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なぜ、戦時中、竹槍で米兵に挑もうと思ったのか? 『情報発信の本質と創造性について』

私が働くリハビリの現場では、沢山の高齢者の方と話をします。その中で出てきた話で、当時小学生だったおじいちゃんの話です。

「竹槍の練習に行ってくると言って、母親がいつも出掛けて行って寂しかったのを覚えてる。竹槍の練習をすれば、あっちの兵隊さんに勝てるとみんな本気で思ってたんだよ。馬鹿だよねぇ。」と。

敵国だったアメリカ兵は言うまでもなく、銃器で武装しており、竹槍で普通に戦えば勝てるわけがありません。

練習しろと日本軍か国かに言われたからと言って、なぜ竹槍の練習をしていたのでしょうか?

もちろん、当時は竹槍の練習を拒否すれば、「非国民」として扱われるからそれが怖くて、というのはあると思います。

しかし、そのおじいちゃんの話を聞いていると、そうでもなかったようです。みんな結構本気で米兵に勝てると思ってた、とのことでした。

当時、地方では圧倒的に情報が少なかった

そのおじいちゃんは長崎の地方出身の方です。当時、電話もテレビも持っているのは裕福な家庭だけ。

使える通信手段は、手紙と、緊急時は一文字いくらと高額な料金が発生する「電報」だけ。戦争の現状を知るための情報源は、主に村の人の噂話とラジオ、新聞だけだったそうです。

つまり、当時の地方では、アメリカ兵が一体どんな武器を持ってどんな姿形をしているのか知らなかった、ということでした。

当時の日本軍は、米兵を獣のように伝えるキャッチコピー(あまり広めたくない差別的な言葉なのでここには書きませんが、みなさんご存知の4文字です。)を使ったりしていたので、「米兵に対して、猪みたいな獣の姿をイメージしている人もいたんじゃないか」と。

戦時中の農村では、猪狩りのようなイメージで竹槍の練習をしていた、ということでした。

情報がないと何も選べない

この話を聞いて、私は決して当時の方々は馬鹿だ、とは思わず、「情報ってつくづく大切だよなぁ」と感じました。

情報がないと、「竹槍で最新の銃器を持ったプロの兵隊に挑む」ということを本気で信じ、そのために自分の人生を竹槍の練習に一生懸命費やしてしまうのです。

きっと、私もその当時に同じ環境にいたらそうしていたでしょうし、全然他人事だと言って笑える話ではありません。

時代が進んで、今はネットで簡単にあらゆる情報が得られる時代。

なんて素晴らしい時代なんだろう、と思わずにおれません。

二極化する情報化社会

しかし、これは二極化が進んでいく、という状況を生み出すことになります。

つまり、積極的に情報を取得することができる人は、どんどん自己学習を続け、3ヶ月もあればまるで別人のように新しい情報を得て、自身の人生と周りの環境を少しづつでも変えていける。

しかし、積極的に情報を得ない人は、どんどん取り残され、周りの人の言うことや古い「賞味期限切れの情報」を信じてそれに人生を預けてしまうことになります。

自発的学習は自発的動機によって始まります。誰かにやれと言われてやるものでもありません。

情報を積極的に取得して自己学習を続けるためには、自分が何に対して興味があるのか、何を知りたがっているのか、自分の心と常に対話を続ける必要があると思っています。

「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」

もう一つ、情報の大切さを知る例をご紹介します。

1937(昭和12)年発表、川端康成の長編小説「雪国」。

「トンネルを抜けれるとそこは雪国だった」という一文が非常に有名な作品です。国語の教科書でもお馴染みです。

私も昔にこの小説を読みましたが、この有名な一文は、私には全く響きませんでした。

「なんでこれが有名なの???普通じゃん」という感じ。

みなさんもそう思いませんか?


しかし、これも情報不足が引き起こしている現象だということに最近気づきました。

小説が発表された当時は、農村の子は農村で一生育ち、亡くなっていく時代です。

車もありませんし、遠方に旅行するのは非常にお金が掛かるので、普通の家庭はとても気軽に旅行なんてできません。

雪が降らない地方に住んでいる人は、「雪という、冷たい白いものが空から降ってくる土地があるらしいぞ」という情報しかなかったかもしれませんよね。

そう考えると、雪を見たこともない人が、全面見渡す限り真っ白の雪に覆われている光景に遭遇するというのは、それはそれはすごく衝撃的な光景であったことでしょう。

「どぇー!!なんじゃこりゃーー!!!!」

ですよね。

そういった情報(この小説発表当時の状況)を知っていると、この作品の有名な「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」という一文の偉大さが良く理解できます。

この例からわかる通り、同じ小説を読むのでも、持っている情報量が少ないとその小説の醍醐味を味わえなかったりします。

人は誰もやがて「絵を描く」ようになる

これは何も小説だけの話ではありません。例えば、

A:「ビジネスにおいてはパクることが大切だよね」

B:「うん、間違いない」

という話をしていたとしても、両者の持っている情報量が違うと「パクる」という単語に対して、「ただのコピペ」をイメージしている場合もあるし、一方はモデル(手法や方法論、概念)を「パクる」ことをイメージしていたりします。

持っている情報量が同じ程度の相手と話をしていると、単語の意味がより正確に伝わり易くなります。

しかし、そんなことは非常に稀、というか世の中にはほとんどありません。


本来、言葉や単語、文章というのは、考えていることの本当にごく僅かな一部分を切り取って伝えているだけなので、伝わらないことの方が多いし、いくら気の合う人と会話をしても心から全て通じ合える、ということはありえません。

だから、人と人は相手と状況を変えて死ぬまで永遠に話を続けるし、相手に完全に自分を理解させることが叶わないからこそ「自分を理解してほしい」という承認欲求を強く持ち続けるのだと思います。

だから、人は誰も、やがて「絵を描く」ようになります。

どういう意味か?


砂浜に棒が落ちているとします。

頭でっかちでない、自分の欲求に正直な子供なら、誰に命令されるでもなく、棒を拾い、砂浜に絵を描き始めるでしょう。

砂浜に棒を突き刺す「ザクっ」とした感覚を楽しみながら、自由に自分の頭の中の「感覚」を砂浜に吐き出します。

絵は不自由な言葉や単語、会話を必要としないし、言葉よりは制限も少ない。いくらでも描いて消すことができます。どんなに小さくても大きくても構いません。

この場合の「砂浜」というのは、そのまま「砂浜」という意味だけではなく、ブログで活動する私の場合は「ネット上」ですし、起業家の人にとっては「社会」かも知れませんし、夫と子供を心から愛する主婦の場合は「家庭」がふさわしいかも知れません。

とにかく広大な、自分を精一杯表現できる場所を見つけ、人はそこに不自由極まりない言葉以外を使って自分の想い、考えたことや感じたこと、つまりは自分が「生きている証拠」を表現しようとします。


これは誰に命令されるでもなく、自然にみんな行っていることであり、その人独自のフィールドで、独自の表現方法と自分の能力をフルに活用して表現されます。

どこにも同じものは存在しないし、誰かのコピペは絶対に存在できません。

これこそが人生であり、見方を変えれば芸術である、と私は思うのです。


絵を描くこととは、社会活動であり、仕事でもあり、創作活動であり、子育てであり、「人生を一生懸命生きる」ということ。


ぜひ、思う存分楽しんで、その感覚を楽しみながら絵を描いてみましょう。

不器用でも下手くそでも、醜くても何でも良いのです。人と比較する必要は全くありませんし、誰に価値を決められるでもありません。値段なんて付けるようなものではありません。

ただ一生懸命自分の持てる力を使って感覚的に楽しんで絵を描けば、それは世の中で絶対的な価値を持つ唯一無二の素晴らしい作品なのです。


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