ドラクエ考察「ドラクエ6の勇者と魔王、ダークドレアム」
ドラクエシリーズの勇者
ドラクエシリーズの主人公と言えば「勇者」だ。
外伝作品やオンラインの9や10では主人公は勇者ではないが、基本的にドラクエシリーズの伝統として「勇者」である。
「勇者」とは簡単に言えば「勇気ある者」である。
それはドラクエの設定として当然のことではあるし、ドラクエを抜きにしても一般的な意味でも勇者とはそういう意味がある。
特定の分野の開拓者、「パイオニア」も「勇者」である。
無論、「ドラゴンクエスト」という物自体、日本のゲーム、JRPGというものを開拓した勇者そのものである。
勇者と英雄
勇者と似た表現で「英雄」というものがある。
ドラクエにも英雄と呼ばれるキャラクター、あるいはスキルの種類として英雄スキルのようなものが存在する。
この二つの似た言葉、どちらも偉大な存在を指す時に使われる言葉だがその意味の違いを理解できるだろうか。
「勇者」とは言いかえるなら「挑戦者」である。
「英雄」とは言い換えるなら「王者」である。
挑戦者というのは「目標」や「夢」に向かって進む者。
王者というのは「目標」や「夢」を叶えた者。
「目標」や「夢」、つまり「ゴール」に向かっていくものが「勇者」であり、「ゴール」を終えて優勝して表彰状やメダルを得た者が「英雄」。
「ゴール」を基準にして「未達」の存在が「勇者」であり、「達成」した存在が「英雄」である。
ドラクエ6
ドラクエシリーズはそこそこやってきた自分だがドラクエ6は自分的には一番好きなタイトルだ。
その一方で「話がよくわからない」「上に行ったり下に行ったりややこしい」といった評価も多いのは事実。
実際、序盤は「ムドー討伐」という明確な目標はあるがそれを終えると「自分探しの旅」が始まる。
そしてその自分探しの道中、出会うキャラクター、ボス達から最終的に打倒するべき大きな敵「大魔王デスタムーア」の存在が見えてくる。
その「最終的なゴール地点」に向かい進む。
こうした全体的に「ふんわり」とした目標の中でプレイヤーはあっちに行ったり、こっちに行ったりとする。
そうした物を自分は「面白い」と思える反面、「よくわからないからつまらない」という人がいる。
ドラクエ6を「ストーリーが嫌い」「キャラ的に好きじゃない」「システム的に過去作品の焼き増しで目新しさがない」と言うのであればそれは個人の感覚、価値観なので自分からの反論の余地はない。
しかし「何をしているのか、何をさせられているのかわからないからつまらない」というのであれば言葉はキツくなるがそれは「理解力、あるいは理解しようとしない姿勢が悪い」「受け身の姿勢が悪い」というだけ。
個人の価値観の違いからくる「嫌い」ではなく、プレイヤーが脳死でプレイして言われるがまま、画面に表示されるがままのお題をこなして達成感を得られない事の正当化としての「嫌い」であるのならそれはゲームの責任ではなくプレイヤーが「馬鹿」なのが悪い。
SFC版発売当時ならともかく、現代ではネットが当たり前でいろんな考察がされているし、「好きな人」や「嫌いな人」の評価が分かれている「賛否両論」な作品という評価が分かり切っている。
「どこの誰がプレイしても感動する神作」ではない。
「どこの誰がプレイしても投げ出す糞ゲー」でもない。
かといって「無味無臭の凡ゲー」としてはあまりに評価の上下にムラがある。
総評としては「好き嫌いが分かれる賛否両論」がドラクエ6の事実である。
自分がいくら「好き」であるとしてもそれを「神作」であると自分の感性を正当化するにはドラクエ6は分かりにくすぎる。
逆にどこかの誰かが「嫌い」だとしてそれを「糞ゲー」であると自分の感性を正当化するにはドラクエ6は魅力があり過ぎる。
だから自分が「好き」だと言うように別に「嫌い」でも構わない。
自分は過去作の「転職システム」や「仲間モンスター」といった複数のシステムを一つの作品に詰め込んだのは好ましい、と思った。
しかし見方によっては既存のシステムだけで「システム的に目新しさがない」と言った評価を下すのも構わない。
見方による、価値観による物で何を重視するか人によって異なる。それは仕方ない事だ。
しかしそうした真っ当な理由の横に「脳死でプレイして話が良く分からないからつまらない」という子供みたいな理由を正当化しようとするのは非常にみっともない。
SFC版が1995年に発売されて29年。
DS版が2010年に発売されて14年。
スマホのアプリ版が2015年に発売されて9年。
仮にそれぞれの作品をリアルタイムでプレイした年齢が小学1年生だったとしてSFC版を6歳でプレイした子供なら35歳。
もういい大人で仕事に就き、あるいは結婚して子供もいるかもしれない。
DS版を6歳でプレイしていた子供でももう20歳。
成人して社会人として働いている、もしくは大学生かもしれない。
スマホ版を6歳でプレイした子供でも今では15歳。
中学生か、あるいは高校生か分からないが成長期が落ち着き、性的にも男女の差が明確に生まれ、物事の分別くらいはつくようになったし、将来を考える時期でもある。
仮に当時「6歳」の子供が「どんな話なのかわからないからつまらない」といっても仕方ない、で許された。
無論今現在子供がプレイして「話が分からないからつまらない」というのも許される。
社会はおろか、学校生活すらまだ何もわからないのだから。
けれど時が過ぎて35歳、20歳、15歳、そうした年齢の人間が「話が分からないからつまらない」と言っている者が一定数いる。
無論、「子供の頃にプレイしたけどよくわからなかった」「子供の頃は話がむずかしくてつまらなかった印象」という「思い出」「記憶」として語るのではあれば仕方ない。
だがそれを「大人になった今現在の自分の考え」として「話が理解できないからつまらないから糞ゲー」と発信するのは「自分は大人になっても子供と同じように物事を頭で考えられない人間です」と言っているようなもの。
「好き嫌い」を責めているのではなく、「思考放棄」とそれを恥ずかしげもなく「正当化」しようとしている様が見ていて恥ずかしい。
魔王とは
「考える」というのは「遊ぶ」という事に当たっては非常に重要な事で自分で「楽しもう」としない者の前にいくら面白いゲーム、あるいはほかの遊びを提示しても絶対につまらない。
「酒」「ギャンブル」「スポーツ」「キャンプ」「釣り」「音楽」「絵を書く」、様々な趣味があるが自分から楽しもうとしない、というのは「お姫様扱い」「お客様扱い」を望んでいるだけ。
つまり何を言いたいのかと言えばその姿勢こそがドラクエシリーズにおける「魔王」。
「ゴール」に向かって進もうとする「勇者」ではない。
「ゴール」を終えた「英雄」でもない。
ただし「勇者」でもあったし、「英雄」でもあった。
しかしその過去の栄光、威光、権威を振りかざす存在。
今風に言えば力のある「老害」が「魔王」。
だから歴代のドラクエの「魔王」の多くが「年老いた老人」の姿の形態と「醜い怪物」の姿の形態を取る。
「現実の姿」である老いた身体と「心の在り方」である過去に執着する醜悪な化け物。
だから「魔王」が「勇者」のロールプレイをしても絶対につまらない。
何故なら自分は「褒められて当然」「称えられて当然」
無条件に「快楽」を与えられるべき「お姫様」「王様」「お客様」であるべき。
けど「勇者」っていうのはそうじゃない。
「勇者」として称えられたいなら「冒険」しなくちゃいけない。
「冒険」するということは理想的な結果にはならないということ。
「勇気」を振り絞っても失敗するかもしれない。
「親切」をしてもそれが必ず報われるとは限らない。
「正直」に生きて、裏切られるかもしれない。
けれどそうして「冒険」することで「勇者」となる。
「子供」が「大人」に成長するように。
逆に言えば
「自分の思った通りの結果にならない事に不満を持ち、勇気を嘲笑し、相手を悪者にする」
「報われない、得をしないと分かっているなら親切なんてしない。」
「裏切られる事が分かっているなら損にならないように立ち回り、そして裏切っても損しないなら自分が逆に相手を罠にハメる」
「大人は卑怯」という事を正当化するのは果たして「大人」と言えるのか?
「勇者」が「子供」が「大人になろう」とする「成長の夢」の擬人化なら
「魔王」とは「大人」が「子供のままでいたい」とする「幼稚な我儘」の擬人化だ。
狭間の世界
長々と「『個人的な好き嫌い』と『正義』を混同する人」を責めるような話を書いてきたが1プレイヤーの自分が思う以上、当然の事ながらこれは程度の大小はあるとしてもクリエイターも感じていることだ。
つまるところ「お客様扱い」されない事に対しての我儘だ。
その我儘、「魔王」的な考えをドラクエ、あるいはゲーム、遊び全般において実際の行動として出力するならどうなるか。
最たるものは「裏技」「バグ技」、つまり「ルールやシステムの穴を突いた卑怯な行為」である。
これが謂わば「大魔王デスタムーア」の作り上げた「狭間の世界」だ。
「夢の世界」でもなく「現実の世界」でもない。
そしてドラクエ6序盤の敵であるムドーが使う「幻術」とは「狭間の世界」の力を借りる、つまり「バグ技」によって「夢の身体」と「現実の身体」に分ける。
丁度FC版のドラクエ2で有名なバグ技、「はかぶさの剣」を「反転」させたような感じだ。
「はかぶさの剣」というのは
・作中最強の攻撃力を持っているが呪いによって一定確立で行動不能となる「破壊の剣」。
・攻撃力は非常に低いが2回攻撃が可能という唯一無二の性質を持つ「はやぶさの剣」
この二つの剣の良いところだけを合わせたものをバグ技によって生み出すもの。
つまり「最強の攻撃力」を持ちながら呪い無しで「2回攻撃」が可能というものを生み出す。
ムドーの使った幻術とは元々1つだった「夢」と「現実」が既に備わっている主人公達を無理矢理「夢」と「現実」に引き裂いた。
2つのものを1つにしたのではなく、1つのものを強引に2つにした。
だから「はかぶさの剣」の「反転」。
その「バグ技」、「卑怯」の権化が「大魔王デスタムーア」
しかしどんな「バグ技」「卑怯」を使っても負ける時は負ける。
スポーツなどでどんなに金をかけて良い道具、良い環境、良いコーチ、更には試合の審判などに買収をかけていたとしても負ける。
それは相手に実力で圧倒されるということ。
どんなに卑怯な真似をしようともそれは行ってしまえば「ハンデ」でしかない。
「横綱相撲」という言葉があるように格下の相手が勝つために使える技、使える物をなにを使っても許されるのに対して横綱は「品格」を求められる。
横綱ともあろうものが格下相手にトリッキーな小技を使って勝とうものなら「周り」の人間が許さないのだ。
勿論公平な判断を下す「審判」にもその目は向けられる。
「審判」で有り続けたいなら「買収」などはねのけなければバレた時に撮り返しのつかない事になる。
だから「横綱」でいたいのであれば「真っ向勝負」で「格下相手」の「小技」「卑怯な手」を叩き伏せる。
それと同じでいかに「デスタムーア」が強い力を持ち、「卑怯な手」を使っても狭間の世界という「同じ場所」で戦う以上「真っ向勝負」で叩き伏せればいいだけ。
同じ実力で拮抗して初めて「卑怯な差」が力を発揮する。
実力で圧倒すれば卑怯な手で作った差など無意味となる。
そして最初から自身の実力以外のもので差を作ってしまえばそれに依存してしまう。
仮に最初から最強装備の「メタルキング装備」一式を用意されて冒険を続けていけば無双できるし、サクサク進む。
しかしレベル上げもせず装備の強さに依存してドラクエ6を進めたとしてもムドー戦まで持たずに躓くだろう。
そして今までやってこなかったレベル上げを強いられる。
けれど今まで「サクサク」やってきたからこそ地道に「コツコツ」レベル上げするのはつまらなく感じてしまう。
だから「強い装備」で飽き足らず今度は簡単に「強い技」が欲しいと願う。
そしてやがてそれを「独り占め」しようとする。
だから「狭間の世界」に行く事ができる天馬、ペガサスを封じた。
「同じ土俵」に上がられてしまっては裏技、バグ技の優位性がなくなる。
優位でいるには同じ土俵に上がらせない事が重要。
これについてはデュランも「自分如きでは戦う事すらできない」といったように「正攻法」で「バグ技」を上回るのは可能ではあるが「困難」なのである。
ペガサスで狭間の世界に向かう、というのは「独り占めの世界」に入り込むことでその優位性を無くすという事である。
デスコッド
勇者が「正攻法」で魔王が「バグ技」。
ではドラクエ6に出てきた魔王すら食らう大悪魔「ダークドレアム」とは何なのか。
その前にダークドレアムの手前にある「デスコッド」という存在。
デスコッドはドラクエ6のスタート地点、「ライフコッド」と同じ作りの場所がダーマ神殿の地下からいける隠しダンジョンの先に存在する。
SFC版ならライフコッドにおける主人公の家に当たる建物の中にいるキャラに話しかけると「本当の姿を見せてあげる」と言われ、画面が変わると村の中にいたキャラクターが人間のグラフィックからモンスターのグラフィックへと変わる。
一部、過去のドラクエ4、5のキャラと思われる人間のキャラも存在する。
ただしキャラグラフィックは凡庸の人間キャラである。
そして道具屋では「ドラゴンの悟り」と「ふっかつの杖」という希少アイテムを購入できる。
SFC版の情報だけではラスボスを倒してから行くことが可能となる「オマケ」という事で過去作のキャラの登場も「ファンサービス」と解釈するのが普通だろう。
実際その部分は全くないというわけではないだろう。
問題はリメイク版のDS版以降のデスコッド。
このリメイク版のデスコッドでは上述の「本当の姿を見せてあげる」のキャラから選択肢を出され、デスコッド内のNPCが「近い未来」で「ドラクエ4」のキャラ、「遠い未来」で「ドラクエ5」のキャラ、
そして「今の魔物」で「モンスター」へと変化する。
そしてこの選択肢で「天空シリーズ」の時系列と繋がりが決定的なものとなった。
というのが大部分の人が注目する部分だ。
自分が注目したのは「今の魔物」の選択肢を選んだ時に登場する魔物だ。
この選択をしたときにデスコッドに現れるNPCのグラフィックはSFC版で魔物使いとして仲間にできた仲間モンスターだ。
リメイク版では仲間にできるモンスターは全て「スライム系」に限られている。
SFC版でなら「仲間モンスターのグラフィック」を流用した、という理屈は通る。
しかしリメイク版ではこれらのモンスターは仲間にならない。
基本的にモンスターは全て汎用の青いモンスターのグラフィックで表現される。
ボス級のモンスターでさえ基本的にはこの汎用のモンスターで表現される。
例外がブラディーポやホラービースト、そしてベストドレッサー、そしてスライム格闘城だけ。
ブラディーポやホラービーストはストーリー上必ず通る道だから仕方ないし、スライム格闘場も専用グラフィックとはいえスライム系である以上、仲間になるスライム系の色違いでしかない。
しかしその他のモンスターのグラフィックの使いどころはストーリー上は必須ではないランク7のベストドレッサーだけだ。
この事から考えられるのは「ベストドレッサー」に使われるモンスターのグラフィックをデスコッドのNPCに流用したというのは難しい。
そもそも「仲間モンスター」のシステムを廃止して「スライム系が仲間になる」と言う方向に変えたのだ。
ならベストドレッサーも「モンスター部門」ではなく「スライム部門」などへの変更でも良かったわけだ。
スライム限定となってこの部門にドランゴが出場出来なくなったとしてもドランゴはわざわざ性別が「おんな」となっているのだから女性部門に出場出来るようにしてもよかった。
実際にはSFC版同様に女性部門には出場出来ずモンスター部門に出場可能だ。
とはいえ恐らくベストドレッサーのモンスター部門に出すとなるモンスターについては恐らく大多数のプレイヤーはスライム格闘場の兼ね合いもある事から重装備が可能で早い時期から仲間に出来て成長しているスライムナイトのピエールだろう。
色々と理屈を捏ねたがつまりは「本編」にスライム系以外のモンスターのグラフィックを出す理由が皆無に近い。
だからSFC版の「仲間モンスターのグラフィックをデスコッドの住民に流用した」と言う理由付けではなく、むしろ逆に「デスコッド」のNPC専用にわざわざ用意したグラフィックを「ベストドレッサー」に流用したと考える方が普通だ。
ここでもう一度「デスコッド」について考えてみる。
よく言われるのが物語の始まる「ライフ」に対して物語が終わり、裏ダンジョンの奥にある「デス」。
「生」と「死」の対比となっている。
それは本当なのだろうか。
そこで「海外版」ではこの二つの村は何とされているのか。
SFC版は海外版が販売されていない。
リメイク版が海外版でも販売されている。
そして海外版におけるそれぞれの名称は
ライフコッド→「Weaver's Peak」
Weaverが織物、peakが峰、頂上などを指す。
デスコッド→「Reaper's Peak」
Reaperとは刈り取り機、それから転じて「死神」や「死の擬人化」を指す。
日本語版とは違い、海外版では名前がそのまま対になっているわけではない。
ただギリシャ神話の運命の3女神となるモイライ三女神が「人生」を「糸」として表現しているからそこからこじつければ「生」と「死」に結び付けられなくもない。
ライフコッドとは対とは言い切れないがデスコッドは「死」と関連している。
とはいえそうなるとデスコッドの存在と矛盾する。
選択肢を選ぶ前、最初に訪れた時に見たライフコッドの夢は主人公の中のもう一人の主人公、つまり融合した「現実世界の主人公」の見ている「夢」。
選択肢で選ぶことになる「近い未来の夢」、「遠い未来の夢」、「今の魔物の夢」。
「夢」というのは生きているからこそ見ている。
つまりデスコッドの住人は生きながらにして死んでいる。
この解釈をどう受け取るか。
結論を言えば「生きながらに死んでいる」とはデスコッドとはドラクエ6を作るに当たって「キャラとして作られたものの本編に登場させてもらえなかった存在」。
つまり「ボツ」になった者たちが収容された場所。
そんな場所とはいったいなんだろうか。
一番近い物、分かりやすい概念でいえば「デバッグルーム」だ。
自分も動画やブログなどで閲覧した事があるがSFC版のドラクエ6のデバッグルームを見た事があった。
そして実際にそのデバッグルームでは「もうどうなってもいい?」という台詞をいうNPCがいる。
デバッグルームのフラグ管理をしているNPCが発する台詞であり、この台詞は上述したデスコッドの本当の姿を見せてくるキャラも使ってくる。
ドラクエシリーズだけでも色々な作品がデバッグルームが消されないまま販売されている。
デバッグルームが消されない理由は様々ある。
フラグ管理としてデバッグルームを消すことができなかったとか、色々だ。
そして基本的には通常プレイではデバッグルームにはたどり着くことはできない。
ただしゲームによっては特殊なコマンド入力を行う、プレイステーションなどなら特定のタイミングでディスクの蓋を開閉するといった「バグ技」を使う事でそのデバッグルームへ入れる作品もある。
デバッグルームではないが、本来通常プレイではアクセスできず、バグ技を使って裏側に忍ばせたデータを強引に引っ張り出した、という意味で一番有名なのは初代「ポケモン」の「ミュウ」だろう。
ただし基本的には「改造ツール」が必要となる。
とはいえ現在ではSFCの頃とは違い、ネットにつなぐのが当たり前の時代である。
DSの時点で「すれ違い通信」などがあり、個人的に改造を楽しむだけの範疇に留める事は難しく、不特定多数の人間に改造されたデータをばらまく事になるし、事実過去にあった。
現在では改造ツールの所持や販売が禁止されている。
そしてデバッグルームだけにしか存在しないデータ、「アイテム」や「フラグ管理」ができる場所があったりする。
それをドラクエ6ではデスコッド以外では個数に限りがある「ドラゴンの悟り」の販売だったり「オリハルコンのキバ」のフラグ立てとして表現していると考えられる。
恐らくデスコッドとは本編をクリアした者だけに許される「公認」の「公開デバッグルーム」とでもいえる場所だと思われる。
ダークドレアム
デスコッド→デバッグルームだとするならばさらにその奥にいるダークドレアムとは何者か。
結論を先に述べてしまえばデバッグルームにも入ることができる存在、つまり外部ツールによるデータ改ざん、「改造コード」を擬人化したもの。
と言われるとダークドレアムの反則級の強さは納得もできるはずだ。
実際、デスタムーアVSダークドレアムで行われてることは全て反則に近い事なのだ。
如何にデスタムーアが裏ワザ、バグ技を駆使しても結局のところ用意されているデータを見つけ出し、それを運用する事しか出来ない。
仮に「攻撃力1000」の武器をデスタムーアが求めたとしてもドラクエ6にある最強の武器は「グリンガムのムチ」、もしくは2回改造した「ラミアスの剣」の「攻撃力145」が最大である。
仮に「一撃で敵全体を倒す特技」を求めてもデータに無ければ使えない。
用意されていない物を作るには「改造」するしかない。
とはいえダークドレアムを20ターン以内に倒す事ができ、そもそも裏ダンジョンに向かう事の条件自体、ラスボスを倒している事が前提となる。
わざわざダークドレアムに戦わせなくともプレイヤーの手でデスタムーアを倒す事はできる。
言ってしまえば「茶番」であるがこの「茶番」こそが「ゲーム」という「夢」を「破壊」してしまう事の比喩だ。
SFC版のドラクエ6の頃はオンラインゲームなんてものはなかった。
すくなくとも子供が遊ぶ、プレイする選択肢としてオンラインゲームは存在しなかった。
しかし「裏ワザ」「バグ技」はFCのドラクエ2の「はかぶさの剣」の例があるように昔から存在したし、「改造ツール」というもの自体は1980年代から存在していた。
「改造コード」を使って当たり前にデータの改ざんが行われるようになればゲームは破壊される。
その破壊とは単に「ゲームデータの破壊」だけでなく「ゲームを楽しむ」という概念自体が消えてしまうのだ。
ゲームというのはただ闇雲に難易度を上げればいいというものではない。
しかし最初から改造コードで最強の装備、最強の技、レベル最大という超簡単なものであってもすぐにつまらなくなる。
ましてダークドレアムのように「無敵状態」や「9999ダメージ」など通常ではあり得ない状態を作り上げてしまえば最初は面白くてもすぐに飽きる。
それが「ゲームを破壊する」ということ。
「ゲームを楽しむ」という事の消失だ。
だからこそ、デスコッドもダークドレアムもクリア後のオマケとして登場させた。
だからこそグレイス城は滅ぼされた。
「バグ技」を使って世界征服をしようとする大魔王デスタムーアを倒すためとはいえ、ルールとマナーを破り、データを改ざんしてダークドレアムを呼び出した。
そう考えるとダークドレアムの名前の由来。
DARK 、そしてDREAMのローマ字読みの組み合わせ。
そして名前の由来は「悪夢」というのがよく言われている説だ。
確かに「悪夢的強さ」ではある。
しかしDARKとは本来「闇」、「暗い」という意味がある。
「闇の夢」、あるいは「暗い夢」
「勇者」が「人々の希望」「夢の結晶」という「明るい夢」であるなら「DARK DREAM」とは「人の目に晒すことが憚られる夢」、「恥」そのもの。
「ダークドレアムの力でデスタムーアを倒したい」というグレイス王の考えは「夢」ではない。「恥」だ。
手段を選んでいられない、という状況だった。
とはいえ「毒を持って毒を制す」どころか「争い事を消すために老若男女、敵も味方も関係なく皆殺しにする」というレベルで本末転倒で愚かな選択だ。
「ゲーム本編を満遍なく遊びつくした」という状態で「個人の自己責任」で「改造コード」で通常とは異なる方法で「遊ぶ」という理屈なら褒められたものではないが分からなくもない。
しかし「ゲーム本編で躓いた」から短絡的に「改造コード」をしようする。
「攻略」のために「攻略本や攻略サイトを見よう」と言うものと同じ感覚で「最強にしてしまおう」というのはバグ技以上に危険な考えと行動だ。
またそうした安位な考え「個人の自己責任」というものを認識せず短絡的に改造コードを行った結果、データが壊れてプレイできなくなっても恥知らずにも公式に修理を求めたりする。
グレイス王も結局それだ。
ダークドレアムを安易に呼び出した結果、グレイス城は滅亡した。
仮にグレイス王がゼニス王に頼み込んだとしてもゼニス王からすればルールを破った自己責任。「サポート対象外」だ。
こう考えるとデスタムーアVSダークドレアムのイベントを見た後。
ゼニスからの「本当にお前たちが倒したのか?」というようなセリフも「データ改造」「海賊版」などに対するメーカーからの警告とも取れる。
まとめ
ドラクエ6において「勇者」とは「正攻法」、そして「大人になるための夢」。
「魔王」とは「バグ技」、「子供のままでいたいと願う我儘」。
そしてデスコッドとは「デバッグルーム」。
ダークドレアムとは「改造ツール」、あるいは「改造コード」の擬人化。
ダークドレアムの「破壊と殺戮の魔神」という異名は「ゲームデータの破壊」でもあり、「ゲームを楽しむ」という概念自体の破壊でもある。
そしてそれに伴って「普通にゲームを楽しむプレイヤーの人口の減少」、つまり「ゲーマーの殺戮」と言い換える事ができる。
余談になるが個人的にはドラクエ10をプレイしていないのだがダークドレアムを考察するに当たって調べているとドラクエ10にも登場していてしかもグランマーズとも因縁があるとかないとか。
基本的にプレイしていない作品を考察するつもりはない。ドラクエ10でのダークドレアムのキャラもよくわからないし。
しかしオンラインゲームであるドラクエ10においてもダークドレアムが破壊と殺戮の化身であるとするならば。
そしてダークドレアムが自分の考察通りなら言ってしまえば「チーター」という概念の化身だ。
オフラインのドラクエ6よりオンラインのゲームであるドラクエ10の世界にとっては害悪だろう。
そしてドラクエ10においてそのダークドレアムと因縁があるというグランマーズ。
ドラクエ10は抜きにしてもドラクエ6のグランマーズは「夢の世界」を見渡すことができる存在だ。
ダークドレアムが「改造コード」の化身なら「夢の世界」を見渡すことができるグランマーズとは果たして何の化身、何の役割があるかと考えれば答えが出せる。
そしてこうやって「考える」ということが「楽しむ」という事に繋がる。
楽しいと思えるから考察する。
考察した結果もっと深く楽しむ事ができる。
あくまで考察で公式ではない事は注意しなければならないが、楽しめる以上は無駄ではない。