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地域で生きるということ



「新日本風土記  冬を食べる あの手この手の物語」を見た



“古来、人々は恵みの薄い冬を越すため知恵を絞って食べ物を獲得、それをおいしく食べるための工夫も手を尽くしてきた。食への知恵と工夫、意地とこだわりが織りなす冬の物語”(NHK HPより引用)

各地域の先人たちが古くから食べてきた食文化が興味深かった。
取り上げられていたのはこちら

 ・石川県加賀市の坂網猟の鴨
 ・広島県三次市のワニと呼ばれるサメ
 ・岩手県西和賀町の豪雪地の雪室で作る雪納豆
 ・長野県伊那市の水生昆虫のざざ虫の甘露煮
 ・北海道浦幌町カムイチェプの鮭とば
 ・茨城県常陸太田市の凍みこんにゃく
 ・石川県七尾市の激減したナマコ
 ・山形県米沢市生産者が減る雪菜

近日中に再放送もあるようなので、興味ある方は是非ご覧になってください。

それぞれにエピソードがあり、単独で1時間番組ができそうなくらいだったが、岩手県の西和賀が出たので今日はその話。



西和賀というところで生きていく

岩手住みの私にとって、西和賀といえば積雪量が2m近く積もる豪雪地だ。
もちろん多い時はそれ以上で、冬は雪に閉ざされる。
秋田県との県境にあるこの土地は、奥羽山脈を抱え大変自然豊かな土地であるが、逆に人々の暮らしは過酷であったといっても過言ではないだろう。

紹介された地域は旧沢内村で、僻地で貧しかったが故に、助け合って生きていく精神が強い地域という印象がある。実際沢内村は、全国に先駆けて乳児や老人の医療費無料を実施し、乳児死亡0を実現した自治体であり、地域医療のモデルとして知られている。


こちらは冬の錦秋湖


その西和賀町の案内人として出ていた中村一美さん(82歳くらい)。数年前に愛妻キミィさんを亡くして、現在は一人暮らしをしている。今も毎日亡き妻の墓参りを忘れない愛妻家だ。

1月は凍み大根作りと、大根を皮を剝いて外に吊るして干す作業をしていた。その脇で記者が素朴な疑問なんですが…と質問をした。
「収穫してそのまま売れば、売れるわけですよね?」

「でもここは、生で売るより加工することで職場ができる。出稼ぎに行かなくても、農業で西和賀でも生きれるんだって何かを求めていた。自分の仕事に楽しいと思って生きた方がいいべしさ。」


実は、昨年末にやはりNHKの「限界集落住んでみた ~両沢編~」に中村さんが出ていた。今回、新日本風土記を見て「あ、あの方だ。」と気づいてはっとした。中村さんの集落は20世帯53人、65歳以上が32人を占める。

記者は中村さんが経営している味工房「かたくり」(農業・農産加工体験施設)の2階に、1か月住まわせてもらっていた。中村さんは30年ほど前から地域で採れる山菜や農産物などを加工販売している。

中村さんがそちらの番組でも話していた言葉が心に残っていた。
「俺はここで農業で、こういう山でも農業で生きれるものを、山菜とかを売りながら、生きれる術を作ってみたいという俺の夢がある。ここで事業を大きくすれば、ここで働くことができる場所ができる。」

二人三脚でそういった夢に伴走していた妻のキミィさんは、更にパワフルだった方らしく、産直を開設して商品開発をしたりして、地域の方々と一緒に村おこしに邁進していた。

今じゃ家庭料理にすぎなかった西和賀の“ビスケットの天ぷら”を、世に知らしめた立役者だ。ビスケットといっても西和賀で作っているビスケットというわけでもなく、ミスターイトウで出している昔ながらのビスケットだ。
豪雪地域である西和賀では、冬に買い物に行くのが大変なので、家にいつもあるようなもので、腹持ちいいものをと作ったのが始まりだったようだ。
地域事情により、普通はそのようにしては食べないであろう苦肉の策だった。
それを敢えて地域の名物とアピールした。
これが何故西和賀で生まれたのかという謎が解けたような気がした。


「限界集落住んでみた」の方に、東京から移住したまい子さん(40代後半)が今じゃキミィさんの跡を引き継ぐように工房をまわしている。
が、商売として考えると、手間がかかる割に儲けは少なく採算は厳しい。
効率的に手間を端折ってやり方を変えてみたら、味まで変わってしまったという山菜の仕込み。なので従来通りの手順で作業をしながら、他所から来たまい子さんは言う。

「お金になる、ならないとかじゃなくて、自分の食を繋いでいくため、家族のため、美味しいって思ってほしいなと(相手を)思う思いが凄いなあって。誰に褒められるわけでもない、この地でずっとやり続けてきたこと、その営み、私はそこに感動する。」

産直を通じて地域おこしに励んだ中村さんの妻キミィさんも、福島から嫁いで来た方だった。まい子さんもキミィさんが尊いと感じていただろう西和賀での営みに対する思いは一緒なのかもしれない。



地域の新しいあり方をさぐる

私の周り、親しくしている方は移住者が多い。岩手が好きで住み着いた人たちだ。案外、その土地に永らく住んでいる人たちが気づかないような尊いものに惹かれて、その土地に根を下ろすと決めたのであろう。

一方で、現実問題地方の過疎化は加速度的に進んでいるのは確かだ。
勤務していた森林公園も地域的には過疎化が進み、若い人はほぼいない。
公園ができた30年ほど前、地域の雇用創出として公園内に手打ちそば屋を作った。地域のお母さん方が働きに来ていて、とても繁盛していたが、そば打ちできる最後の方が70歳になったのを機に引退し、継続してそば打ちをしてくれる後継者が見つからなかった。私も一時、ほぼ強制的にそば打ちをさせられたが、とてもお客様に出せるような及第点には及ばなかった。
そば屋は惜しまれつつ、2023年11月で閉業した。



秋の名物
人気だったきのこそば




昨年末で森林公園を辞めた私は、複業フリーランスとして生きていくことを決めた。かといって、確証のある稼ぎの目途があるわけではない。
オンシーズンには、山菜やきのこをビジネスにすることは決めた。が、それ以外の部分でも、何かできることがないかを探るべく、現在人脈作りに励んでいる。

その一環として、紫波町の長岡地区で進められているノウルプロジェクトのむら育て人WSに2回ほど参加してきた。
むら育て人WSは長岡小学校跡の有効活用について、地域住民の方を中心に考え、検討していくというWSだった。



概要はクリックしてください




舞台となっている長岡地区は一次産業がさかんな地域であるので、漬物加工場、農産物の加工場を作りたいというニーズがある。
そこに関心があった。

食品衛生法が2021年に改正となり厳しくなった。
今や漬物は産直から姿を消した、といってもいいくらい出品数が減った。
食品衛生法の厳格な改正は、個々で生産していた“うちの味”であった漬物を淘汰した。代わりにHACCAPの条件を満たした、安全な決まった場所で生産しましょうという流れになっていくと思う。やがてそれは小単位である地域の人たちが、共同で作っていく“地域の味”と取って代わっていくのだろう。
長岡では、その加工場ができる前に、漬物作りのWSをしてみたら?などと、新しい動きが出始めている。

そういった流れが垣間見える中、西和賀の中村さんの言葉は深く胸に刻まれた。高齢化が進んだ一次産業がさかんな地域の今後の在り方。
仕事の創出、やりがいやコミュニティの維持という側面を果たす農産物の加工。簡単なことではないけれど、それをも凌駕する尊さを地域の方々が繋いでいってくれるなら、そこはきっと素敵な場所になるに違いない。


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