制作開始
4月末からの曼荼羅展に向けて、制作モードに入ってきた。展示がないと制作しないなんてスタイルは好みじゃないけど、それはそれでよしとする。案外効率がよかったりするから。
紙に触れてると、ふとふと何かに気付いては離れていく。線画も切り絵も、接点にひたすら意識が向いていくから、無意識にとはいえ、かなり集中しているのかもしれない。
今 だけを意識している時、他には何もない。そこには争いもないし、嫌だなと思う何かもない。ただ平安な状態でいる。
平安な心でいる時、川のようなものが心の中、もしくは前に流れている。色んなことが浮かんできては、その水面に浮かべる。すると、それまでに持っていたその想いは、流れていく。とどまっているときには、川を急流や大河にしてみる。
自分自身とつながる、ということを、紙に丁寧に触れ、点を打ち、線をつなぐことで実践してきた。至らないと責めていた自分をみつめるということは、容易なことではなかったけれど、今こうして平安な心で生きていられることを思う時、本当によくやってきたねって、自分に言ってあげられることが、とても嬉しい。
今日は、散らかってきているリビングの片付けなんて後回しにしつつ、朝からずっと紙に向かっている。
物事を観るとき、まっさらな意識で見ていることなんて、ほとんどない。だいたい決まったフィルター越しに見ている。言い換えれば、そのフィルターがあるからそう見えていて、それを認識する思考と、出来事に反応する感情によって、出来事に意味付けがなされる。ある意味自動的になってしまっているそれらを、どこまで透明なフィルターを通して観て、どこまで慈しめるのか、ということが、生きていることの理由のひとつかなと思う。
さっき色をつけていた時に、ふとふと浮かぶ感情があった。それが何かを分析はせず、穏やかに流れる川に浮かべた。また何か感じたので、また川に浮かべた。またやってきたので、今度は浮かべる前に、ちょっと手元で見てみた。わたしがずっとかけていたフィルターが粉砕したあとのカケラだ。
生きていても仕方がない
いつかけたのかわからないこのフィルターが外れるまで、なぜいつもそんな風にしか思えないのか不思議だった。
人間という生命体は、肉体を離れるまでは人として生きることになっている。だから、どうしたって、死ぬまでは生きていくのだけれど、生きるという意志決定をするまで、生きていても仕方がないという、謎のフィルターを持っているのかもしれない。
人間の自分なんてちっぽけ。その小ささを許せた時、すべてである、大きなわたしの目線に少しづつ気づいてきている感じがする。人間と同じ目線では全く役に立たない。だからこそ、このプロセスだったのだなぁと思う。
慈愛のひかり
新しい太陽がハートの中から出てくる
そのときを楽しみにこの地球にきた。
もうすぐ新しい春が来る。
たくさんの花が咲く。
楽しみ。