武士の都、相州伝の地、金属の街、鎌倉
前回投稿したわたしの電子書籍の宣伝も兼ねて。収録した物語に関連した歴史・観光の投稿をしてみたいと思います。今回は鎌倉。
電子書籍は↓で。ご一読いただければ幸いです。
こちらはその電子書籍について紹介した投稿です↓
かつて日本刀の産地は「五箇伝(ごかでん)」と呼ばれる有名な産地がありました。京都の「山城伝」、奈良の「大和伝」、岡山の「備前伝」、岐阜の「美濃伝」、そして神奈川県鎌倉市の「相州伝」。
山城伝は伝説的な刀匠、三条宗近を輩出、備前伝は全国的に知られる流派「備前長船」の本拠地として知られていますが、相州伝は知名度では歴代刀匠でもトップクラスの相州正宗(生没年不詳、鎌倉時代)が活躍した地でもあります。
そして鎌倉といえば日本最初の武士政権発祥の地、そして武士の町。
鎌倉を本拠に定めた源頼朝のもとに結集した東国の武士たち(坂東武者)は平家との戦いでは序盤こそ苦しんだものの最終的には打倒に成功、奥州藤原氏との奥州合戦では(西国の武士も動員されましたが)圧倒的な強さで滅ぼし、承久の乱においては天皇方を一方的に罪人として断罪できるほど完膚なきまでに叩きのめす(兵力の差もあったけど)。
このように彼らは目の前に立ちはだかる敵たちを実力で(しばしば難癖つけつつ)圧倒しながら覇権を築くことに成功しました(その後鎌倉武士同士で実力行使を伴う権力闘争を展開するわけですが)
斎藤実盛をして「坂東武者は一騎当千」と言わしめたその強さはどこにあったのか?
日ごろから所領争いやら身内同士の内ゲバやら(苦笑)でやたら実戦慣れしていたといったこともあるでしょうが、ほかにも理由があるんじゃないか?
鎌倉市街地の西側、新田義貞で有名な稲村ガ崎からその西にある七里ガ浜にかけての海岸では砂鉄がたくさん取れます。砂に含まれている砂鉄の量が多いので砂浜が黒い!
わたしはやったことありませんが磁石を持っていくと面白いように砂鉄がとれるそうです。
しかもところどころで砂が含まれている砂とそうでない砂とできれいなツートンカラーのコントラストが見られます。
海に流れ込む川もこんな感じ↓
そんなこともあってこのエリアは中世からつい数十年前まで製鉄が盛んだったそうです。極楽寺~七里ガ浜のあたりには「針磨橋(鎌倉十橋のひとつ)」や「金洗沢」なんて名前が今でも残っています。
現在のこの橋は極楽寺川にかかっています…というかもはや橋とは呼ぶのは憚られるような状態ですが。↓
思えば「鎌倉」の「鎌」からして鉄の匂いがプンプンしますし、「金」沢文庫なんてのもありますし、「神奈川」の名前からして「金川」から、なんて説もあるとか。
そして製鉄が盛んになれば当然腕のいい職人も集まり、質・量ともに鉄製品が充実した環境になっていたはず。
鉄は針や農具といった日用品だけでなく武具にも使われますから、質量ともに優れた武具こそ、坂東武者を一騎当千に仕立て上げた原動力ではあるまいか!
刀剣づくりではいかに砂鉄・水・炭を容易に入手できるかが重要なポイントになるようで、備前伝は吉井川、美濃伝は長良川(この川は鵜飼だけじゃない!)の流域が刀匠たちの活動の場となっていました。そして相州伝の場合はこのように砂鉄が採取できる海岸線を持っていることが刀剣づくりが発達した大きな理由となっていたらしい。
東国武士は命知らずで勇猛といわれますが、それも殺傷力の高い武器を持っていれば一発で敵を仕留められるチャンスが大きくなるからちょっとくらいムチャしても平気!みたいな気持ちがあったとか、逆に防御力が高い優れた防具を身につけていればちょっとくらいムチャしても平気! みたいな気持ちがあったのかも(中世の武士は弓矢が武器なので防具のほうがありそう)。
命知らずな戦いぶりの陰には彼らの鉄に対する深い信頼があったのかもしれません。
そして子供の頃から鉄(メタル)を扱っていた結果ハートまで屈強なメタルになっちゃった、そんな環境で成長したら命知らずなワイルドな大人になっちゃった、そして馬を駆ってワイルドに走り回っていたとか😆。
鎌倉時代の終焉となった鎌倉攻防戦において新田義貞は軍を三手に分けて小袋坂(巨福坂)、化粧坂、極楽寺の切り通し、つまり西側から攻略にかかり、極楽寺の切り通しが最大の激戦地となるわけですが、これも新田方が極楽寺周辺にあった製鉄所や武器庫を確保するためだったのではないか、という説もあるようです。
そう考えれば極楽寺の切り通しで新田方を迎撃した大仏貞直率いる幕府方が大奮闘してなかなか突破を許さなかったのも、稲村ガ崎から突破された以降はあっという間に総崩れになって滅亡したような印象があるのも「鎌倉の鉄をどちらが握るか」にかかっていたのか?なんて考えも浮かんできます。
なお、極楽寺から稲村ガ崎へと向かう途中には「十六夜日記」の作者で知られる阿仏尼の居宅があったとされる場所に碑が立っています。↓
彼女の墓所はちょっと離れたところにある英勝寺近くにあります。
今でこそ鎌倉時代を代表する女流歌人が住むのに適していそうな閑静な雰囲気に包まれているのですが…この人が住んでいた当時(1279年前後らしい)はじつはぜんぜん違っていて、ふいごがボーボー、ガタンガタン、鍛冶職人が鉄を打つガッチャン、ガッチャン、熱した鉄を冷やすジュージューなどなどずいぶんとやかましい環境だったのではないでしょうか?
「十六夜日記」では「体調が優れません」といった描写も出てくるのですか、もしかしたら騒音も影響していたのかも!?
彼女が訴訟のために鎌倉を訪れたのは50代後半(57歳くらい?)なので更年期はもう過ぎていたはずですが、もしかしたら訴訟のストレスと騒音とで心身のバランスを保つのが難しい環境だったのかも知れません。
今も昔も静かな暮らしを送るのは簡単なことではなかったようですねぇ。
そして心身が不安定な状況がかえって彼女の芸術的感性を引き出して「十六夜日記」を不朽の名作へと導いたのではあるまいか!(妄想)。
製鉄が盛んならよい武器も作られていたはず…という歴史の名残りが現在の鎌倉でもちょこっとだけ見ることができます。製鉄はもうやっていないようですが、先述した刀剣好きにはおなじみ「名刀正宗」で知られる相州五郎正宗は鎌倉で活動した人物で、そのゆかりの地がいくつかあります。
彼が住んで刀製作を行っていたとされるところには稲荷社があり(名前がカッコいい!)、「東身延」の名前で日蓮ゆかりの地で知られる本覚寺には正宗の墓とされるものもあったりします。
↑がその稲荷神社、その名も「刃稲荷(やいばいなり)」。もともと彼の屋敷に祀られていた社の後裔らしい。名前のかっこよさといい、鎌倉駅の近くという立地といい、ここはマーケティング次第で全国の刀剣腐女子の聖地になれるポテンシャルを秘めていると思いますがいかがでしょうか。
↓は本覚寺にある伝正宗の墓。
ただし、同じく本覚寺境内にある↓を正宗の墓とする本を読んだこともあります。一応念のためにご紹介。
…こちらはどちらが一方が正宗でもう一方が2代目の墓だとか。このあたり今となっては確かめようがないのでしょうが、見栄えの問題もあってか(?)こちらはあまり注目を集める機会はないようです。
さらに正宗の子孫とされる一族が現在でも鎌倉で刀匠を続けています。何でも戦国時代に小田原北条氏の2代目氏綱から偏諱を受けて「綱廣」と名乗り、代々この名前を受け継いでいるんだとか。
正宗の技術を現代に伝える刀匠!綱廣と名乗るようになって24代目だそうです。
なお、鎌倉といえばあちこちに岩を掘って作った「やぐら」という横穴のお墓があってこの地域の象徴になっていますが、もともとは武器を収納した「矢倉」が語源という説などもあります。
で、どうして鎌倉にやぐらが多いかというとこの地域の岩がもろくて柔らかいので掘りやすいから。
強い鉄ともろい岩。
この両極端な特徴が鎌倉の歴史的なイメージを作り上げたのかもしれません。
また、こうした環境ゆえ鎌倉は柔らかい石が水に溶けやすく、海が近いので塩分が気になり、さらに製鉄をやっていれば燃料目的の森林伐採で土砂が流れ込んでくることもあったはず…というわけで昔から水質がよくありません。
日本で最初に禅を受け入れたはずなのに一緒に入ってきたお茶がイマイチ広まらなかったのも、そのお茶の茶道に華道、書道など室町以降に京都で花開く水と深いかかわりがある芸能があまりはやらなかったのも、戦乱続きで余裕がなかっただけでなくそれこそ「水が合わなかった」のかも。
「鉄の鎌倉」は武力で京都を圧倒したものの、文化面では「水の京都」に適わなかったって感じでしょうか。
あと圧倒的な財力で繁栄と高い文化を誇った「金の奥州藤原氏」が100年程度で滅びてしまったのは…
「世の中には金(属)では換えられないものがある」
という教訓でしょうか(←うまくまとめた気になってる)。
そして当記事の表紙にもなっているの日本刀は相州正宗の代表作とも目される国宝、「名物 観世正宗」。東京国立博物館にて撮影。
説明にあるようにもともとは観阿弥・世阿弥の子孫である能楽の観世家が所有、その後徳川家康へと献じられたという実に由緒正しいひと振りです。
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