ドラゴンボールの大猿、スーパーサイヤ人の能力についての考察




喜怒哀楽

上記の記事が前提です。

軽く説明すれば大猿は「喜」、スーパーサイヤ人は「怒」、スーパーサイヤ人2は「哀」、スーパーサイヤ人3は「楽」となっている。
ドラゴンボールは「戦闘力」という数値、あるいは「気の大きさ」というもので戦闘能力の強弱が決められており、明確にその序列は大猿化<スーパーサイヤ人<スーパーサイヤ人2<スーパーサイヤ人3となっている。
しかしコレがもし、特撮物の所謂「特化形態」のような類のもの、例えば「パワー特化」とか「スピード特化」のような形態なのだとしたらそれぞれの感情はどんな力になるのか、というのを考察してみた。

四竦み

ジャンケンなどで所謂「三竦み」という概念がある。
グーはチョキに勝ち、チョキはパーに勝ち、パーはグーに勝つ。
喜怒哀楽で分けられたそれぞれの変化はこの4竦みバージョンと言える。
喜<怒<哀<楽<喜<…となる。コレはどういう事か、というとそれぞれの形態への考え方をゲーム的な見方で少し考えてみる。

大猿化とは

大猿化は「満月」の時に「尻尾のあるサイヤ人」が変化するという特殊な条件下における能力と言える。
コレはつまり「必殺技」と言える。

例えばアクションゲームなどで言えば「必殺技ゲージ」や「特殊なアイテム」などがある時にのみ発生させられるようなものと同じと考える。
威力は絶大、ピンチの状況でも一発逆転を狙える。
でもこれは最初に紹介した記事でも似たような書いているが見方を変えると「卑怯」と言える。
「必殺技」とは「通常技」とは異なる。

考えてみるとドラゴンボールの初期、アニメでいうところの所謂「無印」の頃。
孫悟空が子供の頃からマジュニア戦の頃というのはこの「必殺技」の応酬だった。
ドラゴンボールの必殺技の筆頭と言える「かめはめ波」、「ジャン拳」「気功砲」「舞空術」「魔封波」「太陽拳」。

それまではそれが「無し」の状態というのが当たり前だったからそれらの技は「必殺技」として一発逆転の技となり、そして相手からすればそれは「こんなの有りかよ」という「卑怯」という言葉にするしかない。

だがそれらの技が「有り」となってしまうとそれらの技は「通常技」の範疇でしかない。
サイヤ人編以降、当たり前のように皆「気弾」を操るし「舞空術」も使う。
皆が同じ「技」を使えるようになればそれは必殺技たりえないし、事実フリーザ編以降はそうした「必殺技」の強さや多さで相手を倒した、というのはない。

スーパーサイヤ人とは

大猿化が「必殺技」なのに対してスーパーサイヤ人とは何か。
設定としては「元の戦闘力50倍」というのがスーパーサイヤ人の強さらしい。
スーパーサイヤ人についても先の記事で書いているが「怒り」とは「努力」だ。
つまりゲーム的に言えば「レベル上昇」というようなものだ。

シンプルに「同じ技」を使える者同士が戦えばどちらが勝つのか。
ある程度「運」が絡むとはいえ基本的に「実力が高い者」が勝つ。
非常に当たり前の話であるがスーパーサイヤ人とは「怒り」の力で「レベルアップを果たす能力」と言える。

スーパーサイヤ人第一形態~第四形態

スーパーサイヤ人の2や3とは別にスーパーサイヤ人1に限り、複数の形態が存在する。
まず最初は初期状態のスーパーサイヤ人。
そしてそこからセル編でベジータが成って見せた「スーパーベジータ」と自称した筋力が肥大したような姿の第二形態。
更にそこから筋力を増したトランクス、所謂「ムキンクス」と言われる第三形態。
そして孫悟空、孫悟飯親子が精神と時の部屋で修業を終えて身に着けた「自然な状態でスーパーサイヤ人でいる」と評された状態。

コレは言うなれば「努力」の「有り方」だ。
「第一形態」は「身体に負担が大きくないレベルの努力」と言える。
「第二形態」はベジータの身体が軋むような表現もあり、「身体に負担のかかる努力」と言える。
「第三形態」はパワー特化で攻撃が当たらずセルに嘲笑された通り、「目的を見失った迷走した努力」と言える。
そして「第四形体」とは「日常化した努力」と言い換える事ができる。

勉強や仕事、運動というのも結局「最初」が辛い。
「普段」とは異なる事をしているため身体や精神が変化に慣れるまで辛い。
しかし「結果」を追い求めるために「スーパーベジータ」のように「無理」をする。
さらにそこから「ムキンクス」のように「無意味な自己満足」となる。
孫悟空が第四形態を目指したように「努力し続ける」ということ、「継続すること」で勉強にしろ仕事にしろ、運動にしろ最終的に「大きな結果」を出す事に繋がる。

テスト直前に一夜漬けで一日だけ長時間勉強するよりも毎日例え短時間でも一定の時間、予習復習をしている方が実力は着く。
スーパーサイヤ人の第一~第四形態についてそのような解釈を自分はしている。



スーパーサイヤ人2とは

スーパーサイヤ人が「努力」、つまり「レベルアップ」とするとスーパーサイヤ人2とは何か。
スーパーサイヤ人2とは「哀」。
「哀しみ」とは「相手に対する共感能力」と前の記事で自分の考えを述べた。
「同じ技」を持ち、パワーやスピードといったものが「同じ実力」で有れば後は勝負の優劣をつけるのは「タイミング」だ。

格闘技における所謂「カウンター」というもの、ゲーム的には「クリティカル」としてよく表現されたりもする。
アクションゲームなどでは敵の攻撃後の隙を狙って攻撃すると大ダメージが入るとか、あるいは逆に「ジャストガード」といった敵からの攻撃を完璧なタイミングで防ぐとノーダメージで防げたり、ゲームによってはそこから攻撃の起点になったりもする。

スーパーサイヤ人の解釈である「レベルアップ」が言うなれば「レベルを上げて物理で殴ればいい」という「ゴリ押し」的なものに対してスーパーサイヤ人2は「相手の隙を狙って効率よく攻める」という物だ。
そうすれば例えスペック上の実力は大差がないとしてもただの通常攻撃が「タイミング」を見計らう事で「必殺の一撃」にもなりえる。

親子かめはめ波

孫悟飯とセルとのかめはめ波対決、「親子かめはめ波」だがコレも「カウンター」だ。
演出として直前にセルの自爆の道連れになって死んだ孫悟空が諦めそうになった孫悟飯に活を入れ、逆転して放った親子の技、という事で感動の場面でもあり、自分も好きな場面だ。

しかしコレもベジータの横やりによって生まれた「セルの隙」を「孫悟飯」が突いた事で発生した「クリティカル」な技。
「同じ技」のかめはめ波が衝突しあい拮抗している「同じ実力」、それを「相手の隙」を突くことで「必殺の一撃」となったのである。

スーパーサイヤ人3とは

スーパーサイヤ人2が「タイミング」の力。
では「楽」に当たるスーパーサイヤ人3の能力とは何か。
「同じ技」で「同じ実力」で「タイミングを図る能力」も同程度。
そんな相手に何があれば勝てるのか。

その前にスーパーサイヤ人2の力で「カウンター」と表現したがそれは西洋の格闘技、ボクシングなどの概念であるが日本の武術、「空手」などでは「後の先」と言ったりする。
それに対して「先の先」という概念がある。
相手の動こうとする気配を察知し、それより先に動き攻撃し、そして同時に相手の攻撃も封じる。
「攻撃は最大の防御」とはいうが相手の挙動を把握し、事前動作に入って即座に攻撃する事で一方的に相手を攻撃できる。
防御する必要もない。

だから結論としてはスーパーサイヤ人3とは「先の先」だ。
とはいえ何故それが「楽」の感情になるのか。

「楽」は「楽しい」という感情に使われると同時に仕事や作業を「楽にこなす」、つまり「簡単」、「簡略化」するという意味合いとしても使われる。

意識の高い人間が「『楽しい』と『楽をする』は違う!」みたいな台詞を言ったりするフィクションであったり、あるいは自己啓発的な話で語っていたりする。
実際「感情としての楽」と「作業効率の楽」は異なる意味だ。
問題は違う意味合いなのに同じ漢字が当てられているのか。

「違う」という事は雰囲気で分かる。
「どこが共通点なのか」を理解せずに「楽しいと楽をするのは違う」と言ってもカッコいいだけで言葉が軽い。
無論、「楽しい」と「楽」のパターンとは逆に意味合いとしては「殆ど同じ」だが「僅かな違い」が存在する言葉もある。
例えば「聞く」と「聴く」。
どちらも「似た意味」だが「僅かな違い」がある。

この「違う意味だが共通点」がある。
あるいは「殆ど同じ意味合いだが僅かな違い」がある。
この「違和感」を感じとる。
コレ自体は敏感な人間なら察知が可能だ。
楽とは察知した違和感に対して即座に行動に移す事。
それこそが「感情としての楽」と「作業効率の楽」の共通点。
「反射的に行う」という事。

とはいえ実際に意思を持った人間相手に「反射で行う」というのは難しい。
何故なら動物としての「本能的」な「反射」を上書きする必要があるからだ。
特に格闘技や武術など、あるいはスポーツなどでも「脱力」という概念が重要となる。
例えば相手から攻撃されたら「本能的」に身体は身構えて全身に力を入れてしまう。
そうなると身体が緊張して動けなくなる。
その「本能的」な防御反応である「全身に力を入れる」というものを「防御技術」である「スウェー」「カット」「ブロッキング」といったもの、あるいは「カウンター」へと上書きする。
勿論、格闘技ジムなどでそれらを教えて貰えば誰でも出来るようになる。
しかしそれは「意図的に狙って行う」というレベルであり、「反射的に行う」というレベルではない。

「武術」という生物にとって後付けの動作で「本能」としての動作を上書きする。
そのためには「反復練習」によって自分の身体に動作を染み込ませるのと同時に染み込ませた動作を対象の動きに合わせて柔軟に繰り出す必要がある。
そのためには「対象」の僅かな変化を察知し、次の行動を「予測」する必要がある。
格闘技や武術なら相手の身体の構えの変化などがそうだ。
ターン制のRPGゲーム、例えばキャラデザインがドラゴンボールと同じドラゴンクエストなどのボス戦でも相手の行動パターンや弱点などが分かっていれば「低レベル攻略」も可能だ。

「タイミング」を見計らってカウンターを当てるのが上手い相手に効果的なのは「フェイント」だ。
例えばパンチが来る、と感じた瞬間にカウンターの動作に入ろうとしたその瞬間にパンチではなくキックが来たら防御出来ない。
「相手の動き」に「反応」して行動する者ならそれを逆手に取り、「この動きをすれば相手はこう動く」と先読みすればフェイントを織り交ぜる事で無駄な体力を使わずに相手の動きを制御できる。

「楽」とは「反射」と「予測」の力、それによって戦況を「支配」する力である。

スーパーサイヤ人3に孫悟空は成れたのにベジータがなれなかった理由。

孫悟空とベジータの違いはセル編後の修行の違いだ。
孫悟空は死んでしまったが死後の世界、「あの世」で活動できる身体を与えられた。
そして同じように身体を与えられた過去の達人を相手にしながら修行を重ねた。
一方で恐らくベジータは一人で重力コントロール室で修行を重ねるしかなかった。
地球人の最強格と言えるクリリン、天津飯、ヤムチャ、そして神と一体化したピッコロですらベジータとは実力に大きな差がある。
唯一ベジータの相手が勤まるのは孫悟飯だけだが孫悟飯は戦闘が好きではない。
純粋な戦闘民族であるベジータと他のメンツとは戦闘における意識の差がある。

かといってブルマや幼いトランクスを置いてかつてフリーザ軍にいた頃のように他の星に向かい暴れ回るわけにもいかない。
魔人ブウ編で操られた際にわざと術にかかった理由を孫悟空に話している。
「色んな対戦相手がいた孫悟空」と「一人で黙々と修行するしかなかったベジータ」。
「楽」に至るまでの「動作を身体に染み込ませる」という事はベジータにも可能だったがもう一つの「対象の変化に柔軟に対応する」というのは「相手」が必要だ。

ゲームにおける対CPUに相当は妻であるブルマの手を借りれば仮想の相手を作り上げてベジータは経験を積み重ねる事は可能だが対人戦は出来ない。
だから「不測の事態」が発生しにくくなる。
この「環境の差」がストイックな2人の実力を分けた差である。

ゴテンクスについて

孫悟空の他にスーパーサイヤ人3になれる者が孫悟天とトランクスがフュージョンで合体したゴテンクスだ。
先に紹介した記事で何故ゴテンクスはスーパーサイヤ人1の形態とスーパーサイヤ人3の形態になることはできてもスーパーサイヤ人2の形態にないのか、という事についても喜怒哀楽に当てはめて幼い二人では戦いを「楽しむ」という事は出来ても他人の怒りに共感する「哀」の感情を持てないから、という考察をした。

ゴテンクスとはつまり「哀」が抜けた「喜怒楽」の戦士という事になる。
ここまでの考えで
「同じ技」「同じ実力」「同等のタイミングを計る能力」の上でようやく「楽」の力である「予測」の力が生かすことができる。
しかしゴテンクスの場合は「技」と「実力」ではあっても「タイミングを計る」という能力が欠けている。
そのタイミングを計る能力が欠けた状態での「予測」というのは意味を成さない。
タイミングを計る能力が欠けた予測、というのは単に「自分勝手な憶測」でしかない。
そしてその「自分勝手な憶測」の元に行われる「先の先」の攻撃は「早とちり」「勘違い」が多く、そして力の「配分」ができない。

ゴテンクスは確かにその実力は作中屈指の力だったのかもしれないが魔人ブウとの戦いでは自分の生み出した「必殺技」を決めたいという欲求や出し惜しみをして精神と時の部屋に閉じ込められて窮地に陥ったり、時間制限を忘れてスーパーサイヤ人3状態の維持、フュージョンが解除されてしまうなど、「勝負を極めきれない」でいた。
ドラゴンボール超においては「身体が勝手に反応する身勝手の極意」や「本能に突き動かされる力を操る我儘の極意」というものがあるがゴテンクスのそれは正しい意味での「身勝手」であり「我儘」である。

必殺技で決着を決めることができればそれは勿論「カッコいい」。
ゲームなどによっては「敵を倒す際に必殺技で決める」と獲得経験値や獲得金額が増えたりアイテムがドロップしたりする、といった「ボーナス」がある場合もある。
しかしそうなると「決着を特定の行動で決める」という事になるとダメージ計算から技を出すためのエネルギー管理などが必須になる。
単に敵を倒すよりも非常に難易度が高い攻略となるのはアクションゲームやRPGゲームをプレイした事のある人間なら分かるだろう。

そして対人戦のゲームであるならこうした相手の動きというのは読みやすい。
「ゴールの形」を最初から決めている以上、「ゴールに至る手」というのは限られてくる。
例えタイミングを見る能力が劣っていても予めそれが来ると分かっているのならある程度の実力さえあれば回避も防御もカウンターも可能だ。

例えばボクシングで「必殺技は右パンチで決めに来る」という事が分かってさえいれば常に相手の左側面の方向に立っていれば右パンチは届かない。
倒される恐れのない威力の低い左のパンチだけ。
相手は左手一本に対してこちらは両手。
相当な実力差や奥の手として「左パンチの必殺技」がない限りは負ける通りはない。

ゴテンクスは年齢が年齢故に仕方ないとはいえ、「相手の怒りに寄りそう」という「哀」の力である「タイミングを計る」という能力の欠如によって「楽」で得られる「本能的、あるいは経験則に基づく予測」が「身勝手かつ我儘な憶測」になってしまったと自分の考え方では言える。

スーパーサイヤ人3を超えるもの

原作においてはスーパーサイヤ人3が孫悟空の最強形態だがそれを超える力がある。
それはベジットとアルティメット悟飯だ。
この2つに共通する事は「他者」の力を用いるという事。
ベジットはポタラ、アルティメット悟飯は老界王神の力という両方とも「神様」の力を用いたもの。
魔人ブウも大界王神に始まり、ゴテンクスとピッコロ、アルティメット悟飯の吸収と「他者」の力を用いる事で強化している。そしてラストの地球人の力を限界まで絞りとった元気玉。
コレもまた悟空の力を超えた力。

「喜怒哀楽」の感情で「四竦み」と最初に述べた。
・「同じ技」が使える者同士なら「実力が高い方」が勝つ。
・「同じ技」と「同じ実力」なら「タイミングを計れる者」が勝つ。
・「同じ技」と「同じ実力」、そして「タイミングを計れる者」同士なら「予測できる者」が勝つ。

では全てが拮抗し合うとどちらが勝つのか、となると「奥の手」がある者。
つまり「新たな必殺技」を持つ者が勝つ。
喜怒哀楽の最終的な着地点である「楽」の感情に打ち勝つのは新たなスタートとなる「喜」の感情。

そしてそれが原作においては「神」の力。
見方を変えれば「反則」であり、「卑怯」である。
孫悟空やベジータもポタラでの合体や魔人ブウの吸収などは卑怯だといい、嫌悪感持っていたが最後の元気玉のシーンでは全ての吸収を解いた魔人ブウに対して孫悟空は労いの言葉とお互いに力をつけて再戦の願いを口にした。
今度はお互いに正々堂々、「同じ技」を使う「同じルール」での勝負。
また最初の「喜」、ドラゴンボールの始まりがそうだったように「新たな冒険」に向かうことになる。
そしてドラゴンボールの中における「喜」の最たる象徴とは「ドラゴンボール」そのものであり、「神龍」となる。
原作になかった映画オリジナルとはいえ孫悟空が生み出した最強の技「龍拳」はその「神龍」を模した技と考えると例えスーパーサイヤ人3と同格の相手が現れてもそれを倒せる「必殺技」である。

発展型

ここまで語ってきたがドラゴンボールが好きな人なら特に「スーパーサイヤ人2」と「スーパーサイヤ人3」の考察について既視感を持った筈だ。
それはドラゴンボール超で登場した「身勝手の極意」と「我儘の極意」。

恐らくスーパーサイヤ人2を掘り下げて行くと「天使の力」である「身勝手の極意」の能力となり、スーパーサイヤ人3を掘り下げていくと「破壊神の力」という「我儘の極意」となる。

「身勝手の極意」は相手の行動に対して「正解」、あるいは「最適解」を選び続ける事で相手を倒す。
問題は使い続けると体力の消耗が激しくなる事。
スーパーサイヤ人2にはそうした明確な描写こそなかったがそもそも孫悟飯対セルでは短期決戦であったし、魔人ベジータVS孫悟空もお互いに近い実力ゆえに片方だけが消耗するという事がなかった。


「我儘の極意」は本能の力を引き出す事で際限なく強くなる、という事だがそのためにはダメージを受ける事で本能を引き出す。
これはダメージの蓄積がきっかけ、というより「データ」「経験」の蓄積と解釈すると「新しいデータ」が手に入れば入るほど強くなるという、現代では何かと問題になる「AI」と似通った性質だ。

そしてさらにこの2つを上回る存在としてシリアル星のドラゴンボールで最強の戦士となったグラノラ、そして精神と時の部屋で10年の修行を行い、最強戦士となったグラノラすらさらに上回るブラックフリーザがいる。

このグラノラも対価を払ったとはいえドラゴンボールで呼び出した神龍によって宇宙一の戦士になる、という「反則」的、あるいは「卑怯」な成長方法。
つまり「喜」の力。
そしてブラックフリーザは長期に渡る修行によってグラノラの上回る力をつけたという「怒」の力。

鳥山明先生の逝去のタイミングでドラゴンボール超の漫画も休載となってしまったが孫悟空とベジータが巨大な力を得たブラックフリーザに迫る実力を得るには同じレベルの「喜」と「怒」、「必殺技」と「レベルアップ」の習得が必須だろう。
そのためには「喜」を求めて「冒険」と「怒」を求めて「師」や「ライバル」を得る事になる。
かつての悟空がブルマと出会い、ドラゴンボールを求めて冒険し、亀仙人に師事し、様々なライバルと出会ったように。

まとめ。と個人的に思った事。

サイヤ人の形態変化を喜怒哀楽に置き換え、さらに喜怒哀楽からゲームなどにおけるシステムに置き変えて考えてみた。

そこからスーパーサイヤ人2の発展型は身勝手の極意、スーパーサイヤ人3の発展型は我儘の極意と考える事ができる。

原作が連載された時期は今となっては当たり前の所謂「能力バトル物」という概念がなかった。
2000年代より後なら戦闘での細かい「特化形態へのモード切替」というものも受け入れられたのかもしれない。

しかし漫画でこそそうしたジャンルは当時はメジャーではなかったものの、キャラデザインとして関わっていたドラクエシリーズにおいても「職業」という形で様々な能力に特化したキャラが存在している。
もしかしたら鳥山明はシンプルな肉弾戦と気弾の応酬だけでなく、そうした様々な能力のものを描きたかったのかもしれない。
しかしスーパーサイヤ人というものですらある種、時代を先取りしていたのだ。
そこから発展させた能力バトルではあまりにも先取りしすぎている事も自覚し、僅かな描写や台詞に留めておいたのかもしれない。
無論、あくまで自分の想像、妄想に過ぎないが。


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