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個の対峙の集積が、チームの勝利につながる【7/3横浜戦●】

人生は思い通りにはいかないものだ。と、いうのは、私がヤクルトから学ぶ、最も大きなことかもしれない。

映画であればここでクライマックスだろう、という場面は何度も何度も訪れる。でもそれが映画と違うのは、描かれた以降も、ずっと物語は続いていく、ということだ。

例えばカツオさんを主人公にした映画であれば、これをクライマックスにしたい、という試合は、その場面は、幾度もあった。ノーノーまであと一歩、という試合が何度かあった。カツオさんの勝ち星を、野手が必死で守った試合があった。カツオさんが打たれたたった一本のホームランを、上田はフェンスによじ登ってまでとろうとした。

だけど、物語はそこでは終わらない。翌週の登板で打たれることもある。上田が試合に出ない日もある。ベンチでカメラワークに勤しむ日もある。そこには映画であれば描かれないであろう、たくさんの瞬間がある。

「カツオさんを勝たせてあげたい」と思う。ファンも、ベンチも、選手も、きっとみんなが思う。世界中の総意と言って差し支えない。(断言。)

でも、現実の物語はそんなに一筋縄ではいかない。カツオさんが好投した日には救援陣が打たれ、カツオさんが打たれる日には救援陣は無失点で終えたりする。なにもかもがパズルのピースのように、ぴったりとうまく合うわけじゃない。

3.1回5失点。「そういう日もある」、そんな日だ。でも、カツオさんにとってその一敗は、大きな一敗かもしれない。

だけどどんな時も、やっぱり、できることはチームの一勝を、しっかり勝ちとることだ。投手の一勝というのは、あくまでもその先に、付随してついてくるものだ。「誰かのために」は大きな力になる。だけど同時に、大きなプレッシャーにもなる。それならば、粛々と、目の前の試合と向き合うしかない。あくまでも目指すものは、「チームの勝利」だから。それをいつも教えてくれるのは、ほかならぬカツオさんだから。

個とチームのバランス、というのはいつも少し、複雑だ。人は、一人では生きられないから(そしてそれはこの環境下、つくづく身にしみてわかったことだ)、自分が属する「チーム」の総合的なしあわせのようなものを最大限にしていくことは、たぶんとても大切なことだ。それは会社だったり、家族だったり、クラスだったりする。いろんな「チーム」がある。でも基本的に、そこには個人のしあわせが守られていなきゃいけない。例えば個人を犠牲にしてチームのしあわせを追い求める、というのはやっぱり不自然なことだよな、と思う。それはいつかか必ず、綻びとなって現れる。

野球は、個と個が向き合う時間がとても大きなスポーツだ。ピッチャーとバッターは、そこで一対一で向き合う。(もちろんその後ろにはキャッチャーがいるわけだけれど)

そこで対峙すべきものは、目の前にいるピッチャーであり、バッターだ。ピッチャーはバッターを打ち取ることを目指し、バッターはピッチャーからヒットを打つことを目指す。そこには個と個の対峙がある。そこでできることはとても、シンプルだ。

その積み重ねの先に、チームの勝利がある。個の対峙の集積がチームの勝利につながり、その結果が個人の成績にまた還元される。そこには確かに、有機的なつながりがある。

「カツオさんのために」は、すごく大切だ。でもカツオさんは、基本的には「チームのために」投げてくれる。そこのバランスを大事にしていけるといいな、と思う。カツオさんの200勝が、チームの勝利の先に、しっかりとついてくるといいな、と思う。それは小さな個々の達成の繰り返しの、その積み重ねでついてくる「結果」なのだ。

物語は、続いていく。いつかカツオさんが200勝を達成してくれた日が来ても、それでもなお、その先も現実の物語は続いていく。野球の素晴らしいところはもしかすると、その物語の連続性の中にあるのかもしれない、と思う。

達成は本当は、通過点でしかない。それは厳しい現実でもあり、同時に大きな救いでもある。

明日はまたやってくる。どんな時も。その最期の瞬間を迎えるまで。

いつか終わるその時まで、小さな達成を積み重ねていけたらいいなと思う。そして大好きな人たちが、「野球をやっていてよかった」と、ユニフォームを脱ぐ時に思ってくれたらいいなと思う。その先もまだ続く、長い人生の糧になるように。




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虫明 麻衣(Mai Mushiake)
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