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「ブラブラ」は「退屈」の処方箋

最近よく読んでいるのは『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎、新潮社、2021年)という本。その名の通り、現代社会に住む我々が感じる「暇」や「退屈」という概念を、哲学の観点から紐解いている。

この本を手に取ったのは、僕が近ごろ「昔の人の暮らし」に強い興味を示しているからだ。休職中に、自分が心地よく感じる生活のヒントを見出しつつある中で、人類の歴史の大半を占めた(特に現代以前の)暮らしのあり方を学ぶことで、そのヒントを補強し、納得し、習慣化したいのだ。

読み始めてまもなく、そんな瞬間が訪れた。なぜ人類は「退屈」するようになったか。同書は、遊動生活の終焉にその答えを見出している。以下に、概要をまとめよう。

まだ人類がサル同然だった頃。我々の祖先は他の動物と同様、小中規模の集団を形成し、場所を転々としながら暮らしていた。ある場所に住み着き、その土地の食料を頼りに生活し、なくなればまた次の場所へ……という風に、ひとつの場所にとどまることなく生活拠点を移し続けていた。その期間、少なくとも400万年。現在のように一カ所にとどまって生活する「定住生活」が始まったのはおよそ1万年前。ここをターニングポイントに、食料生産や地域社会の発生、文明の発達など、人類の生活は大きく変わっていくことになる。

ここからが大切だ。同書によると、定住生活の開始と共に、人類に「退屈」という概念が生まれたと説いている。住む場所を移しながら生活する遊動生活は、ひとことで言うと、脳への刺激に満ちあふれていた。十分な食糧は確保されているか。危険な場所や野生生物はいないか。一番近い水源はどこにあるか。新たな土地に巡り会うたびに、自らのアンテナを高々と掲げ、一生懸命に周囲の情報を収集した。そうしないと生きていけないから。一つの場所に住み続けるようになったことで、このアンテナが必要性をなくしていき、脳への刺激が減少、すなわち退屈することになったわけだ。

僕にも思い当たる節がいくつかある。イギリスに留学したとき。一人暮らしを始めたとき。都内に引っ越してきたとき。その土地で暮らしていく上で必要なイロハを集め続けていた。転勤を伴う仕事をしている両親はどうだっただろうか。数年単位で起こる「遊動」は刺激的なものだっただろうか。少なくとも、退屈ではなかったはずだ。

そして何より、旅。よく「人生の価値は移動距離で決まる」などと囁かれる。僕も定期的に、初めての場所を訪れることが好きだ。このような価値観も遡れば、人類がかつて慣れ親しんでいた生活スタイルにいきつくのだろう。

こうしてまた、僕は生活のヒントを裏付けて落とし込んだ。余談だが、幼い頃は本で身につけた知識をテストなどでアウトプットしていたものが、いまでは、頭に浮かび続けるモヤモヤやヒラメキを、本を頼って裏付けて落とし込む、という逆のベクトルで本と付き合えていることが少し嬉しい。

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