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NECのシステムエンジニア(SE)からSaaSベンチャーのプログラマーとして働いてみて
はじめに
初めまして!現在、株式会社contento というコンサルティング会社で代表を務めている小川正樹と申します。
noteでは、これまで私が複数の会社で働き、そこで得てきた経験について会社ごとに紹介しながら、プロダクトマネージャーとして学んできたことや日々の持論について書いていきます。
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2つ目の会社でSaaSベンチャーを選んだ理由
20代は現場のエンジニアとしての経験値を積み上げるべきだよな
という気持ちが勝りました。
オジサンになってからでも管理職は出来るけど、
頭が柔らかいうちに技術を習得・実践したほうがいいな、と。
上記のようなモヤモヤを抱いていた時期に、知人の紹介で、早稲田大学ラグビー部出身の起業家との接点がありました。
私も大学時代に慶應義塾大学でラグビーをしていたこともあり、お互い意気投合をし、彼が起業していたSaaSベンチャーにJOINすることになりました。
SaaSベンチャーでやってきたこと
1年目
元々新卒でNECネクサソリューションズという会社で業務系システムエンジニア(NEC時代の話はこちら!)として働いていましたが、このSaaSベンチャーではwebサービスのプログラマーとして働くことになりました。
業務系システムエンジニアから、WEBプログラマーへ。
仕事がガラリと変わり、WEBプログラマーとしてゼロから勉強をやり直しました。
それまで私が勤めていたNECネクサのような会社はシステムインテグレーター(以下SIer、エスアイヤーと読みます)と呼ばれますが、SIerのシステムエンジニアのお仕事は、お客様企業で働く従業員が業務を進めるためのシステムの設計や、システム開発ベンダーの管理業務が中心です。
WEBプログラマーは、プログラム言語を使って、インターネット上で動くシステムやサービスそのものを開発するのが仕事です。
『情報処理系の技術者』という括りは同じですが、全然違うのですね。
スタートアップのWEBプログラマーとして新たなスタートを切った私は、WEBサービスを作るためのプログラムの書き方や、インターネットとそれを支える全般の技術、インターネットサービスのデザインに対する感性などを学んでいきました。
具体的には
プログラミング言語
フレームワーク
ソフトウェア開発の知識
ネットワークの知識
サーバーの知識
データベースの知識
インフラ・クラウド・オンプレミスの知識
ミドルウェアの知識
デザインの知識
セキュリティの知識
OSの知識
ハードウェアの知識
などなど・・・。今でいう『フルスタックエンジニア』だったと思います。
フルスタックエンジニアは、一言でいえば「システム開発のオールラウンダー」です。
2年目から5年目
創業直後で社員は少なく、一人ひとりがやらなければならないことも多かったので、プログラマーだけではなく、営業や企画についても取り組みました。
(褒められたことではありませんが)時には展示会でお客さんを装って自社サービスの営業を行い、名刺交換を沢山したりと、若さゆえにワイルドなこともやりました。
ですが、あまり頑張って営業する必要はありませんでした。
というのも、営業しなくても売れてしまうサービスだったからです。(笑)
元々、プロトタイプの開発段階からリファラル(紹介)や口コミだけでうれるような状態を作ろうとしていました。
結果的に、インバウンド営業がほとんどでした。
このようなプロダクトそのものに営業やマーケティングの機能を付けることをプロダクトレッドグロース(PLG)といいますが、まさにこれを実現していたように思います。
PLG は「プロダクトがプロダクトを売る状態(Product sells itself)」を目指す戦略を指します。
上記は2021年の記事です。
私がPLGらしきものを実践していたのが2007年くらいの話ですので、10年以上時代を先どっていたかもしれません(笑)
当時開発したものを載せておきます。RCMSと言います。
私はこのプロダクトの初期の開発者でした。
RCMS(アールシーエムエス、リレーショナル・コンテンツ・マネージメント・システム)
このサービスは、WEBサービス開発にあたって共通して必要になる仕組みそのものを全て機能化し、実装し、誰にでも使えるようする、と言うのがコンセプトです。
開発の背景は、社長が学生だった頃に早稲田大学のラグビー部のホームページを作成していた時に感じた『更新の面倒くささ』という課題が原点になっています。
頻繁に発生する掲載情報の更新業務を仕組み化し、誰でも簡単に行えて、リッチな情報を配信できるようなWEBサイトを作れる仕組みを作ろう、というところから産まれたのがこのサービスです。
今思えば、いろいろ工夫をしていたように思います。
最少の人数で開発をしていたので、十分にテストする余力はありませんでした。そこで無料でフル機能を公開して使ってもらうことでテストの代わりにし、社内ではテストを一切やらないスタイルでこのサービスを販売してました。当時、他の企業ではこのようなことを実施していませんでした。
また、当時はSaaSというカテゴリがほとんど認知されておらず、ソフトウェアは高価格で売り切るのが通常でした。
そんな時代にSaaSモデルで提供していたRCMSは、多機能のサービスを画期的な安価で販売していたので、いきなり大きな利益は出ないものの、売るのは楽だったなぁ、と記憶しています。
結果的に、数千社以上の企業様に使っていただけるようになりました。
営業マンは一人もおらず、全員がエンジニアで構成されている会社でしたので、販売戦略・プロダクト戦略が正しかったのだな~と感じます。
6年目
上記のRCMSというプロダクトを初期フェーズから開発し、一定のグロース段階まで付き添ったことで、気づかないうちに愛情が深まっていました。
私はこのプロダクトで上場し、世の中にもっと広めたいという想いがありましたが、創業者は違う志を持っていました。
よくある「音楽性の違い」みたいな話です。
ゼロからの開発者として深まったプロダクト愛を断ち切るにはそれなりに時間がかかります。1年ほどの話し合いを経て、意見を交わしあった結果、私は別の会社での挑戦をすることになりました。
最後までやり切れなかった後悔と言ったような気持ちは、今でもほんのりあります。自分で出資して作った会社じゃないので、仕方ないんですけどね。
ちょっぴりほろ苦な思い出です。
この会社では、5年間のプログラマー生活、フルスタックエンジニアとして、インターネットの裏側を知り、触ることが出来ました。
WEBサービス開発に必要なものを全部機能化しよう、というコンセプトのプロダクト開発にプログラマーとして携わったことで、必然的に、WEBサービス開発に必要な知識だけでなく、スキル(自分でゼロからWEBサービスを作ることが出来るという意味で)として身に着けることが出来ました。
この経験は、現在の私の生業を支える大きな財産である、と思っています。
最後に
今回はNECネクサからSaaSスタートアップへの転職の経緯から、そこでの経験について記事にまとめました。
私がWEBプログラマ―として現役だった当時は、mixiやGREEなどのSNSが登場し、facebookやX(旧Twitter)が日本にやってきた時期でした。
インターネットのビジネス利用がいよいよ本格化し、私が開発したプロダクトの需要も右肩上がりでした。
そのような熱狂に飲み込まれつつ、自分の持つ時間をすべてプロダクト開発に費やしていたような時期でした。
投じる時間とプログラムするソースコードの量に比例して技術力・知識・経験も増え、まるで我が子のように愛を注いだプロダクトも売れるようになり、自己効力感と達成感が高まった時期ではありましたが、
最後に『方向性の違い』による創業メンバーの空中分解という切ない結果を迎えてしまったと言う、ほんのり切ない時期でもありました。
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