初めての皇居ランで撃沈する【ランニング日記 12/14(月)〜12/18(金)】
12/14(月)
昨夜、京都から帰ってきて荷物を片付けていたら、寝るのが少し遅くなった。が、悲しいかな、普通に目が覚める。もう。
こどもたちも疲れているだろうと思い、ギリギリまで寝かせておきつつ準備をする。冷蔵庫を開けて、4日前に仕込んだ塩豚に「今日ゆでるからね」と声をかける。朝のテンションというのは少しおかしい。
5キロでいいんじゃないのと思いながら身体を起こし、それでもやっぱり今日も、10キロを走る。京都で買ったもの(にやにや)、実家、家族、遠い記憶、とらさん(犬)、いろんな感傷を抱えて走る。私は画一的ではないのだよな、と、なんか改めて思う。京都に帰り、ルーツみたいなものを考えたからだろうか。
12/15(火)
比較的早く寝たつもりが、がっつり寝坊した。でも今日は5キロの日なので、少し心に余裕がある。
季節は冬至を迎えようとしている。つまり、日はだんだん長くなってくる。また日の出の後に走るようになるのだろう。走りながら暗闇を抜ける、という感覚に気付いてから、あれだけいやだった「暗い中外に出る」ことが、少しだけ楽しみになっていたので、なんなら少し、夜明けが早まることが寂しくすら感じる。この意識変化ときたらいったいなんなんだ。
ぐんと寒くなってきて、スピードが上がるようになってきた。とにかく早く身体を温めようとするのだ。夏はキロ6分を思いっきり超えていたけれど、6分はしっかり切って、5分45〜50秒前後まで上がるようになってきた。気温にこれだけ左右されるというのもなんだかおもしろいなと思う。実際に体験しないとわからないというのは山のようにある。
最後の1キロは半袖で走る。寒い中半袖になるのもこれまたなかなか気持ちいいのです。サウナのあとの外気浴のような。もう何言ってるかよくわからないけど。
さて今日は都内のホテルで一泊。夫がテレワークで家で一日中会議をしていてどうしても気を使うのだけれど、たまにホテルにこもると仕事がはかどる。なんなら確定申告の準備をしようかと、たまった(たまりまくった)領収書も持ってきました…(やるかは知らない)(※土曜の私より:やりませんでした)
12/16(水)
金曜日かと思ったら水曜日。びっくりである。
銀座のハイアットセントリックに一泊して仕事に励んでいる。(そう、仕事に励んでいる。)せっかく銀座にいるのだし、と、思い、朝は初めての皇居ランをしてみることにする。
が。何を思ったか、朝食ビュッフェをがっつり食べてしまった。いつものように朝早くに走ればよかったのに、なぜかビュッフェを食べた直後に走ることにしてしまったのだ。
いや、「ごはんを食べた後は走ってはいけない」って、みんな頭ではわかっている。私だってわかっている。でも、私という人間はときたま、恐ろしく判断力を鈍らせる。「そうは言ってもまあ、ゆっくりなら走れるのでは?」と、無邪気に考えるのだ。なんでそんなこと思うのだろうと考えてもよく分からない。思ってしまうものは仕方ない。たぶん、脳に欠陥がある。(私には欠陥が山のようにある。)
「まあ、いけるのでは?」と、無邪気に走りはじめた結果、当然のことながら、まじで、吐きそうであった。最初1キロくらいは「いけるんじゃない?」と、思うのだけれど、だんだん、いやだめでしょこれ。と、なってくる。当然タイムなんて上がるわけがない。あの真夏のような、亀のようなスピードで走る。
走るんじゃなくてもう歩けば良いのでは…と、思うのだけれど、なんとなく私の中で「とりあえず走る」ということだけはもう最低限のルールとして定められている。「なにはともあれ、とにかく、走る。」逆に言えばそれしかないので、それくらいは守るしかない。
お堀の周りとはいえ、そこそこ立派な坂も待ち受ける。真横にびゅんびゅん車が走る。セーヌ川のほとりを走った時のことを思い出す。あの時もびゅんびゅん車が走っていて、川に降りて舗装されていないでこぼこ道を走るのか、車が真横を走る道路沿いを走るのか、迷ったものだった。
さて、普段はなにも持たずに走るけれど、旅先や、いつもと違う道を走るときはiPhoneを持って出る。
なので、今日は写真を撮りつつ走った。
おっしゃる通り。ですよね。
銀座に一泊して、朝から皇居ランなんて、最高の1日の始まりじゃないか!と、思うのだけれど、いやそういう日記になる予定だったのだけれど、人生というのは、そううまくいかない。ヤクルトの結果と同じである。
次からは、朝ごはんの前に走ろう…景色はたしかにきれいだったので、朝イチならもっと気持ち良いはずだ。車も少ないだろうし。
さて、ホテルでまたがっつり仕事します。がんばれわたし。
12/17(木)
昨日は本当に散々なランニングだったので、気を取り直して今日は10キロを走る。外に出ると、あほなのか・・・・・!?と、いうくらいに、寒い。寒いというよりもはや、痛い。肌に突き刺さる冷気が痛い。こんなペラッペラのジャケットで、下は半袖で、うっっすい手袋をして、どうやって走るのかね。と、つくづく思う。
寒いのでとにかく足を速める。なんとか体をあたためようとしているのだ。それでも冬の冷気は容赦なく肌を突き刺してくる。数100メートルを走ったくらいじゃまだまだ寒い。ダッシュとかした方がいいんじゃないだろうか。
でも終わってか確認すると、1キロ地点までは、キロ5分で走っていた。通常より1分近く早い。あほなんじゃないか。寒すぎてとにかく足を速めたらしい。
いつもなら1キロを越えたあたりで腕をまくるのだけれど、今日はまだ冷える。2キロくらいでようやく、腕をまくる。
今日もまた、キロ3分なのではという男性が颯爽と追い抜いていき、あっという間に見えなくなる。でもキロ3分マンも、それなりにしんどそうな、真剣な顔で走っている。どれだけ速く走る人だって、しんどいものはしんどいし、きつい人はきついのだろう。
村上春樹の『走ることについて語るときに僕の語ること』を読み返している。この間ホテルで読むものがなくなり、家にあるのにkindleでまた購入した。(最近このパターンばかりで、紙の本とkindleの両方を持っている本というのがめちゃくちゃ増えてきた…)
ここに、村上春樹が、元オリンピック・ランナーの瀬古利彦さんにインタビューした時のことが書かれている。「瀬古さんくらいのレベルのランナーでも、今日はなんか走りたくないな、いやだなあ、家でこのまま寝てたいなあ、と思うようなことってあるんですか?」と聞くと、瀬古さんは〈なんちゅう馬鹿な質問をするんだ〉という声で「当たり前じゃないですか、そんなのしょっちゅうですよ!」と言ったそうだ。
どれだけすごいランナーでも、しんどいものはしんどいし、走りたくない日なんて、しょっちゅうなのだ。どんなにすごい野球選手だって、野球をしたくない日なんてしょっちゅうあるだろうし、どんなにすごい小説家だって、書きたくない日もしょっちゅうあるだろう。だからすごいランナーでもすごい野球選手でもすごい小説家でもない私が、毎日毎日走りたくないのなんて、当たり前なのだ。あたりまえだのクラッカーだ。
でもそれでも、走る。例えば昨日のランは本当に散々だったけれど、それでも色づいた木々が映り込むお堀や、日比谷公園のイチョウは美しかった。ばかみたいにしんどかったけれど、振り返るとそういう、美しい景色がそこにあったことに、ふと気づかされる。
たぶん5年に1度くらいのペースだろうけれど、あのセーヌ川のほとりでのランニングみたいに、心楽しいランニングにも出会える。なんで走ってるんだろう、と、毎日ほとほと思うわけだけれど、でもまあ、そうやって、なんとかかんとかやっていきましょう、と、思っている。
冬が深まるたび、月間の平均タイムがたった数秒ずつだけれど、速くなっている。寒い中走るのもきっと、なにか意味があるのだろう、と、信じてみたい。
12/18(金)
ぐっすり寝たらしく目を覚ましたら5:25。しっかりアラームが鳴っているのに気づかなかった。
日が長くなってきたのか、東の空が少しだけオレンジになり始めている。暗闇の中出発、とはならなさそうだ。
昨日10キロを走ったので、今日は5キロ…と、行きたいところだけれど、水曜の皇居ランで7キロしか走っていないので(水曜は本当は10キロの日だ)、少し距離を伸ばして7キロを走る。
案の定、走り始めのスピードが速い。なんせさっっっむいのだ。自然に足が速まる。
でも冬のランニングというのは、夏と違って、だんだん身体があたたまってくる。それは身体的にはだんだん好転してくる、ということだ。夏は、ただでさえ暑いのに、どんどん身体も熱くなってくる。なんとなく、冬に走る方が、理にかなっている気はする。
もう最後まで、ジャケットを脱ぐこともない。脱ごうと思えば脱げるけれど、わざわざ脱ぐまでもない。それくらい、走り終わる頃にはちょうど良い温まり方をしている。汗もそこまで出ない。冬というのは基本的に、ランニングに適した季節だよな、とは、思う。
昔の恋をふと思い出しながら(走っていると本当に突然いろんなことを思い出すのだ)、時間が経ってしまえば、傷ついたことよりも、傷つけたかもしれないことの方が、痛みとして残っていることに気づく。
傷ついた経験は、時間とともに癒されていく。「あんなやつ」と思えるようになってしまえばもうそれで良い。特に嫌な感情も残らない。でも、意図せずして(多くの場合はそういうものだ)、傷つけてしまったかもしれないというその漠然とした記憶は、その頃よりも、より苦いものとして、奥底にまだ沈んでいる感じが、ある。たぶんそれは、いつまでもきっと、消えないものなのだろう。
私はいつも思うのだけれど、傷つくことよりも、意図せず(もちろん意図したとしても、結局のところ)傷つけてしまったことの方が、本当はずっと深い傷になる。例えばピッチャーが死球を与えてしまった時、その時は当てられた方がずっと痛いし、長期離脱になる可能性だってあるし、場合によっては選手生命がかかるほどの怪我になることだってある。その痛みと代償はあまりに大きい。
だけど、当てた方の痛みというのは別の形でずっと、もっと長く、残るのだ。それは現役を終えた後もなお、残っていくものなのだと思う。いつまでもずっと、消えない痛みとして。
だから例えば自分が深く深く傷つけられた時は、「同じくらい深く傷つけよう」としちゃやっぱり、だめなのだ、と思う。それはまたいつか自分に、跳ね返ってくるから。
そういう時は、走るしかないのだよな、と、思う。バットを磨き、振り、走るしかないのだ。
どれだけ寒い、冬空の下でも。