間、自然界では本質的なことであり、これはどうしようもない。とりあえず、この手の事は今回は無視する。

要は、我々が日本人でいられるのは、非日本人がいるからであり、文化的、外見的特徴、言語的に近い、中国人、韓国人という、にている存在が、我々の存在に与える影響はかなり大きい。

我々を日本人たらしめるのは、非日本人が存在するからであり、もし日本人や、人種、国籍による区別がなければ、さらに他の区別が生まれることになり、それが行き過ぎた結果が差別である。

話が再びそれてしまったが、われわれを日本人たらしめる他の非日本人の存在が大切な理由は他にもある。彼らは我々を日本人であると区別し、認識するのである。この区別に関して、良し悪しは関係なく、野菜の区別と同じである。

もちろん、個人の好き嫌いは除いて。

人参を人参たらしめるのはキャベツや椎茸であって、さらにその人参を人参として認識する人間の存在により、人参は人参でいられる。

私も今まで、たくさんの国籍、人種と会話をしてきた。例えば、イスラム系の人と話すときは、すぐにトルコ人とは決めつけず、相手にどこから来たのか?と聞き、イスラム圏なら、私が知ってるごくわずかなアラビア語で挨拶して、トルコ人の場合も同様で、何とかして、会話を繋げようとする。もちろん、人にもよるが。

しかし、私がドイツ人の家内といるときに、街で中東系の人をみたときは、彼らのことをトルコ人と呼ぶ。これは、実は非常に繊細なテーマなのだろうが、二人のプライベートのときは便宜上どうしてもそうなってしまう。

これは、おそらく、我々日本人が中国人、韓国人として欧米人に映るのと同じではないだろうか。つまり、我々は大きなカテゴリーでは、東アジア人であり、現在の政治的な状況を除き、同じような文化的、言語的背景を持つ民族なのである。

我々三兄弟はそれでも、独自性を出してどうにか、他人に違いを認めてほしいと強く願っている。おそらく、世界中どこの国の人間も自分の国にプライドを持っているので、できれば、他人に他の二人の兄弟より良く見られたいと思っているはずだ。

しかし、決して忘れてはいけないのは、他のに兄弟の存在であり、かつ、我々を〇〇人として認識してくれる他の人達だ。 

もちろん、様々な思想があるのが世の常であり、極右、極左等といった政治的な思想もある。もしそのようなどちらかに偏った考えを持っている人がいたら、なぜ自分は右か左かでいられるのか?それをきちんと考えるべきではないだろうか。

結論として、ドイツ人にとって我々がどこから来ようと正直言ってどうでもよく、人して理解できる相手かどうか、かつ、我々(ドイツ人)をリスペクトしてくれるかどうかと言う方が大切なのだ。それが行き過ぎるとき、自己利益の追求により、再度政治的な対立が生まれ、それが戦争となって形になる。

人間は相対的な生き物であり、時間こそが唯一無二の絶対的存在かつ、平等な存在なのだ。

*ドイツ語では、W-Frageといい、Wo(どこ)Was(何)Wann(いつ)Wie(どのように)Warum(なぜ)で始まる質問で、これらに対する答えは「はい」か「いいえ」ではなく、付加情報が必要になる。

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