『花束みたいな恋をした』はなぜこんなにも素晴らしいのか
時系列まったくごちゃまぜで吐き出すので、観る予定がある方は観賞後に読んでください。本当に素敵な映画。
画像は「映画『花束みたいな恋をした』公式 @hana_koi_jp」から拝借。
2021.1.31
はじめに
土井裕泰監督最新作、『花束みたいな恋をした』を観た。作中の麦と絹は2015年、大学生のときに出会い、社会人となって2020年に別れる。主人公とは若干数年年齢がズレてはいるものの、自分も様々なカルチャーを愛し、人相応に恋愛をして、大学生から社会人となったひとりの人間。物語のターゲットとしてぴったりハマる存在だったと言える。逆に言うと、麦や絹と似た経験がないとわからないことがあるかもしれない。
けれど、年代や観たときの状況によって見え方が変わってくる多面性こそがこの映画の素晴らしさである、とも最初に言っておきたい。
この映画は、物語中に様々な固有名詞やモチーフが登場(本来、権利の都合でこういった作品を作ることは困難)し、前半・後半でそれぞれ役割を果たすといういわゆる"伏線"が張り巡らされている。このnoteでは自分が感じた伏線やモチーフについてまとめてみたい。一度しか観てないのでセリフはかなり曖昧、すみません。
ストリートビュー
2015年、大学生の麦は偶然ストリートビューに写っている自分を発見。大はしゃぎで友人たちに自慢する。光り輝く未来を思わせる。
2020年、別れた麦と絹は以前ふたりで行ったパン屋さんを思い出す。ふとストリートビューでパン屋までの道を辿る麦は、再び奇跡を発見。大学生の頃と変わらず屈託がなく、いい出会いと別れを遂げ晴れやかな青年の笑顔を浮かべる。しんみりしないのが素晴らしい!
押井守
終電を逃した麦と絹は、同じく終電を逃した社会人の男女とともに時間を潰そうと店に入る。そこでする映画に関する会話が秀逸で、マニアックという前置きから繰り出される『ショーシャンクの空に』、『魔女の宅急便』からの「(数々の実写版を生み出しているのはあなたたちか)」など印象深い。そんな中、麦は店内で『攻殻機動隊』の押井守を発見し、"神"と称する。帰り際、悶々としている絹は押井守について麦に話しかける。ふたりは同種の人間。「世界水準ですっ!」と笑う有村架純がとんでもなく可愛らしい。
トイレットペーパー
絹は母親にトイレットペーパーのおつかいを頼まれ、そのせい(おかげ?)で終電を逃すことになる。麦の家で一晩明かしたあと、バスに乗って帰る絹。麦の手には、渡し忘れたトイレットペーパーがあった。ふたりの手にそれぞれ握られるトイレットペーパー、出会いの予感を感じさせる。
その後、一回トイレットペーパーを持つ麦or絹が出てきたはずなんですがどんなシーンか忘れてしまいました。麦が持っていたら、まだ気持ちが絹にしっかり向いている象徴(だけど生活スタイルは変わってしまった)で、絹が持っていたら、出会った頃のようにカルチャーに触れて楽しい生活をしたいという気持ちが絹にだけあるという象徴なのかなと。
また、別れたあとパン屋を思い出す絹のモノローグで、「トイレットペーパー買えたかなぁ?」と再び出現。時事にも絡める脚本がニクい。
天竺鼠
チョイスが絶妙と言う他ない。ふたりのキャラクターにぴったり。俺も大好きです。
ミイラ展
ミイラ展に魅力を感じる絹と、別れたあと、実はミイラに引いていたことを告白する麦。ふたりの差はなんだろう。絹は何に魅力を感じていた?死してなおカタチを遺すミイラ。絹が麦に譲れなかった生活と関係がありそう。
ガスタンク映画
麦っぽい。というのもこの手の男子は大学生の頃にこういうことしがち。ガスタンクほどハイコンテクスト感はないけど、ポストや横断歩道の写真撮ってまわったり、なんとなくお寺の御朱印集めたり。男ってそういうもん。
靴
出会った頃、同じスニーカーを履いていた麦と絹。靴は足に纏うもので、スニーカーもふたりが同じ道を歩んでいた象徴。社会人になったふたりの家の玄関には、異なるふたつの革靴。ともに大人になったが、歩く道は変わってしまった。
別れのファミレスでは、あの日のふたりのように同じスニーカーを履いた男女が登場する。
イヤホン
最初のクリスマス、お互いに同じイヤホンを渡すふたり。ひとつのイヤホンを分け合って同じ音楽を聴くという、ふたりの世界を繋ぐモノとして登場した。
時が経ち、ふたりでやるつもりで買ったゼルダBotW(このチョイスもふたりにぴったりで最高)。いつしか純度の高いゲームに没頭できなくなった麦は、ゼルダをプレイしようとする絹を遮るためにイヤホンを使う。絹は「たまには一緒に楽しまない?」と誘うつもりで始めたと思うが、麦は仕事があるので断ってしまう。でも遮るために使うのは大好きな彼女がくれたイヤホンで…。互いに好きだけど、すれ違ってしまう悲しすぎる演出。
別れたふたりをもう一度引き合わせるのもイヤホンだった。そこのモノローグや、おっちゃんの言葉を吸収して自分の考えにしちゃってるところもふたりらしくて愛おしい。
じゃんけんと白いパンツとUNO
付き合った直後、「あ、白いパンツを履く人苦手です。彼氏が履いていたら少し嫌いになります」「UNOって言ってない〜!っていう人苦手です」と言葉を交わす麦と絹。このふたりのチョイスもそれぞれ"らしい"し、こういうユーモラスな会話ができるのも、たくさんカルチャーに触れて同じように生きてきたふたりだからなんだよな、と思う。じゃんけんに対する見解も同じ。てかそれ、俺も子どもの頃思ってたよ!と感動。
別れたあとにじゃんけんは、猫のバロンを引き取るのがどっちかを決めるときに出てきて、麦がパーを出して勝つ。それも麦が自分の気持ちを押し殺して大人になったという象徴かも。
ドライヤー
出会った日、濡れた絹の髪を乾かす麦。出会った頃ってそういうもんよねー!いつしかやらなくなってしまう。でも、嫌いになったからじゃないんだよ。と男性を代表して弁明したい。
本棚
初めて異性の家に行ったとき、本棚見ちゃうよね。本棚ってなんとなく人となりがわかって、感性の相性が測れるというか。ふたりが同じように作り上げていた本棚が、一緒に暮らしてひとつになるっていいよね。
別れたあと、バロンの取り合いでじゃんけんしたあと、本も一冊ずつじゃんけんで取り合ったりするのかなーと想像して楽しくなる。
パン屋
同棲する部屋に越したあと近所で見つけたやきそばパンの美味しいパン屋。やきそばパンってチョイスもいいし、引越したあと、近所を散歩してふたりで開拓していくって最高だよねと。
仕事に追われた麦が、思い出のパン屋が閉店したと報告する絹に酷い返事を場面があった。麦の余裕のなさと絹の気持ちと。あそこは結構なターニングポイントだったかなと思う。
別れたあともふたりはパン屋を思い出す。いい別れをしたという象徴だろう。結果として、麦も別れて良かったのだと思う。
きのこ帝国・cero・Awesome City Club・フレンズ
しつこいけど、これらアーティストのチョイスも本当に絶妙だよね。きのこ帝国の歌詞を文字って歌ってたふたりのシーン(特に有村架純)が本当に愛おしかった。「〜って知ってる?〜のことだよ〜」っておい。可愛すぎるぞ。こういうふたりだけがわかる変な会話ってするよね。
何気なく会話で出てくるcero、ふたりが成長を見届けるACC、別れのカラオケで一緒に歌うフレンズ。フレンズの『Night Town』が入ってるEPが出たのは2017年。2017年までは同じ気持ちで生きていたんだよね。このカラオケが楽しくて、麦は最後に悪あがきしたくなっちゃったんだろう。フレンズには個人的に思い入れもありぶっ刺さった。
クーリンチェ
「クーリンチェもう終わるよ」と伝説的作品が終わってしまうことを危惧する絹と、もうそんなことを気に掛ける余裕がない麦。この手の会話、何回もしたことある気がする。
ゴールデンカムイ
出会った2015年に第1巻が発売されたゴールデンカムイ。ふたりが大好きだった漫画のはずだが、13巻が出ているのに俺は8巻で止まっているという麦。時間の経過と気持ちの変化を、漫画の単行本で表現する台詞が本当に切なくて素晴らしい。「何も頭に入ってこないんだよ、パズドラしかできないんだよ」ってわかるよその気持ち。NewsPicks Bookを読むようになってしまった麦を見たときも思ったけど、NewsPicksもパズドラも、こういう揶揄した表現に使われるためなのに懐深いなと。職場に泊まる麦が、ぼーっとパズドラするシーンもあったね。何も考えたくないからやるんだよね。現代社会人への問題提起も孕んでいていい作劇だなと。パズドラの対極として扱われているのがゼルダということ。
今村夏子『ピクニック 』
圧迫面接を繰り返し受ける絹に対し、「その人は今村夏子さんの『ピクニック 』を読んでも何も感じないと思うよ」という麦。
麦の言葉を覚えていてなのか本能なのか、会社で理不尽な対応をされる麦に対し、「その人は今村夏子さんの『ピクニック 』を読んでも何も感じないと思うよ」と全く同じ言葉をかける絹。でも「俺も(今は)何も感じないのかもしれない」と悲しく吐き捨てる麦。
ふたりの感性はやっぱり一緒。大好きだけれど、それでも離れてしまうときはあって。
タトゥー
写真家の先輩とその彼女の肩に掘られたお揃いのタトゥー。それを見たふたりは「お揃いのタトゥーなんて一生別れないって思っていないと入れられないよね」と笑う。先輩カップルが別れたあとも同じように笑う。
でも、君たちみたいな素敵な恋愛で心に刻まれた思い出は、タトゥーよりもずっと深くて、なにをやっても消せないものなんだよ…と切なくなる。
ルーツ
男女の関係を成就させることは、それぞれのルーツを受け入れ合うことと同義だと思う。
麦のルーツは田舎。好きなこと(麦の場合は絵)をやって何者かになることを夢見て状況する。同棲した部屋にやってくる父親は花火師で、いつか返ってきて家業を継ぐであろう息子に仕送りをしていた。そういうルーツから、麦は結婚して安定した生活を送りたいという気持ちが根底にあったのだろう。
絹は都会っ子。広告代理店に勤める両親を持ち、裕福な家庭で自由に生きてきた。
絹の両親との会話はすごく印象的だった。オリンピック、ワンオク、お風呂。麦は大人になるために当たり前にお風呂に入る(社会人になる)ことを選び、両親を見てきた絹は社会のひとつの歯車になってしまうことを受け入れられず、一度得たはずの"ふつう"の職を自ら離れる道を選ぶ。
セックス
夜の営みに関する価値観は麦と絹、というよりは男性と女性で少し異なるのかなと思う。
出会った頃、麦の部屋で繰り返しセックスをしていたふたりは、同棲していつしか行為から離れてしまう。「数ヶ月セックスもしていないのになぜ結婚?」と言う絹。絹はセックスを愛の象徴のようなものだと捉えていると思う。
対して麦はというと、セックスはあまり重要視していない。これは愛が欠落したというわけではなくて、"セックスしなくてもいい関係に昇華した"ということだと思う。"好きじゃないからしない"ではなく、"好きだからしなくても良くなった"のだと。ずっと一緒にいるってそういうことじゃない?とこれもひとりの男性として女性に伝えたい。
結婚式とカラオケ、別れのファミレス
縁を結ぶ儀式である結婚式の場で、麦と絹はそれぞれ「今日別れるのだ」と友人に誓う。結婚式だからこそ、何か思うことがあったのだろう。
出会った頃のようにカラオケを経て、付き合った場所であるファミレスに入るふたり。あのとき座った席ではなくて、少し奥のソファー席。これもふたりが実は前進してるんだよという証か。
別れ話をするふたりの前に現れたのは、あの席に座る、あの頃のふたりのように同じ靴を履き、この上なく楽しそうな会話をする若いカップル。麦と絹は互いに昔を思い出し涙する。
固まっていたはずの決意が揺らいでしまう麦と、涙するものの意志は揺らがない絹。ここも男女の違いが現れていたと思う。優柔不断で楽しいことに流されてしまいそうな麦と、もう戻らないと決めている絹。思えばカラオケも、麦は「楽しい、こんな風にまだ遊べるのか」、絹は「最後だから吹っ切れていて楽しい」という風に見えた気がしないでもない。一度決めた女性の気持ちは強い。
タイトル
別れのとき、思い出を束にして、「今まで楽しかったよありがとう」とお互いに渡し合っているように俺には見えたよ。泣いた。
おわりに
劇場を出たとき、男の子ふたり(大学生くらい)が「女にめっちゃむかついたわー彼女いらないわと思った」と言っていた。お前たちにもいつかこの映画の良さがわかるときが来る!わかるようになってくれ!と願った。
一方、自分と一緒に観ていた彼女は、「あなたの気持ちが少しわかったかもしれない」と言った。俺も同じ気持ちだった。ありがとう、『花束みたいな恋をした』。
パンフレットは絶対に買った方がいいです。
SNS等でシェアしていただけると泣いて喜びます。Twitter(@mushitarou1)もはじめました。