感想とか勝手な考察 『BEANS!』(広島市立広島商業高等学校2021.12.18)
舞台は、卒業公演を目前に控えた演劇部。
卒業公演の演目は、部員のひとりが亡き祖母への想いを込めて書き上げた、ある母子の物語。ところが、脚本が決まり芝居をつくる段になって、これまで演出を担っていた主要な部員が、他の部員達に理由も告げずに去ってしまった。一方、母親役の役者は「役の気持ちがわからない」と苦悩する。芝居を作りながら、自分の作品が、みんなを振り回しているのではないか、と自問する執筆者の部員。なんとか、卒業公演を成功させたい演劇部の面々。
それぞれの立場や気持ちを等身大に描きながら、とても深く考えさせられる、素晴らしい作品だった。
素舞台のうえで稽古着姿の部員達が芝居作りに取り組む姿は、前回作品である『ねがいましては』(2021年全国高等学校演劇大会優秀賞受賞)と一見よく似た印象だ。
しかし、芝居が進むにつれ、そのテーマの違いにはっとさせられた。
『ねがいましては』は、コロナに翻弄される《いまの自分たち》と、戦時中に自由を奪われ誇りを踏みにじられた《母校の歴史》とをオーバーラップさせながら紐解いていくストーリーだった。不屈の精神で再び立ち上がった先輩たちを称え、心折れそうな《いまの自分たち》を再び奮い立たせる!という力強いラストには、とても感動した。
一方、今回の『BEANS!』は、それとは違い、とてもデリケートなテーマを扱っていた。
演劇部が上演する予定の脚本は、部員のひとりが祖母をモデルに描いている、という設定。祖母は、原爆投下直後、炎の中で泣き叫ぶ我が子を助けられなかったという経験を持っていた。その悲惨な経験について多くを語らないまま亡くなってしまった祖母に対して、孫である部員は「生きている間に、ちゃんと話を聞いておくべきだった」と後悔を抱えている。
昨年は被爆者団体を代表してきた坪井直さんも亡くなり、被爆体験をもつ「語りべ」の減少は、被爆地ヒロシマにとって、いよいよ抜き差しならない問題になっている。
「我が子を助けられなかった母親」を演じる役者が「そんな母親の気持ちなんてわからん!」と苦渋の声を上げる。娘役を演じる役者も「被爆して炎に焼かれる経験なんてないのに、私だってわからんよ」とぼやく。
広島に生まれ育ったからこそ、原爆の恐ろしさを語り継ぐ使命を負いながらも、被爆体験を持たない自分がその役を担うことへの葛藤も同時に抱えているのだと感じた。
「思い出すだけでつらいんよ!そっとしておいてほしいんよ!」
わけも告げず、去ってしまった部員が叫んだ言葉に、胸が締め付けられた。作中具体的に語られることは無いが、彼女は、祖母と同じく誰にも知られたくない何かしらの辛い経験をしている、《当事者》だ。
過去の悲劇を繰り返さないために、語り継がなければいけない。そのためには当事者の話を聞かなければいけない。
けれど、みんながみんな、進んで語り部になってくれるわけではない。過去を思い出すことすら身を切り裂かれるような辛いことで、その心の傷を誰にも触れられたくなどない、とかたく口を閉ざす当事者もきっと少なくないのではないか。
そんな中で、「あなたの話を聞かせてくれ」と懇願すること自体が、ある種の暴力性のようなものを含んでいるのではないか。心を閉ざし、拒む彼女に対し、「いっしょにやろう」「話を聞かせてくれ」と集団で迫るシーンには、正直、悪意のない《無自覚の暴力性》を感じ、私は恐怖すら覚えた。(だからこそ、彼女がその空気に押し切られることなく、最後の最後、誰も居なくなって信頼できる相手とふたりきりになるまで頑なに沈黙を守り切った展開は正しかったと思う)
冒頭、真っ青な舞台のうえで、雨に打たれながらたたずむシーンがある。手を伸ばすが、繰り返しはねのけられ、打ち返される人の姿もあった。暗く、意味深で、印象的なシーンだった。けれど、劇中で、その冒頭のシーンを明確に説明する場面はない。あのシーンは一体なんだったのか。
講師の先生は、そのシーンについて、「雨の音はクリアなものよりも、学校の雑音が入ったリアリティのあるものにした方がよいのではないか」とのアドバイスをされていた。でも私は、それは違うのでは?と疑問が残った。あの「雨音」は、本当に、ただ学校から眺める「日常の雨の風景」の描写だったのだろうか?
これは勝手な解釈かも知れないが、私は、あの「雨音」は、広島で甚大な被害をもたらした、西日本豪雨を暗に示しているのではないか、と思った。
あの豪雨は、地域の人の心に、いまもほんとうに深く大きな傷を残している。
私は2018年の末に広島に移住したのだが、その頃はまだ行方不明の家族を探している人や、自宅を失い先行きに不安を抱えている人の話も耳にすることが結構あって、山口に住んでいたときとは比べものにならない、「被災地」に残る深い傷を生々しく感じた。
「そっとしておいてほしいんよ!」という彼女の叫びを聞いたとき、そのことが脳裏に浮かんだ。
もし私の解釈が間違いでないのなら、あの冒頭の「雨音」は、より印象的で、象徴的なものであるべきだし、雑音は入らない方がきっといい。
そんなことを、思っていた。
また、ラスト近く、かたくなにその芝居をつくることを拒んだ部員を、実際の客席に座らせ、芝居を見せるシーン。ここでも講師の先生は、「額縁(舞台の枠)を出る演出には、必然性がないといけない」とアドバイスしていたが、私はあれにはまちがいなく必然性があったと思う。
『BEANS!』は、「当事者に代わって語り継ぐことに対する葛藤と覚悟」の物語だと思う。これまでも、広島市商が原爆をテーマにした上演をするとき、客席には地元の、被爆者の方がいただろう。原爆を体験した当事者が客席にいて、舞台上では当事者ではない高校生が、それをテーマにした作品を上演する。そこには、きっと私たちが想像する以上の重責があるに違いない。
「客席で、観てて」
そう言って舞台に戻っていく彼女の後ろ姿は、「当事者の前で、当事者ではない自分が代弁者となること」への覚悟が表現されていたと思う。
『BEANS!』で描かれていたのは、原爆投下に限らず、津波や豪雨といった自然災害、事件や事故、様々な過去の凄惨な出来事を語り継ぐとき、表現者が必ずぶち当たるであろう普遍的な苦悩だったと思う。
顧問のK先生は、毎年原爆をテーマにした作品を作り続けているけど、作品を作る前にはいつも部員達とやりとりしながら、いまの高校生の目線でアプローチできる切り口を工夫されている、というのを聞いたことがある。
だからこそ、いつもK先生の作品には、《一人称の語り》という、圧倒的な説得力を感じるのだと思う。これは、ほんとうに凄いことだと思う。
素晴らしい作品だった(想いが溢れて文字数が多くなったのでnoteに書いちゃうくらい)。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?