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【9/11横浜戦◯】ぐっちが痛みと向き合いながら培ってきた強さのこと

★注★
こちらはぐっちの続報が入る前に瀕死の私が書いた文章になります。その前提でお読みいただけますと幸いです。 ※有料設定ですが最後まで無料で読めます!

前に座った3人組。キッチンミノルさん似のお兄さんが、「これでヤクルト優勝したら、3人で一緒にスキンヘッドにしましょうよ。」と、言っている。「いやお前はサラリーマンじゃないからいいけどさ!」と、別のお兄さんが言う。そして、3人で顔を見合わせて「えへへへへへへ」と、笑っている。

1回裏、早速ノーアウト1,2塁のチャンスで、てっぱちが打席に立った。3人組は、「たまには山田、バントとかすればいいのにね。」「いやいや、そんな原みたいなこと言わないの。」「ははははは」とか話している。

てっぱちはゴロを打ち、進塁打になって1アウト2,3塁になる。「実質、バントだったね」「あははははは」

…なんともゆるい、この会話。私も思わず、笑ってしまう。

サイスニードが登板すると、なにやら黒いダンボールを掲げた人がビジョンに映る。なんだあれ?と、思っていると、となりのむすめが「ああ!あれドーナツだね!」と、言う。前の3人組も思わずこちらを振り返り、「そうか!ドーナツか!」と、言う。「よく考えるなあ」と、みんなで一緒に笑う。

なんというかこれが、私の大好きな、神宮の雰囲気だ。


静岡のみんなも、東京ドームのみんなも、かっこよかったけど、やっぱり神宮にいるこの人たちが大好きだ。と、思う。何より今日は、1番センターに、ぐっちがいる。神宮の1番、センター坂口。今年もこれを見ることができた。いろんなことがあったけど、ようやくここまで来ることができた。もう私はそれだけで、ごきげんだった。

でも、なんでだろう、つらいことは次から次へとやってくる。目の前のぐっちは死球を受け、苦しそうな表情でグラウンドをあとにした。

もう、ほんとうに、つらい。シンプルにそう思う。勝った喜びが、素直に受け入れられないくらいには。こういうときってほんとうに、何をしててもすぐ「ああぐっちが…」と、考えてしまう。楽しいこともうれしいことも、次の瞬間に「それでもぐっちが…」という思考に持っていかれる。スポーツ選手を応援するってそういうことなのかもしれない、でも、これはなかなかタフなことなのだな、と、今さらのように思う。

神様も仏様も私はそんなに信じていない。それよりも目の前で必死に生き、戦う人たちを信じている。それでも「どんな試練だよ」と、思わずにはいられない。信じてもいない神様を責め立てたくもなる。なんでぐっちばっかり、と、そう思う。なんで、ここまで必死でやってきて、ようやく、ようやくこの場所に戻ってくることができた人に、同じような痛みが降りかからなきゃいけないんだろう、と。

言いようのない怒りみたいなものだってわいてくる。誰のことも責められない。期せずして誰かを傷つけてしまった人も、痛みを抱えるものだ。だからもちろん死球を与えた人のことだって責められない。この気持ちをどこに持っていっていいかわからない。


ぐっちは死球で骨折したあと、ずっと死球の痛みを抱えたまま、戦っていると言っていた。痛み止めを飲みながら、試合に出ていた。「もう、元には戻れない」と、話していた。だから、「新しい自分」で戦うしかないのだ、と。

「もうあかんわ」と、みわちゃんに言いながら、「そんなことない坂口はまだできるよ!」と、みわちゃんに励まされながら、必死になって戻ってきた。今シーズンだって自打球でまた抹消になり、何度も何度もその痛みと戦いながら。

この年で、身体を使い体力が必要とされるその職業において、「新しい自分」になることはどれほど強い精神力のいることだろう。生半可な気持ちじゃ、ここには戻ってこられなかったはずだ。

それなのに、ようやく戻ってきたその場所で、また振り出しに戻すような死球をぐっちは受けた。その痛みは、見ているこちらの心を深く突き刺した。


ぐっちの心が折れないか、と、それが心配になる。「不屈の魂」だって、何度も何度も傷つけられたらぽきんと折れてしまうんじゃないか。もう、「新しい自分」になるための力は残っていないんじゃないか、何度も折れた心は、ぼろぼろになって、最後に折れてしまうんじゃないか、と。

でも、私はぐちゃぐちゃになった思考の中で、もう一度思い出す。何度折れても、何度も何度も戻ってきてくれたぐっちの姿を。折れた分だけ、人よりもがいて、苦しんで、新しい環境で、新しい自分で、そこに戻ってきたぐっちのことを。

「たいした選手じゃないんで」と言いながら、「一つでも多く試合に出るために」戦い続けたぐっちの姿を。

何度も折れた心は、何度も修復されて、そのたび少しずつ、強度を増してきたはずだ。心というのはきっと、修復で弱くなるんじゃなくて、強くなっていくものなのだと思う。傷つくことで、たぶん心は成長していくから。

ぐっちの強さは、そこから這い上がることで培われてきたものだ、とそう、思う。


「神様は乗り越えられない試練は与えない」という言葉が私は好きじゃない。そんなもの、誰だってみんな与えられたくなんてない。試練に選ばれたくなんてない。

そこにあるのは、やってきてしまったそれを乗り越えたのか、乗り越えなかったのか、ただそのシンプルな事実だけだ。

ぐっちは、乗り越えてきた、その人だ。それが、ぐっちを強くしてきた。

だからこそ、今は「頑張らなきゃ」と思いすぎないで、と、願っている。時が来ればきっと、その痛みをまた、受け入れ、なんとか並走していく強さを、ぐっちは持っている。だから焦らないで、心の回復を急がないで、と。

私は神様なんて一ミリも信じてないけれど、いつだって痛みのたびに強くなってきたぐっちのことは、信じている。大丈夫、きっと戻ってこられるから、だから頑張りすぎないで、強くあろうとしすぎないで、みわちゃんに弱音吐いて、それできっと戻ってきて、と願っています。

どれだけつらくても、ぐっちの痛みを代わりに受け取ることはできない。だけどもう、言い聞かせるしかないのだ。自分に、そして声は届かないはずのぐっちに、心の中で。

ぜったい大丈夫だから、ぐっちは大丈夫だから。

ぜったい大丈夫だから、と何度も高津さんが言っていたミーティングを思い出す。ぐっちはぜったい大丈夫だから。と、そう改めて思う。

ぐっちがもう一度前を向ける日まで、私は前を見ていよう、と思う。ファンがへこたれてる場合じゃないのだ、と、無理矢理にでも涙をふいて。何度でも戻ってきたぐっちを、何度でも待っていようと、そう思う。

ぐっちと一緒にヤクルトが優勝するところを、見られますように。

★後記★
ぐっち抹消されずのニュースが入ったあとの私
「ぜったい大丈夫!!!!!!!!!!!!!!!!」


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