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【百物語】駅のホームの怪事


 その夜のことは今でも奇妙によくおぼえている。

 十年ほど前ことで、わたしは大学を卒業して会社勤めをはじめて一年目だった。住んでいたのは、中央線の沿線で、大学時代から借りていたワンルームのマンションに、まだ住んでいた。

 年齢は二十三で、あるいは、そのことになにかしら意味があったのだろうか。

 当時のわたしは精神状態が、はっきりいってよくなかった。

 大学の頃からつき合っていた女性と、その春に別れたのだ。……つまりはそれだけのことなのだが。

 もちろん、今から考えると、ずいぶんと馬鹿らしい、もしくは他愛のないことなのだと思わないでもないのだけど。けれども、相手が、なんというか感情の起伏の激しい女性だったので、最後の数ヶ月は罵り合い……それから恥ずかしい話だが、数回殴り合いに及んだこともあった……の応酬で、心底消耗してしまったのだった。

 それから、そう、仕事もうまくいってなかった。ちょっとは名の知れた商社で、もちろん、それほど難しい仕事がまわってきたわけではなかったが、なんというのだろうか、自分に合っていない、という思いが常にあった。結局、五年勤めただけで辞めてしまったのだけど。

 ともかくあまりいい精神状態ではなかったのだ。


 その夜は、残業があり、その駅に着いたのは十時をいくらかまわった頃だった。

 駅は、路線が高架になっている箇所にあって、ホームのすぐ横に何かの看板があるようなそんな駅だった。

 八月で、その時間もむっとするぐらい暑く、そんな時間にもかかわらずかなりの人数が降りて、ぞろぞろと改札に向かう階段口に進んでいった。

 わたしは、なんとなくそのまま歩いていくのを止めて、ホームの途中のベンチにのっそりと腰を下ろしたのだった。

 その頃のわたしは、よくそうやって意味もなくベンチに腰掛けてぼんやりとしていただった。残業がなくて、早く帰ってきた日なんかも、本屋に寄って、文庫本なんかを買って喫茶店に入ったりしたものだった。ふと、帰りたくないというか、自分一人の、誰が待つというわけでもないマンションに戻りたくなくなることがあった。女と別れたことがあるいは影響していたのかもしれない。彼女はよくそのマンションでわたしを待っていたし、別れてからも、何度も電話をかけてきては消耗したものだった。

 いや、もしかすると、その一人暮らしの散らかった部屋というのが嫌だっただけなのかもしれない。学生時代から計画していたことがひとつひとつ無残に崩れ落ちていくのが耐えられなかったのかもしれない。

 あるいは、その夜に見たのは“それ”だったのかもしれない。そんなことを正直なところ何度も思うことがあった。

 とにかく、わたしは、ベンチに腰掛け、煙草をくわえて、火をつけようかどうか、ぼんやりしていたのだった。隣のベンチにサラリーマン風の男がだらしなく横になっていて、高らかに鼾をかいていた。酒でも飲んでいたのだろう。

 ホームに街のあかりが煌々と差し込んでいた。けれどもいったんホームの端のほうに目をやると、そこには深い闇が広がっているようだった。不思議に電車はやってこなくて、それから、なんだかひどく静かな気がした。

 ふと、そのホームの端のほうに誰かが立っているような気がした。いや、ほんとうに女と、それからその横に小さな男の子が立っていたのだった。

 ついさっきまで誰もおらず、ただ暗闇だけがその奥に伸びていただけだったので、すぐにそれがひどくやばい状況だというのがわかった。

 男の子はその女……たぶん、母親なんだろう……と手をつないでいたのだと思う。さっと手を振りほどくと、駆け出してきた。わたしのほうに。

 すごい勢いで、それからそれはなんとも気持ちの悪い子どもだった。子どもなのに……そう、顔は皺だらけで、それから、ひどく黄ばんだ歯を剥き出しにしていた。それはわたしのすぐ間近まで……そういえば、走っている音なんてきこえなかったけど……やってきた。

 死んじゃえ! 男の子が確かにそういうのが聞こえた。

 それから、突然体をひねり、次の瞬間に、背中に取り付けたワイヤーを引き寄せるように背中から線路のほうに飛んでいったのだった。スーッと空中に吸い込まれるように……。まるで映画の特殊撮影のようだった……。

 わたしは……。

 わたしは危ないところだったんだと思う。そのとき、何が起こったかといえば、ベンチの男が「ふああ」とあくびをしたのだった。

 わたしは、一瞬、はっとなり、それから「え?」と思った。ちょうどそのとき、電車が入ってきて、わたしの鼻先を車両が通り過ぎていったのだった。

 わたしはいつの間にか立ち上がって、ホームの端までやってきていて……そんなおぼえはなかったのだけど、そう考えなければ辻褄が合わないのだった。

 心臓がどきどきいって、冷や汗が流れる、その感触は今でも鮮明におぼえている。

 車両が目の前で止まって、ドアが開き、人々がぞろぞろと降りてきた。

 ベンチの男が鞄とそれから、新聞をくるくると丸めて小脇に抱えて、電車から降りた人々の間を歩きながら、階段を降りていくのがぼんやりと目に入った。

 ホームの端に目をやると、やはり女の人の姿もなくなっていて、わたしは、やはり慌てたように階段のほうに向かったのだった。

 階段までいったところで、あれが一番恐ろしかった。男の子の声で、ただ一言、いや正確には一言ですらなく――


 ちっ!


 と、舌打ちらしきものが聞こえたのだった。たぶん、わたし一人だけに。わたしはふりむかずに――ふりむきたくはなかった――半ば駆けるように階段を降りていった。


 以来、そう……もう十年にもなるのだが、わたしはその駅を使っていない。




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