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どんな髭剃りにも哲学はあるように、どんなマスクにも哲学はあるのだ 【ランニング日記5/11(月)〜5/15(金)】
5/11(月)
宮古島へ行く夢を見た。行ってから現地で、「あれ、もう来ていいんだっけ…?」と気づいた。でも現地の友人はにこにこ私たちを迎え入れてくれた。もう「私たち」で行くのが当たり前のようになっている。一人で行くのが当たり前だった頃はからは、もう随分時間が過ぎたのだ。
もともとが引きこもりなので、この毎日に特に強いストレスはないのだけれど、それでもしばらく会っていない友人たちにやっぱりどこかで会いたいなあと思っているのかもしれない。起きた瞬間は夢のことも忘れていたのに、走りながら急に、夢に出てきた人を鮮明に思い出した。
夢に出てきたのはそう。宮古島の友人と、そして、
大泉洋である。
なぜなのか。
なぜ、大泉洋が夢にまで出てきたのか。しかも結構、がっつりと話し込んでいた。意味がわからない。洋、なぜ出てきた。
そんなことを思い出しながら、今日は「チルアウト」でもなんでもなく軽快な音楽で走ったというのに、めちゃくちゃタイムが遅かった。プレイリストのせいじゃないじゃないか。単純にまた調子が落ちているだけではないか。
短い短い、私の「調子が良い」春はもう終わりを告げようとしている。暑くなるにつれ私の調子は落ちる。一方、山田哲人の調子は上がる。
いや私の調子もなんとかしてよ洋、と、思いながら、走る。ああ、暑い。
5/12(火)
早起きしてさらに早い時間に走るつもりが、昨日ついつい「カウントダウンTV」なるものを遅くまで見てしまい、夜更かししてしまった。子どもたちに、この人はこの人と結婚したの。この人はあの人と昔付き合ってて…とか言っていたらはまってしまったのだ(そこ)。
まあ、しかし本当に、なつかしかった。1/3の純情な感情とか。知ってます?平成生まれの皆さん。なんなんだろうな、1/3の純情な感情って。残りの2/3はなにでできているんだろう。そういえば昔、会社の先輩が「俺の半分は、バファリンのように優しさでできている。そして残りの半分は、どす黒い何かでできている」と言っていた。私はその先輩がとても好きだ。半分の優しさと、半分のどす黒さ。
起きた時に窓の外が少し暗かったので、「これは雨が降っていて、とても残念ながら、非常に遺憾ながら走れないパターンでは」と思いながら身体を起こすと、全然雨は降っていなかった。
はあ。今日も走らなくてはいけない。走りたくない。仕方がないので結局また、いつもの時間に走り始めた。
曇っていたので少しは涼しいのでは、と思ったのもつかの間、湿気のある分いつもよりも暑い。なんだここは宮古島か。宮古島に行きたいとは言ったけど宮古島のランニングみたいに暑くなってほしいとは言っていないぞ私は。
走り終わりに、髪から汗が滴り落ちる。もうそんな季節なのだ。走っていると季節はいつも足早にすぎていくきがする。春なんてほんの一瞬だ。
そして今日もやっぱりペースが遅い。昨日よりは少しマシなものの、とにかく遅い。…明日こそ少し、早く走ろう。
5月13日(水)
釣りをする人を見ながら走る。「平日の朝から釣りをする」この人たちは結構、しあわせなんじゃないか、と、なんとなく思う。
例えばよく分からない感染症が流行る。それはいつまで続くか分からない。「いつか来るその日を楽しみに」と言っても、その「いつか」が来るのはいつなのか分からないのだ。
そうすると、その「いつか」を心の拠り所にするよりは、今日、「いま」この瞬間に目の前にあるものを楽しめる方が、まあなんか、しあわせなんじゃないか、という気がする。
「その日暮らし」というのが案外強いのかもしれない。
水面に魚が跳ねる。この都会に生きる魚と、例えば宮古島のサンゴ礁を生きる魚は、どちらがしあわせなのだろうか、とふと思う。
そりゃできることなら宮古島の海を泳いでいたいけれど、あの海は海で、台風の時なんかはちょっと信じられないくらい荒れるのだ。あんな海を泳ぐのは、ちょっとやそっとのことじゃできない。もちろん、多くの魚が死んでしまうに違いない。宮古島の魚には宮古島の魚にかわからない苦労がきっとあるのだろう。
まあ、どうせ死ぬなら綺麗な海で死にたいとも思うわけだけれど、でも都会の魚は、そのきれいな海を知らないのだ。知らないのだから憧れることも羨むこともない。自分が生まれ育ったその環境をまるっと受け入れ、そこで起こることに日々対処しながら乗り越えながら、「その日暮らし」を続けている。まあそれはそれで、いいんじゃないか、という気もする。
隣の生活が(隣じゃなくても南の島の生活が)、しかも良い面ばかりが見えすぎるというのも、まあ考えものだよな、と思う。
ところで今日は約一時間早く7時台、ノースリーブのウェアを着て出たので、さすがにちょっと寒いかと思ったのだけれど、なんてことはない、めちゃくちゃ暑かった。
そしてしぬほどしんどかった。
夏だ。こんなの夏だ。というか真夏とか一体どうすればいいんだ。ペースは信じられないほど遅い。
朝早くに出たから疲れやすいかもしれないと、意識してゆっくりのペースで走り始めたけれど、最後までさしてペースも上がらずどんどんしんどくなる一方だった。
明日はさらに早起きしてもっと早い時間に走るべきなのか・・・
5/14(木)
6時15分に家を出て走る。ノースリーブで出ようとしたら、アレクサに気温を聞いた息子が、「ママ!外13℃だって!それじゃさむいかもよ!」と、教えてくれる。半袖に着替えて走ることにする。
外に出たらまあ確かに少し涼しいものの、やっぱりすぐに暑くなる。そしてちょっと気をぬくとまじでタイムが落ちる。なんなんだ、本当に。つい先週までのあの絶好調モードどこへ行ったんだ。絶好調モードがいくらなんでも短すぎる。
と、ブツブツ言いながら(言ってないけど)走る。朝6時台ですら暑いのだ。なんてこった。
でもまあ、早起きというのは悪くない。いいことしてる感がある。そして、早起きして走る人、めっちゃいる。みんなほんと早起きだな。ひまなのか。ひまなんだな。私もだけど。
8時とか9時台に走ると、もうほんと、走り終えてシャワー浴びて後片付けして家事してなんやかんやとやっている間に、午前中が終わってしまうのだ。だから走り終わってもまだ7時台だというのはやっぱりちょとうれしい。余裕が生まれる。
昨日がっつり仕事したので、今日はゆっくりしたいと思うわけだけれども、今日もやることはたんまりあるのだ。始める時間は早いに越したことはない。
走りながらふと、球場の空気を思い出す。開場直後の神宮、芝生の緑、都会に広がる青い空。誰かが遠くで叫ぶ声、応援団が試しに鳴らすトランペットの音。子どもたちとその中に座って静かにビールを飲む。今日こそ勝つかねえ。と、私はつぶやく。かつよ!と、むすめが笑う。どうだかね、と言いながら、私はまたビールを飲む。
そういう時間を。当たり前のようで、当たり前でない、その大切な時間を。
今年の夏、そんな景色は見られるのだろうか。
でもまあどんな時も、前に進んでいると信じていたいと思う。今はゆっくり休みながら。
そう、たまには休んだっていいのだ。みんなずっと走り続けてきたのだから、少し休む時間があったっていい。そういう時間なのかもしれない。
5/15(金)
昨日より早く出るつもりが、結局同じ6:15頃に出る。しかも今日は10キロの日なので、帰ってくる時間も遅い。
昨日、早く寝るつもりが、『羊をめぐる冒険』を読み返していて、クライマックスに差し掛かっていたので、つい遅くまで読んでしまった。
おかげでえらく変な夢を見た。もうここには書き記せないくらいへんてこな夢だった。だいたい村上春樹の長編を読んだ後はへんてこな夢を見る。
初期の「三部作」をこの1週間ほどでよみかえしたわけだけれど、最後の『羊をめぐる冒険』ですら、発売は私が生まれる前年、つまり38年ほど前の本ということになる。舞台となるのはさらに前、40年以上前となる。
40年前の小説となると、当然現代とは違うことが沢山ある。スマホどころか携帯だってないし、連絡手段は限られすぎているし、人探しに新聞広告を使う。
あと主人公はどこかしこでタバコを吸いすぎるし、女性の社会的地位が低く見積もられすぎている。
とにかくそういう、現代とは違うところは山のようにある。
でも私は小説を読んでいていつも思うのだけれど(私は「現代」の小説を読むことがあまりないのでなおさら)、「年代」の違いというのはもちろんあれど、「世代」における違いってあまりないのだなあ、と。
つまり、どんな時代にも、20代には20代の、30代には30代の悩みや迷いや戸惑いがある。そこにどんな時代背景があったとしても、根本的なその世代の悩みには、どこかしら普遍的なものがある気がする。
20代を理解できないと思うのは、その時持っていた苦悩(に似たもの)を、忘れているだけなのだ。
そして30を過ぎれば誰しもが、何かしらの喪失を抱えて生きている。
そういうことだ。
ところで走っていると、本当にいろんなマスクとすれ違う。いや、正確には「マスクをした人」とすれ違っているのだけれど、だんだん「マスクをした人」とすれ違っているのかマスクとすれ違っているのかよくわからなくなってくる。それくらい、現代はいろんなマスクで溢れている。
多いのは、buffのような、ネックウォーマーにもなったりする汎用性の高いやつ。あとは手ぬぐいのようなものを巻いている人もいれば、いわゆるマスクの人もいる。あと今日は、ラップみたいなものに柄が入ったものを、ぐるぐると巻いている人もいた。苦しくないんだろうか。未来の素材なのかもしれない。
少し前まではマスクをして走るなんて考えられなかったのに、本当にあらゆるものは、ガラリと変わってしまうものだ。
もちろん、マスクをしていない人もいる。まあそれはそれで個人的には特に気にならない。
つまり、「どんな髭剃りにも哲学がある」のと同じように、「どんなマスクにも哲学がある」ということである。そうですよね。
7時を過ぎるととにかく暑い。できれば7時までに走り終わるスケジュールで走り始めたい。来週からは…がんばろう。たぶん。
とにかくまあ今週も、暑いわしんどいわタイムはめちゃくちゃ遅いわの中でも、43キロを走りきった。走りきったことはまあ、小さな達成ではある。達成に見えて実はただの積み重ねなのだけれど(来週からもまた走らなくちゃいけないわけだし)、たまにはそうして身体におつかれさま、と声をかけてあげないと、いい加減、身体もへそを曲げそうな気もしてしまうのだ。それだけは困る。というわけで、今週もおつかれさまでした。
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