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映画『ハント』に登場する事件

韓国民主化に伴う北朝鮮との近代史があっての創作映画ですから それらを踏まえた上で見るのは良いことだとは思います

ですが
先ずはそこをすっ飛ばしてスパイ探しと平行して描かれる人間模様に集中して欲しいのです。意味不明の凄さを味わえば良いのではないかと思います。
真っ白の状態は1回きりなのですから



■1980.5.18〜27 光州事件
■1983.2.25 北朝鮮パイロット脱北事件
■1983.10.9 ラングーン事件

全斗煥大統領中心に見る『ハント』関連韓国近代史



1980.5.18〜27 光州事件

光州

全羅南道の道庁所在地だった光州市(現:光州広域市)を中心に起きた市民による軍事政権に対する民主化要求デモが後に大統領となる司令官・全斗煥命令により派遣された陸軍部隊によりデモに参加していない市民までもが虐殺され統制がおこなわれた
死者は154人ないし198人(軍発表数字)とされる
→映画『ハント』に関わった人物が登場する

韓国軍の作戦統制権を持っていた在韓米軍司令官が韓国軍部隊の光州投入を承認 加えてアメリカ政府も秩序維持を理由にこれを黙認したため、アメリカへの批判が起こった

同国民同士が制圧される側とする側で 且つ傍若無人な制圧ぶりは 事件後も映像や文章を始めあらゆる媒体で描く事がタブーとされた。徐々に作られるようになったが匂わす程度のものが多く 『タクシー運転手 約束は海を越えて』 のような正面から描かれる作品が登場し始めたのは近年のこと。明らかにされていない部分も多い上に軍人側からの描写は少ない

当時日本特派員だったユルゲン・ヒンツペータが韓国光州入りし撮影した写真を持ち出し世界に報道した。全斗煥が司令官を務める保安司令部がマスコミなどの情報も全て統制していたため海外どころか国内にも情報が裁断された様子等がわかる

参考映画:『タクシー運転手 約束は海を越えて』

参考ドキュメント:2003年韓KBS1特番
『1980年5月~青い目の目撃者たち~』(56分)

◯光州事件が関連している作品
『光州5・18』『26年』
『懐かしの庭』『ペパーミントキャンディ』『砂時計』



■1983.2.25 北朝鮮パイロット脱北事件

映画『ハント』より

◯北朝鮮空軍将校イ・ウンピョン(当時29歳)がミグ19に乗り脱北

北朝鮮空軍将校イ・ウンピョン(이웅평)

◯イ・ウンピョン記者会見動画

◯レーダー検知と北朝鮮軍の追跡を避けるため低空飛行をしながら侵入 巡回中の韓国空軍に発見されるも投降の意を示す翼を左右に振る行為を理解した韓国軍の誘導により現在の水原飛行場に着陸した。
飛行機は
龍山区「戦争記念館↓」野外に展示されている

https://www.warmemo.or.kr:8443/

◯戦闘機を使用した脱北は1950年から今までに計6件ある
脱北者としてもイ・ウンピョンが有名なのは侵入時に北からの攻撃だと間違われ街中に警戒警報のサイレンが鳴り響き大騒ぎになったのと 見た目もよく身長180cm記者会見も開いたので市民の記憶に残りやすかったのも一因

三養ラーメン

◯映画にも登場するラーメンの話は韓国側の作り話だったそうだが(本人談) 将校であっても暖房用練炭を買うお金にも事欠く貧しさだったそう
→尋問室で脱北パイロットが食べているのはラーメン パイロットも食べたラーメンについて話す部分がある。字幕には無いがキム・ジョンドが「話をしてもらおうか」の前に「ラーメンも全部食べたことだし」と言っている。

◯本人は知らないで乗ってきたがミグ19(共産国物品)に対して報労金15億6千万₩(現在の価値に換算すると約55億₩)が支払われた。北朝鮮の家族は処刑されたり政治犯収容所に入れられたそう。韓国空軍に勤務し韓国人と結婚した。 決まった店以外では食事をせず戴き物は食べない等後々も細かい事を気にしたそう(妻談) 2002年に肝機能不全で死亡(45歳or47歳頃)

◯KBS WORLD JAPANESE 

動画でも映画『ハント』でも一瞬映るが この時に持ち込んだ物の中にある暗号解読表により話が進む


1983.10.9 ラングーン事件


映画『ハント』より

全斗煥大統領がオリンピック参加未表明国説得周遊の一環でビルマ(現ミャンマー 以下ビルマ表記)訪問中アウンサン廟で起こった爆破事件
映画と史実の経緯は異なる

◯屋根裏に仕込んだリモコン爆弾が爆発
韓国側官僚・政府関係者・マスコミ:17人死亡
ビルマ側要人:4名死亡
両国負傷者47名

◯テロリスト達はアウンサン廟に向かう道路の映画館近くに待機
◯ビルマ大使は大統領に呼ばれ一旦迎賓館に顔を出してから先にアウンサン廟に向かった
◯大統領に随行するビルマ外相の到着が4分遅れ=大統領の迎賓館出発が4分遅れた
◯爆発時アウンサン廟から1.5キロ離れていた大統領に怪我はなかった
◯大統領は直ぐ迎賓館に引き返した

テロリストが大統領と大使の車を間違えた理由
◯大使の車にも白バイ警護がついていた
◯大使の到着時刻が大統領到着予定時刻だった
◯到着した大使が[大統領は遅れて来る]と伝えたにも関わらず 大統領が到着していないにも関わらず何故か式典開始を知らせるラッパが吹かれた(理由不明)
[テロリスト達は車を目視した上でラッパの音で到着を確認したのではないか]

NHKニュース動画


↑にかかれている本

ミャンマーに投獄され獄中死した北朝鮮男性について書かれた海外書籍・実際に会った関係者や記者へのインタビューを元に事件前後・当時の様々な状況や考察をまとめている(読書中)






全斗煥大統領中心に見る『ハント』関連韓国近代史

作品内に登場する「閣下」は全斗煥大統領のこと「ペテロ」は洗礼名?
「独裁者」は北朝鮮に対しても使われている
部長室の壁に写真が飾られている
民主化弾圧は良くないがソウルオリンピックを成功させ国力や国際的認知度か上がった事等 評価された部分もある

1951年 陸軍士官学校入校以降陸軍生活
1979年 国軍保安司令官に
1979.10.26 10.26事件[朴正煕(大統領)暗殺事件] 
      全斗煥は↑事件の合同捜査本部長
      崔圭夏チェ・ギュハが第10代大統領に

1979.12.12 粛軍クーデター
1ヶ月ほど前に起きた朴正煕(大統領)暗殺事件の解決過程で全斗煥は陸軍参謀と対立 仲間たちと共謀してクーデターをおこし陸軍参謀を逮捕
→軍を掌握
崔圭夏大統領は軍内部を掌握できておらず黙認
→全斗煥は軍だけでなく政権をも掌握していく

朴正煕(大統領)暗殺事件の混乱もあり一時的に政治的自由が回復し 学生の街頭デモや労働争議が全国各地で展開されるようになり社会的に不安定に

1980.5.17 崔圭夏大統領によりデモやストライキを禁ずる[戒厳令布告令第10号]を発表
全斗煥率いる軍は政治家26名を様々な理由をつけ逮捕した上 戒厳令を全国に拡大
↑反発デモが光州でも起きる

1980.5.18 光州民主化要求デモに陸軍部隊を送り市民が虐殺&制圧させる→光州事件

1980.5.30 国家保衛非常対策委員会を組織し国政を事実上掌握
→犯罪者や学生運動家・労働運動家(主婦や女子中高生も含む)約4万人を一斉に逮捕し訓練と強制労働をさせた。
→強制労働による死者52人 後遺症による死者397人 精神障害2768人


1980.8.27 第11代韓国大統領
1981        憲法改正をし第12代韓国大統領に
1981.2.1〜3 アメリカ訪問→映画冒頭

1983.10.9 訪問先ビルマ(元ミャンマー)で暗殺されそうになる→映画最後ラングーン事件

19849.6〜8 来日

2021.11.23 90歳で死去




以下参考
■1987.1.14 拷問大学生&デモ参加大学生死亡事件
       映画『1987、ある戦いの真実』
■1987.6.29 韓国民主化




#映画ハント #イ・ジョンジェ #チョン・ウソン

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