「暗闇を抜ける」という実感【ランニング日記 12/7(月)〜11(金)】
12/7(月)
歯医者へ行って麻酔が切れず、どうにも気持ち悪いままこれを書いている。本当に歯のトラブルというのは心が折れる。もうしばらく何もしたくなる。したくなくなるけれどもやることは山のようにある。全くもう、である。健康第一。
朝起きるとやたらと寒い。ベッドから出たくない。まあ、春も夏も秋も出たくないのだけれど、私は。
あまりの寒さと外の暗さに、これはもう、もっと遅い時間に走ればいいのでは、という気がしてくる。なんでこんな時間に走ってるんだっけ…
Apple Watchの充電器がコンセントにささっていなかったらしく、充電が切れている。そうだ、今から充電して、しっかり充電されてから走ればいいじゃないか、と考える。そうすれば明るくなってから走ることができる。
だけど、時間がたてばたつほど走りたくなくなってくるのもまた目に見えている。とにかく、「朝起きて一番に外に出る」ということが、なまけものの私には一番効くのだろう、と、しぶしぶ準備する。
目を覚ましたむすめが、アレクサに天気を聞いている。アレクサは「ただいまの気温は、摂氏5℃」と教えてくれる。…5℃!?と、私は思わず聞き返す。5℃てそれ冬やん…いや冬やけど…走る気温じゃないよ…と、ぶつぶつ言うと、むすめは「だれに走らなきゃっていわれたの?」と聞いてくる。「それが誰にも言われてないんだよ…自分で決めただけなんだよ…なんでだろ…」と、私は遠い目で答える。
上着の下は半袖じゃなくて長袖の方が良いじゃないか…と思うものの、もう一度着替えるのもめんどくさいので、そのまま出る。
さっっっっっっっっっっっぶい。あほである。なんでこんな中外に出ようと思うのか。あほである。
だいたい、ついこのあいだまで暑い暑いこんな暑い中走るなんてどうかしているあほすぎると言っていたばかりではないか。いったいどうなっているんだ…季節…。もう季節にやつあたりである。
ちなみにApple Watchと同じく、airPodも充電されていなかった。というか、ウェアを着たらズボンのポケットから出てきた。信じられない。たぶん洗濯している。信じられない。
そんなわけで、無音で、かつペースもろくに確認できずに走る。iPhoneを持って出たので記録はされているけれど、いちいちiPhoneをチェックする余裕なんてない。
まあでも、タイムにも音楽にも左右されず、薄暗い中をマイペースに走るというのは、悪くないといえば、悪くない。もう5キロも走れば十分だ、と思いながら走り始めたものの、走っているうちに身体があたたまり始め、ああこれならいけるかも…という感じがしてくる。もう本当に、毎日同じ繰り返しである。結局今日も、10キロを走る。
秋にあれだけ増えた朝釣りの人たちも、まためっきり減ってしまった。そりゃそうだ、こんなさっぶい中、釣りをしようなんて人はそういない。そういないけれども、でも、数人は、いる。そしてそういう、こんなさっぶい中でも釣りに来ちゃうような人が、私は結構、好きだ。朝からおつかれさまです。と、心の中で思いながら走る。
釣り糸を投げる、ヒュッと風をきる音が、静かな朝に響く。音楽を聴きながら走っている時には気づかなかった音だ。なかなか、心地よい音だな、と、知る。
しんどいことばかりだけれどもまあそれでも、こういう、知らなかった心地よいもの、に、出会えることも、ある。しんどい中にもちゃんと、光はあるのだ。
12/8(火)
いやまあ、薄々感じてはいたけれど、このさっぶい中、そしてくっらい中、一人で起きて、さあ走ろう!なんて、さわやかに思える人間は、たぶんこの世にいない。そんな人がいたら教えてほしい。頭の中がどうなっているのかをのぞいてみたい。
さっっっぶいわまだ外はくっっっっっらいわで、もう何がどうひっくり返ったって、走りたいなんていう気分にはならない。そんなモチベーションは、心のどこからもわいてこない。
それなのに私は今日ももう泣きたいような気持ちで起きて、泣きたいような気持ちで着替え、もはや泣くんじゃないかという顔で、準備する。
昨日は夫のオンライン会議が終わるのを待って遅くに銭湯へ行ったので、朝までぐっすり寝込んでしまった。同じくぐっすり寝込んでいるこどもたちを起こし、走りに出る。ねこだけがうれしそうに私とこどもたちにまとわりついてくる。ねこというのは朝と夜だけ甘えてくる。昼間はニンゲンのことなんてガン無視なのに。
今日はApple WatchもAirPodもしっかり充電済みである。えらい。caravanの新譜を聴きながら、そこそこのペースで5キロを走った。走っていれば寒さもそこまで気にならない。朝起きた瞬間から、走りたいとは1ミリも思わないけれど、朝起きた時の「こんな中走るのはこれだけしんどいだろう」という予想よりも、現実は少しだけ、優しい。
家に帰ると、むすめがくもんの宿題のわからないところを息子に教えてもらっていた。私がいなければこんなに仲良くできるのではないか。(いつもはけんかばっかだというのに。)ちょっとうれしくなってしまう。
さて今日もまた、たまりにたまった仕事を一つ一つこなしていきたい…。がむばりたい……師走……
12/9(水)
朝起きても外はまだ真っ暗である。
「外に出る」というモチベーションになるものは、なにも、ない。暗闇の中に出て行くというのは本当に、もうそれだけで心が折れそうになる。今日もまた、明るくなって、子どもたちを学校に送り出してから走ろうか、と、いう気持ちとの戦いである。
外はもちろん寒く、上着のファスナーを上まで引っ張りあげて、昨日の続きの音楽をかける。走っているうちにアルバムを聴き終わったようで、ほかの音楽を選ぶのも何だか面倒になり、イヤホンを外して走る。
後ろから、キロ3分くらいなのではと思えるスピードで走る男性が、颯爽と追い抜いて行き、そしてあっというまに見えなくなる。車か…?と、思わず声に出してつぶやく。車だったのかもしれない。
今日はやたらしんどいなあ…生理だからか、ここのところ体重が増えすぎているからか…と、朝のローテンションのまま、走り続ける。それでも、夜が明けてくるにつれ、少しずつ、心まで少し、明るくなってくる、気がする。
そしてふと思う。
「夜に外出する」という経験は、まあ当然、誰しもにあるし、私ももちろん山のようにある。そして、夜はいつまでも、夜だ。家に帰り、眠るまで、ずっと夜だ。
だけど、「夜明け前に外に出る」という経験は、考えてみればそんなに多くはない。眠るまでいつまでも続くと思っていた「夜」は、実は明けていくものなのだ、と、私は実感として知る。
「暗闇を抜ける」という(物理的な)経験は、結構大事なのかもしれない、と、そう思う。夜は本当に、明けるのだ。少しずつ少しずつ光がさし、視界が開け、景色が見え始める。その「実感」は少しだけ、勇気のようなものを抱かせる。
実感として身体に蓄積されていくものが、私みたいに鈍感な人間にはきっと何よりも有効なのだろう。そうか、夜は、明けるのか、と、クリアな頭でそう、思った。
暗闇を走る間はえらくゆっくりだったタイムも、暗闇を抜けるにつれ、少しずつ速くなっていったようで、まあ、悪くない、というペースで走りきる。
もうしばらく、夜明け前に走ってみよう、と、思う。何だか少し、光が見えたかもしれない。
12/10(木)
昨日はなんだか少し、光が見えた気がしたけれども今日も元気に寝坊した。朝起きたらちょっと夜が明けつつあるレベル。まあ、今日は5キロの日なのでよしとしよう。自分に甘く。これは生きる術である。(どこが。)
少し明け始めた空の下、走りに出る。
いよいよ本格的にさぶい。でも気温的には、これからまだ下がるのだろう。ああ私はなぜこんな寒い中走るのか…(何回これを言うのか…)
でも今日も、走るうちに暑くなり、半袖になる。出た瞬間に寒くてついスピードが出たのか、タイムも少し早まった。これくらいのペースで走っていけると良いのだけれど。
とにかく決めたからにはできるだけ、冬もこの時間にしっかり走っていきたいものだ、と思う。
12/11(金)
久々に5時前に目が覚める。でもやっぱり寒くて眠くてゴロゴロし、5:30頃体を起こす。
「暗闇を抜ける」を体感しているのだ、と気づいたことで、ずいぶん気持ちが楽になった気がする。「暗いうちに外に出る」というのが、どこか心細くてこれを続けていて良いのだろうか、と、数週間思っていたけれど、この明るくなる空を感じながら走るというのはぜいたくなことだ、と、ようやく「体感として」知った。なんだか大きな気づきのあった一週間だったな、と思う。
ついこのあいだ満月だった月は、いつの間にか細く細くなっている。気づかぬうちに、あっという間に、時間は過ぎていく。昨日傷ついた誰かの心が、少しずつ少しずつ、いやされていく。悲しいニュースが少しずつ忘れ去られ、誰かに祝福がもたらされる。
だけど、誰かが生きた証を、そこに誰かがいた事実を、忘れずにいたい、と、なんとなくそんなことを思う。夜は明ける、暗闇はいつか抜ける。それでもそこに今いる時のことも、忘れずいよう、と、そう思う。