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昔から、好きになるものは価値の小さいものだった。

「欲がない子だねえ。」と言われて育ってきた。
プレゼントについて尋ねられれば、ゲームやおもちゃよりも本が欲しい、と答えていた。
子ども服選びにしても、安いものばかりを選んで着ていた記憶がある。

子どもながらに、あえて安いもの、人気のないものを選び、家計に気を使っていたわけではない。ありがたいことに、私の家は大金持ちではないにしろ、世間一般の家庭よりは裕福であったように思う。

私の好みのものは、いつだって安いものばかりだったのだ。

幼い私は、ゲームよりも本が欲しかったし、自分のセンスに引っかかる服は安いものばかりだった。仮に、ゲームと本が同じ値段だったとしても、私は本を欲しがっただろう。
そんな私を、周囲の大人たちは各々の価値観に当てはめて「欲がない子だねえ。」と評するのであった。
私は自分が欲しいものを素直に答えている、つまり、欲に従っている状態であるにも関わらず、周囲からの「欲がない」という評価に困惑しきりであった。

そんなことが続いたある時、一つの仮説が私の中で生まれる。それは、「自分の気に入るものは、世間にとって価値の小さいものなのではないか」というものである。
その仮説を抱くに至った決定的な出来事が、二つある。

一つは、犬を飼う、という話になり、子犬の譲渡会に行った時のことだ。
チワワや柴犬がはしゃぎまわる中、「あの子がいい」と隅っこにいた目立たない雑種を選ぶことを強く主張し、競合なしで譲り受けた(譲渡主さんからは「絶対に残ると思ってたのに」と感謝された)。

もう一つは、初恋である。小学生の時、私は多くの子供がそうであるように初めての恋を経験した。相手は、同じクラスのAちゃんである。派手さはないが、優しく、周りのことを気遣える魅力的な子だった。
そして、これまた多くの子供が経験するように、「恋バナ」というものにも花を咲かせるようになっていった。
男子連中で話しているときに「誰が好きか」という話に至り、各々が頬を赤らめながら秘密の共有をしていく中、私の番がくる。Aちゃんの名を告げると、「えー、Aはないわ」「そういうのが好きなんだ」などと、ひと騒ぎ起きてしまった。
その瞬間、幼いころから受けてきた「欲がない子」という評価と目の前の出来事が結び付き、「自分は価値の少ないものを好むのだ」と思ってしまった。
(余談だが、Aちゃんには告白したものの振られてしまった。初恋は実らないからこそ美しい)

その後、この考えが私を苦しめる。恋愛において、気になる相手ができても「自分が好きになるということはこの人には価値が少ないのでは」という思考に陥り、関係を進めることになかなか踏み出せなかった。
ささいなところでは、気に入った服が安くなっていても「これは私のセンスが世間とずれているからだ。この服はきっとダサいんだ。」と好きな服も
なかなか買えなかった(このころ、「おしゃれ」という評価を受けたことはないのでこの考えは間違いではないのだろうが)。

今となってはとんでもない思想だが、当時の私は本気でそう思っていたし、他人からの評価を気にする思春期と重なって、かなりこじらせていたように思う。

さて、そんな私の現在だが、かなり価値観が世間に適応している気がしている。いいな、と思う服や靴、嗜好品はほかのものより高い傾向にあるし、ちょっとした小物などを「センスいいね」などと褒められる機会が増えてきた。
これを、私のセンスが磨かれた、と好意的に解釈する自分もいる。しかし、ふと恐ろしくなるのは、「私が世間に迎合するように好みを作り替えた」のではないか、ということである。
重要な場面では「おしゃれ」とされる服をまとい、何が食べたいかと聞かれると「焼肉!」と答え、順当にモテそうな人を好きになる……。
そこには、在りし日の「欲のない」少年の姿はない。

これが喜ばしいことなのか、それとも嘆かわしいことなのか、かつての価値観を持たない私にはもう判断がつかない。
私はただ、今の私、ひいてはこれからの私が好む物や人が、「私にとって本当に価値のある」存在であることを願っている。ただそれだけである。

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