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こんばんは

夢と希望を胸に秘めて日々を生きてるしがない大学生です。

みなさんには「推し」がいますか?
実は、寂しいことにわたしには推しという感覚がわからないのです。そこで今日は「推し」についての話をしたいと思います。

さあ始めます。
推しの話をしよう。

「推し」という言葉を日常で聞くようになったのは5年前くらいからでしょうか。感覚的に数字を上げたので本当のところは分かりませんが。わたしはそのくらいかなと思います。日常に「推し」という言葉が定着してからというもの、よく聞かれることがあります。

「あなたには推しいるの?」

これほど困る質問はありません。なんてったって、わたしには推しなんてもの存在しないのですから。
でも逃げ道がひとつあります。この質問をしてくる人にはたいがい推しがいます。だからわたしの話題から逸らしつつ、相手の推しについて語っていただけばいいのです。結構使ってます、この手。

(そんなこと言いつつも、わたしもこのnoteの冒頭で皆さんに推しの有無を訊ねてしまってますよね。矛盾が発生してます。それに気がついて、ちょっとふふふと笑ってしまいました。ああ、すみません。話を戻しましょう)

でもいつも思うんです。
「推し」のいる日々とはどんな世界なんだろうなと。あといつも逃げばかりでは会話もつまらないんです。「推し」という存在の持つ人たちは、キラキラと楽しそうに話に花を咲かせてます。正直羨ましいと思います。そうやって心を踊らせる要素のひとつを自覚しているのですから。推しのいる人は自分を幸せにする術を持っている人たちです。

じゃあ、わたしの推しは何かなと考えます。
たくさん考えた結果、大好きな作家の綴る文章がわたしは大好きなんです。ああ、これを推しにしてもいいじゃないか!!そう結論に至ったわけですが、知人に一蹴されました。「コミュニケーションの場において推しを聞いた時、そんな回答求めてないし。話広げられないから。」と。腹は立ちましたが、確かにその通りだと思います。

コミュニケーションを図る際、本当の好きをぶつけていい時と、話を広げるための建前も含めた好きの掲示が大切なのかなと、大人の階段を少しずつ登っていく最中で感じております。

好きの程度ってありますよね。
わたしもかっこいいなとか好きだと感じていた時期があったなという俳優はいます。しかしそれを「推し」という存在にまで祀れません。もし「推し」と紹介したとした場合、きっとあの人の〇〇といドラマはどうだとか色々深められてしまうと思います。そこまでのめり込んでないので、わたし自ら推しという存在にあげてしまうのは申し訳ないのです。同じ熱量にもきっとなれません。

わたしの熱量のなさには定評があります。
高校時代、運動部だったのですが後輩から、「やる気があるのかどうかわからない」と指摘されたことがあるくらいです。わたしとしては、やる気満々で、熱い心を持っていたつもりだったのですが、どうも周りからはそう見えなかったらしい。同級生など近い存在のみんなは理解してくれていたようなのでそれだけは救いでしたが。

何にしてもわたしは全面的に熱くなることを恥ずかしがっているのか、静かに燃えるタイプなのか、実際に燃えていないのか。なんなのかは分かりませんが、一つに注げる熱量が小さいのだと思います。

ただし、好奇心旺盛な人間ですので。全体としては大きな熱量は持っています。ただそれが色々な方向に分散してしまっているのです。だから、ひとつの面を取り上げたら灯火が小さく見えてしまう。と勝手に自分では解釈しています。

脱線してしまいましたが、推しができない理由もなんとなく分かった気がします。

推しに出会えたらそれはそれできっと素敵だと思います。でもいなくたって楽しい毎日は送れています。

いつかきっと突如、わたしを貫くくらいの推しに出会える日が来ることを若干の期待を込めて。

推しの話は終わりにしましょう。

では、また。

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