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【ランニング日記 3/15(月)〜3/19(日)】走り始めて4年たってとうとうダンベルを買う

3/15(月)

5時半に起きるともう空が明るくなり始めている。昨日は久々に家族で神宮へ行き、そのままみんなでごはんの準備をし、あとは各々好きなことをして、22時前には寝た。でも身体がまだ外出にあまりなれていないのか、午後ずっと出かけて帰ってくると本当に体が疲れている。これで(野球)シーズンを乗り切っていけるのだろうか。

外に出た瞬間は少し寒いけれど、走っているうちにちょうどいい体感温度になってくる。なんというか、体の底からエネルギーが湧いてくるのを感じる。

…と、思ったところで気づいた。これは昨日神宮で食べて飲んで蓄えたエネルギーなのではないか。心なしか身体が重い気がする。走りながらものすごい何かを燃焼している感がある。まずい。

でもまあとにかく、気温も本当にちょうど良く、かなり気持ちよく走ることができた。途中、キロ3キロマンがまた颯爽と追い抜いていき、私はキロ3キロ万よりおそらくだいぶ手前で折り返したはずが、折り返してからまた颯爽と追い抜かれていった。単純計算で、私が10キロ走る間にキロ3キロマンは20キロ走るのである。たぶん私がラストスパートをかける頃には、もうおうちでゆっくり休んでいるのだろう。脂肪も燃焼しまくっているのだろう。(そもそも脂肪なんてものはきっとついていない。)私もがんばろうと思います。神宮で食べすぎている場合ではない。

そういえば今日は日焼け止めを飲み忘れたけれど、サングラスはちゃんと持ってきた。あっちを持ってきたらこっちを忘れる、とういうのは本当に私が得意とするところではありますが、まああっちを忘れなかっただけよしとしなければならない。だって私なのだから。

さて今週のお供はフィッツジェラルドの『冬の夢』という短編集です。

フィッツジジェラルドはもちろん『グレート・ギャツビー』が言うまでもなく一番の傑作なわけだけれども、それに行き着く前に書かれた短編集が、これを彷彿させるような、刹那に満ちた物語でほんっっっっとうに面白い。100年近く前の物語だけれど、古さみたいなものは全く感じられない。これくらいの時代のアメリカの小説が私は本当に好きなのですが、こう言うのを読んでいると、普遍的なものというのはあるんだなとつくづく感じさせられる。そしてある一定の年代(世代でなく年代)が共通して持つ、焦燥や痛々しさというのはいつの時代も存在するな、と、思う。

そんなに堅苦しくなく読めるので、ちょっと古い本も読んでみようかなという人がいたら本当にぜひ読んでみてほしいです。

3/16(火)

久々に、5時前に目が覚める。夜明けが早まるにつれて体内時計も早まってきたらしい。単純だ。

それでもまだ眠くて5時半頃までごろごろし、なんとか身体を起こす。息子が、マンションの友達と6時半に待ち合わせしてランニングしてくる!と、言っている。どんな体力だ。しかも制服で走るらしい。どんな体力だ。

とにかくそれまでに帰ってこなきゃいけないので、早めに着替えて準備をする。今日は5キロの日なので気持ちは楽だ。

Apple Watchの充電がなぜかできていなくて、仕方がないのでiPhoneをポケットに突っ込んで走る。いちいち取り出している余裕はないので、自分のペースを確認せず走る。どうなるかなと思ったら、少し遅いくらいで、だいたいいつも通りのペースだった。それなりに体にこのペースは染み付いているのかもしれない。

この前、銭湯のサウナで流れていたお昼のワイドショーをふと思い出す。

父親くらいの年齢の男性キャストと、父親くらいの年齢の男性コメンテーターが、メーガンさんとお父さんの確執について話している。

コメンテーターは、「お父さんは娘さんとお孫さんに会いたいだけなんですね、こんな些細なことで、もう絶縁だと言ってしまうようなメーガンさんの気持ちがちょっと理解できないのですが…」と、とにかくメーガンさんに非があるような話し方をしている。「お父さんはかわいそうだ」「王室の品というのは…」云々。

それが「些細」であるかどうかは本人たちにしかわからない。わからないからこそ、一方的にメーガンさんに非がある、と言えるわけはない。父親世代のキャスターやコメンテーターが「お父さんがかわいそうだ」と言うように、「娘」の立場である私からすれば、そういう確執なんていとも簡単に生まれるだろうと想像はできるし、孫に会わせたくない、と思うことだって、そりゃあそれくらいあるだろう、と想像できる。

でもそのキャスターとコメンテーターの会話の中には、そちら側からの視点は一切ない。お父さんはちょっと気の毒ですね、という形で話は進んでく。当然だ。二人とも、「娘」の立場に立ったことはないのだから。そして、その番組を作る、意思決定権を持つスタッフのほとんどが、「娘」の立場にはなったことがない、男性なのだろう。

私はなんだかいてもたっていられず、目標の9分を待たずサウナを出てしまった。

ああ、こういうことなのか、と、私は思う。意思決定の場に女性がいないということは、こういうことなのか、と。その視点が本当は一方通行だとしても、「それが総意」だとその場で決定され、「そういうものなのです」と、世間に流されていく。あたかも、それが世間の「総意」であるかのように。

私は基本的には「そういうものだ」と、つい環境に自分を納得させながら生きてしまう人間だけれど、でもそれで少なからずの人が不条理を被る現実があるのだとしたら、私がしてきたことも誰かを傷つけることだったのかもしれない、と最近よく考える。わきまえすぎず、生きていける強さを少しは持っていこう、と、そう思う。

さて外はすっかり明るくなり、走っていても本当に心地よい気温になってきた。この季節は全くもって長くは続かないので、今だけの時間を大事にしていこう、と思う。いや、走りたくはないんだけども。

3/17(水)

10キロ走る。が、朝から撮影のため、バタバタしていて日記書けず。とにかく良い撮影でした。ゲストのことはすぐ好きになるけれど、また一段と好きになってしまった。アップできるのが楽しみだ。

3/18(木)

5:20頃に起きると、外がもう明るくなり始めている。あれだけ夜明けが早くなるのを心待ちにしていたのに、いざこれだけ早くなると、なんだかちょっとさみしくなってくる。いや、さみしいと言うほどではないけれど、なんだろうか、起きる時間が遅くなっているような焦りみたいなものを感じる。いったいなんなんだ。

明るくなるのが早くなってから、こどもたちが起きてくる時間も早くなった。体内時計というのは素直なのだ。私ももう少し早く起きて、また夏に向けて少しずつ外に出る時間を早めていこうかな、と思う。

寝起きの夫と、昨今の電通についてなどなど話していたら、外に出るのがすっかり遅くなってしまった。6時を過ぎてからようやく外に出る。もうすっかり外は明るくなっている。(ああ今日も日焼け止めを飲み忘れた)

昨日の撮影を思い出しながら走る。私は自分を「犠牲」にしてまで、家族のことを優先させてちゃいけないな、といつも思うけれども、でも「家族のため」が、自然と「自分のため」になることだって、もちろんある。家族が仲良くごきげんに過ごすことができれば、それはもちろん自分だってハッピーなのだから。誰がなんと言おうと、その家族のしあわせは、その家族にしかわからない。「自分のためだけに作ってもらったおべんとう」を本当にうれしそうに食べながら、「私が好きなものは長女も好きなんです。だからこれ作ってあげよう!」ってにこにこ話してくださるゲストを見ながら、そんなことを思い出した。ほんとうにすてきだったな。

さて今日は5キロの日だけれども7キロまで距離を伸ばす。走れる時に走っておく、これが鉄則。もちろん無理ない程度に。ところでそれにしても全くもって体重が減らない(体型もさして変わらない)ので、ちゃんと筋トレも始めようと思っている今日この頃です。

3/19(金)

キロ3キロマンとすれ違う。今日は私が往路、キロ3キロマンは復路、というすれ違い方だった。これが逆の場合、キロ3キロマンはどこか遥か遠くの地点で折り返し、しばらくしてから私を颯爽と追い抜いていく。ところが今日みたいなすれ違い方の場合、当然のことながら、二度とキロ3キロマンに会うことはない。なんせ私の倍のスピードで帰っていくのだから、私がキロ3キロマンに追いつくことは一生、ない。いや、だからなんだというわけではないのですが、ほんっとに速いなキロ3キロマンは、と、つくづく思った話。

ところで、ヨドバシドットコムでダンベルを注文した。走り始めて早3年…いや、週に1,2回のペースで走り始めた時を含めるとたぶん4年くらいになる。なんでも理解するのに時間のかかる私は、走り始めて2年くらいで、「走るだけじゃ痩せない」というこの世の真実に気づくことになったわけですが、4年たってとうとう、「走るだけじゃ体型すら変わらない」という真実にも気づくこととなった。体型を変えるならやっぱり筋トレが必要だし、そして走るためにも(というか走り続けるためにも)良い筋肉というのは必要なのだ、と、ようやく気づいた。漫然と走るだけでは何も変わらないのです。走ってりゃいいというもんではないのです。(自分に話しかけています。)

私は本当に何事も、しっかり自分の中で「腑に落ちる」までにしぬほど時間がかかるのだけれど(当然、気づいた時にはもう手遅れだよということが山ほどあったように思う)、まあ本当に、こうして身体を動かしながらでしかわからないのだろう、と思う。そして今回37歳にして身をもってわかったことというのは、健康というのは「これだけやってりゃ大丈夫」というものはないんだな、ということです。毎朝走るだけで「健康」の全て手に入るわけではない。当たり前よね、走るだけ走ってスナック菓子食べ続けてたらそれは健康ではない。

あと、なにかを続けていると、それに付随するものも調整したくなってくるのだということ。走っていればそのうちに、食べるものやほかのトレーニングにきをつかいたくなってくる…4年くらい経てば。

と、こういうことも、たぶん普通は例えば走り続けて1ヶ月もすればみんな気づくのかもしれない。でも私はそれに4年かかるわけです。ほんと、歩みが亀である。でもまあ、これが私なので、私はこの私のペースと付き合っていくしかないな、と、思う今日この頃です。

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虫明 麻衣(Mai Mushiake)
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