私の半生 ・幼少期〜20代前半

はじめに

1989年10月30日千葉県千葉市で誕生し、育ちもずっと千葉市です。ちなみに平成元年生まれなんです。

私は5人兄弟の長男で弟3人の妹1人の家で育ちました。家は全くと言って良いほど裕福ではありませんでしたが

文章を書く事は物凄く苦手なので、読みづらい感じにはなってしまいますがご了承ください。

今人生の中で1番岐路に立っている感じですので、これまでの半生を書きたいと思います。


幼少期

小さい頃からとにかくいたずらが物凄かったらしくいつも両親を困らせていたなどとよく言われます。

1歳の頃にタバコを口の中に入れてしまってそれを飲み込んでしまったみたいで病院へ急いで向かったそうです。なんとか助かったけど、そのあとに親がめちゃくちゃ怒られたそうです。

小さい頃は、とにかく外で遊ぶ事や家の中で遊ぶことが大好きな子で外で遊ぶときはおもちゃの車に乗って走ったり、ボールを蹴ったり投げたりして遊び、家の中ではおもちゃの車で遊んだり、ぬいぐるみを抱っこしたりと元気な幼少期だったのだと思います。小さい頃の思い出といったら、特にこれといったものはなくて、ごくごく普通の男の子だったかと思います。

幼稚園に上がった頃は色んな人いたなぁみたいな印象で友達を作るっていう概念は正直全くと言っていいほど無くて、終いにはそれは全く興味すら持たない感じでした、それに幼稚園の場所にすら慣れてなくて戸惑ってた記憶があります。唯一幼稚園での楽しみといったら、外で遊ぶ時間に三輪車で園庭を暴走することくらいだったかと笑

とにかく変わってたんだと思いますね笑

幼稚園生の頃は全くと言っていいほどサッカーのサの字すら興味がありませんでした、足も物凄く遅かったので走る事は嫌いだったかと思います。ただ、運動会でのパラバルーンとポンポンダンスはめっちゃ好きだった印象がありますね笑

今思うと幼稚園生の頃って、ただ時間だけが過ぎていく、遊んだり工作したりという事はあったけれど、今思えば時間だけが過ぎていく日々だったとおもいます。


小学校低学年

小学生になると今度は勉強が始まってきました、とにかく勉強は大嫌いで外で遊ぶ事と給食を食べることが大好きな少年でしたね笑 

1年生の頃は給食の早食いをしてた事もありました、そこで先生よりも早く食べて1番になった事もありましたね笑笑いつも先生が食べるの早かったから、いつも先生が給食で出たゴミのビニールをセットしたりしていたんだけど、自分が1番になった時はみんなが捨てるゴミ袋とかをセットしたりして、俺出来たぜみたいな感じでちょっとアピールしてたりもしてたね笑

私がサッカーと出会ったのは、小学校2年生の時なんです、正直サッカーではなくてバスケットボールをやりたかったのは今でも覚えています。足でボールを扱うってのが物凄く嫌で、手でボールが扱えるバスケットがやりたいとは思ってたのですが地元ではバスケットボールは小学校3年生になってからでないと始められないルールになっていたので、それまでは何もしないつもりでいました


ただ、たまたまその頃に地元にサッカークラブができるとなり、地域でサッカーの体験があるとなったのですが、僕自身は全くと言っていいほどやりたくはなかったのですが


母親に無理矢理半ば強制的にやらされてとにかく体験したけど、とにかくやりたくなくて、ボールを追いかけなかったり、砂遊びしたりしていたのですが、休憩の度に母親にブチギレられて家に帰ったら、とにかく母親と父親にめちゃくちゃキレられて4回体験会みたいなのがあったのですが、3回は頑張って行ったけど、残りの1回は行きませんでした。

その残りの1回行かなかったときに今ではある街のサッカークラブを運営する会社の社長になる人が当時現場で指導していて、その人からなぜ今日来なかったの?みたいに声かけられて、次は来いよみたいに言われたのですが、正直サッカーは本当にやりたくなかったんですよねぇ。


でも、弟はサッカーやりたくてしょうがなかったので弟は地域のサッカー体験会のチームがクラブ化した時には真っ先に入ってましたが、私は全くと言って良いほど入りませんでした。

弟が練習に行くから当然俺も見学には連れてかれますよね笑 見学してたらまたそのコーチに声かけられて、どうするの?サッカーやろうよみたいに言われて初めて心が揺らいだのを覚えてます。


サッカーを始める

次に弟の見学行った時に、そこで自分からやりたいと言ったのを覚えてます、多分今思えば挑戦だったんだろうなぁと。最初はすごく嫌々だったし、物凄く下手でみんなにバカにされまくって悔しい思いをして、このチームで1番になったらさっさと辞めてやるって気持ちになっていたんですよねぇ笑 そんな風に思ってたのに、今でもサッカーやってるのは多分1番になれてないからなのかなぁ笑笑 それとも笑 

下手だからといって、めちゃくちゃ努力した訳でもなく、練習以外でボールを蹴ることも一切しなかった、でも小学3年生になるとミニゲームが好きになって、ミニゲームで点を取りだしたらどんどんハマっていって、練習に行くのはめちゃくちゃ好きになっていったんですよ、ただ練習外では全くボールを蹴らなかった笑

親に学校行ってボール蹴ってこいみたいに言われて、何時までやって来いみたいに言われて適当に友達と蹴ってたら、たまたまさっき話したコーチが学校に来て、学校に置いてあるミニゴール使ってミニゲームやって良いからなって言ってくれて、そこからほぼ毎日のように何人か誘ってミニゲームやり出して、学校終わって家に帰ればサッカーやるみたいなサッカー少年へと変わっていきましたよね笑 

だんだんチームでも上手くなり始めていて、少し満足し始めていた時にまた母親が今度は半ば無理矢理スクールに通わせようとしてたのですが、そこのスクールはたまたまコーチがクラブでやってるコーチと一緒だからという気楽な気持ちで練習に行ったんですけど、ここのスクール当時は本当に地獄でした笑

とにかくみんな上手くて、自分の実力では全く通用しないし、しかもズルくてでもルールを守ってる。とにかく意味がわからなくて、ついていく事で精一杯。まぁ、今思えばそこのスクールには後にJの下部組織に入るような選手ばかりだったり、全国高校サッカーに出るような選手や関東大学リーグで優勝する選手がいたりと、まぁ怪物多かったですね笑

まぁ色々衝撃でしたが、サッカーが本気で好きになってプロになりたいって気持ちになったのはそこのスクールにいたみんながサッカー好きで、将来プロになりたい人たちばかりで小5になった時はただのスクールからヴェルディの準支部のチームのスクールに切り替わりました、そういった縁もあって、小5の時にヴェルディの支部大会にも出させてもらって当時のヴェルディの選手達との交流があったりという貴重な経験をさせてもらえました。中でもその時まだ現役だった北澤選手がとにかくファンサービスも凄いし、子供に対しての接し方に憧れて本気でプロになりたいって思わせてくれました。

本当に小学生の時にはサッカーで色んな事を経験させてもらえました。


小学校6年生応援団長

小学校6年生の時には応援団長をやりました。


右側が私です。この時は本当に盛り上がりましたね笑 運動会では紅組の団長と共に大いに盛り上げて、先生からめちゃくちゃ褒められたのを覚えてます。

先生から言われたのは、お前ら2人じゃなかったらあそこまで運動会は盛り上がらなかった、今日の運動会はこいつらが盛り上げたから、まずみんな拍手しようって言われたけど、俺の中では応援団長だからそれって当たり前でしょ?って内心思ってたが、でもそれが評価されるって凄いことよね笑 まぁ運動会終われば下級生から団長団長みたいにスターみたいな扱いされて鼻高々になってましたね笑


中学生 全治半年の大怪我

中学2年生になった時に練習の一貫で行われてた大人とのゲーム中に全治半年の大腿骨形状の部分を骨折、大人の人に思いっきり蹴られて膝がありえないほどに曲がり、バイク事故よりもひどい骨折をしました。

正直、その時はもう絶対にサッカーはできなくなるかもしれないと過ったくらいです。

最初の1ヶ月は寝たきり、膝に水や血が溜まれば注射で抜く、めちゃくちゃ痛くてきつかった日々。寝たきりって本当に何も出来なくて、気分転換に外にすら出れなくてストレスも物凄く溜まるんですよ。

寝たきり中に骨が少しでもズレたら即メスを入れてボルトを入れるという状態、なぜボルトをいれずに治したかというと、中学生で成長期に関わるとの事で後にレントゲンも見たのですが、骨がほぼ真っ二つ。医者からは本当にありえない曲がり方で物凄く痛いはずなのに、泣いてないのが不思議なくらいと言ってた笑 今だったら泣きます絶対って感じです。

その骨折の後遺症は今でも残ってます、右膝がしっかり曲がらなくて、正座ができないんです。

ただ、その怪我を乗り越えてピッチに戻った時最初の頃は物凄く怖くて当たりに行くこともできず、小学生の頃からやってたドリブルで突破していく事ができなくなってしまったのです。


ただその代わりに右足でのキックに磨きがかかりました、中3では高校生よりもキック力があり、推定右足では60メートル飛ばせてたくらいです。キック力プラス正確にボールが蹴ることも武器にしていたので、右足のキックだけなら当時誰にも負けない感じでした。

高校の練習会も志望校以外はほぼ遊び感覚で行ってた感じでした。

高校も志望校ではなかったけど、推薦で特待で入れてくれるってなっていきました。


高校生 右足首靭帯損傷 監督との確執

高校生になった9月に右足首靭帯損傷の怪我をして1ヶ月半戦線離脱しました。

この足首の怪我で今までキックで使ってた足首でのスナップが不可能となり、キック精度が一気に落ちました。

更にその後にも、右膝に腫瘍が見つかり戦線離脱する時にそこで監督と揉めました。

医者からは検査の結果がわかるまでは家で安静にしてなさいという風に言われてたのですが、監督からは見学に来いと言われましたが当然選手生命もあったので、安静を選びました。しかし、MRI検査当日にその事で反感を買い、監督にめちゃくちゃ怒られたが自分自身は全くと言っていいほど納得しなかったので、当時高校生ということもあり母親と相談をして翌日に監督に文句言いに行きました。

まぁ、1時間ほど職員室で揉めに揉めて他の先生も心配するレベルで流石にもう1人の顧問の先生が心配してくれて、個人的に面接をしてくれてメンタルケアをしてくれるなどはあったのですが、その時には監督と更にはキャプテンに対しての信頼はゼロだったのでサッカー部を辞める選択をしました。しかし辞めるまでが物凄く大変でした。

当時チームでは将来的に中心でやっていくと言われていたのと特待での入学だったので、辞めるまでに何度も面談し更には保護者面談までに発展する事態にまでなり辞めるまでには相当時間がかかりました。


当時このままどこでサッカーをやるのかすら不透明なまま過ごしていました。


救ってくれたかつてのコーチ達そして運が良かったwingsユース設立

このwingsユースの設立がなかったら、今絶対にボールを蹴る事はしてなかったか、ここまで信念を持ってフットボールに携わる事はなかったと思ってます。このユースがあったおかげで、高校生の頃に本気のレイソルユースとジェフユースと試合をする事ができました。

当時レイソルユースは吉田達磨さんが監督となり、当時では珍しい立ち位置を意識したボールポゼッションをやるチームでした。レイソルユースとの試合では自分がキャプテンとして出場しましたが、後の日本代表、そして日本トップクラスの選手となる酒井宏樹がそこにいました、しかし酒井宏樹はその頃有名でもなく、むしろ控え選手でサイドバックに転向してブレイクしたんだと思います。

レイソルユースとの試合はきつい、辛い、ではなく、楽しい、という感じでした。

とにかくユースがあってよかったと思いました。

サッカー部を辞めた代わりに生徒会へ

元々サッカーで入学した事もあって、その後は特に学校生活では平々凡々の日々を過ごしていました。そこで先生から生徒会への推薦の話があり、やるかどうか迷ってました。ある先生から言われたのは、あなたはここにサッカーで学校に貢献するはずだったのに何もやらずにこのまま終わっていいと思ってる?サッカーの代わりに生徒会で学校に貢献しなさいと言われて生徒会になる事を決意。

この生徒会が物凄く楽しかった笑 まぁ、とにかく派手にやりまくった笑 生徒会に所属していた時は部活動の大会の遠征費の補助という仕組みを作りました、全国大会とかに出た時は、学校からお金を一部出して生徒からは安くするという仕組みです。

そしてスクールバックの変更。

これらを僕らでやりました、なによりも1番は文化祭。


やりたい事を徹底的にやり、私は舞台のプロデューサーみたいなのをやってました。

準備の時のプランニングとかは今の仕事でも生きています。本番から逆算してスケジュールを組むという先輩のアドバイスを遂行し自分なりに計画を立てて文化祭の準備に入りました。

とにかく文化祭をしっかり盛り上げたい、派手にやりたいという思いがみんなあり、意見言い合ったり、時には喧嘩にまで発展したけど、でもみんな熱い思いがあったからだと思う、そして先生も乗っかってくれて俺らのやりやすいように先生だけしかできない事を先生が積極的にやってくれたおかげで準備もしっかりできてかつ各クラスから生徒会への要望にも応えることができて、良い文化祭になりました。ただ文化祭前日に朝からずっと動きっぱなしで昼ごはんも食べずに夜の9時まで準備に追われてたのは今では本当によくやれたなぁと思ってます。今思うと高校生ながらにしてすごいなぁと笑

プランニングに関しては後日noteに書きたいと思います。


大学進学や就職ではなくプロ志望の選択

高校3年生の後半になると進学の事とかでみんな忙しかったのですが、僕はとにかくプロになりたかったので、どうやってなるのかを考えていました。インターネットを見ていた時にJリーグチームのセレクションがあって、僕は迷わずに応募しました。

応募して、セレクションはしたんですがそこには戦力外通告を受けた選手がいたり海外から帰ってきた選手がいたりとまさかこういう選手達がいるとは想定していませんでした、いざゲームをやると今までに味わった事のないプレッシャー、ほぼ何もさせてもらえない、ただ慣れた時には得意の足下で相手をずらしたりする事はできたけど何もできないまま終わる。メンタルを折られて帰るという感じでした。

何チームか受けたけど、やはり通用しなくて高校を卒業。

1年浪人をした形で当時開幕したばっかりのFリーグで毎回優勝するようなチームのトライアウトを受けて、トップ合格は叶わなかったけどアカデミー生としての合格をもらいサテライトチームの練習参加ができる様にはできたけれど、当時弟がまだ小学生や中学生で父親が僕が小学生の頃に心臓の病気になって働けなくなってた事もありアカデミーの学費が払えず断念してしまいました。

もし、あの時に自分の力で本気で1年間仕事もして寝ずにプレーできたかというと厳しかったと思うし、もし、学費が払えてたらFリーガーとしてピッチに立っていたのかもしれないって思って、今人生のリベンジとして本格的に競技フットサルをやってる感じです。

その後

ただ、当時は本当に自分が家計を支えていかないとヤバかったし、20代前半で欲しかった車の免許も自分でお金を貯めなければ不可能だったし実家で暮らしてはいたけど、金銭面はほぼ一人で暮らしてたのとあまり変わらなかった、ただご飯が出てたことだけが幸いだった。

20代前半の頃は稼いだ月のお金の半分以上は実家に生活費を支払い生活をしていた。

正直、生活費として入れてたお金を親がこっそりと貯金してくれてたら嬉しかったけど、それもなかったのがちょっと寂しい。


ただ、今色々と言われる事多いけど20代前半で自分がやってた事ってやろうと思えばやれるけど、中々それをやれる人はいないよねという感じですね。

今自分の中でこれといってあるものは自分で決めた事は最後までやり通す、好きな事、好きな者こそ本気になるというのが信念ですね。


車の免許はまだ取ってないですが、何かのタイミングでしっかりとお金を貯めて免許を取得したいと思ってます。これができたらめちゃくちゃ嬉しいですね。

だからまだ前進するのみです。

次回 私の半生 ・家族崩壊編を書きたいと思います。

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