新型コロナと事後正当化の「沼」③
3.「日本モデル」の勝利?:おかしい結果論
新型コロナ事態に関連する事後正当化は、緊急事態の解除以後あふれている「成功」の言葉の中で絶頂に達しているように見える。発端は一部海外の報道であった。日本のコロナ死亡者数がアメリカやヨーロッパの国々に比べて著しく少ないことに注目した一部海外のメディアは、「ミステリー」「謎」などの表現を使いながら日本のコロナ対応が成功的なものであったと言わんばかりに報道していた。そして日本のメディアはそのような報道を連日紹介しながら、コロナに対する勝利の「言」を吐き出しているのである。
例えば、ニューズウィーク誌は、日本の場合ウイルス検査を受けた人が人口の0.185%で、ソーシャル・ディスタンシングも中途半端であったが、死亡者数(人口100万人あたり)は、アメリカ258人、スペイン584人などに比べて遥かに少ない、5人(5月14日現在)に過ぎないと指摘していた。そして、それがラッキーなだけなのか、政策の成果なのか、見極めるのは難しいと付け加えていた。同様に、オーストラリアの公共放送ABCも「日本は、満員電車、世界で最も高い高齢者率、クルーズ船上での感染爆発、罰則なしの緊急事態宣言など、大惨事を引き起こすためのレシピを見ているようで、イタリアやニューヨークの二の舞になると懸念されたが、それは避けられた。だが、封じ込めに成功した理由はミステリーだ」と報じていた。ニューズウィーク誌が指摘しているように、これが政策の成果であるのかは判断し難いことにもかかわらず、「日本はコロナにおける世界的な優等生」「結果が全部である」という「言」が日本のメディアを通じて絶えずに流れ出るあり様には唖然とするほどである。
結果が全部であるのか?検査をしたから人が死ぬわけではない。「結果が全部」という言葉も理解できないが、それで不十分な検査が正当化されるのはさらに理解できない。検査を拒否された国民が耐えざるを得なかった不安と混乱に対する責任はいったいどこにあるのか。
5月25日、緊急事態解除の記者会見で安倍首相は「まさに日本モデルの力を示した」と語っている。これはいったい何を意味しているのか。これは海外のメディアが知りたがっているミステリーと謎への答えになれるものであるのか。「日本モデル」とは日本政府のコロナ対応を指しているのか。日本政府がコロナ拡散防止のために実施した対応策の中で、他の国と区別されることと言えば、おそらく極端に少ない検査数(アメリカの2.2%水準)ぐらいであろう。そうだとしたら、検査をしないことで死亡者が少なくなった?これは、何もしなかったから死亡者が少なかったと言うことに違いない。安倍首相は「何もしない政策が最善の政策」とでも言いたかったのか?これこそ、本物の「ミステリー」や「謎」のように聞こえる。
日本のミステリーのような死亡率についてあらゆる仮説が乱れ飛ぶ。キスや抱擁などのスキンシップが日常的ではない慣習、清潔を重視する文化、食習慣など、欧米と異なる日本文化の項目が果てしなく並べられる。しかし、発表されている死亡者数を見ると分かるように、日本のコロナ死亡者数はアメリカやヨーロッパに比べて少ないだけで、アジアの中では高い数値を見せている。つまり、「日本モデル」云々することは、事実上何の意味もないのである。
立命館大学の上久保誠人教授は安倍首相が言う「日本モデル」について次のように語っている。
都合のいい部分だけ取り上げて自画自賛し、都合の悪い事実は無視するか、他者に押し付ける。新型コロナウイルス対策も、まったく同じなのだ。これを「日本モデル」と言われるのはさすがに日本国民として困ってしまう。安倍首相には申し訳ないが、「安倍モデル」と呼ぶことにさせていただきたい。