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あーねんまつ
令和三年十二月三十日、「寒いね」と話しかけた俵万智の声も耳元数センチ手前で凍りつくような極寒の中、私は無目的に徘徊を続ける雲を眺めていた。雲は呑気なものだ、そう見えるが、ただ見えるだけである。彼らには空気中の水を運び、下々の生きとし生けるものに慈悲を与える極めて重大な役割がある。「眺めていた」のは私ではなく、雲の方だったのだ。
鳥が飛んだ。鳥は力の象徴たる筋肉でもってトリコロールの一色へ羽ばたく。そんなのは空への過剰な憧れを抱いた霊長類の稚拙な妄想に過ぎない。「滑空」ー彼らはほとんどの時間、母なる重力と父なる空気抵抗に従って順当に落ちているだけだ。怠惰こそ飛翔の本質なのだ。
だが言うまでもなく怠惰であれば空を飛べるわけではない。言うなれば既に高みにある者のみに許される高貴なる怠惰である。
ゆっくりと、落ちてゆく、落ちてゆく、落ちてゆく。
だがいつかは最後まで落ちきって大地に触れる。
あるいはどこかの山へ落ち着くのかもしれない。
そうしたら、また彼は飛べるのだろうか。
この星さえ包み込む自由へ。
生命の恵みたる平等へ。
そして地上のすべてを照らす博愛へ。
横で親父が叫ぶ。
「お前のせいで夕焼けでいい感じに照らされた雲が見えないじゃねぇか××山脈の馬鹿野郎!!!!!!!!!!!!!!」
一富士二鷹三茄子。
一が富士。山が高貴だとか邪魔だとかは全部人間の勝手な価値基準でしかないのだろう。
二が鷹。鷹にとっては日本最高峰も単なる休息所、妥協地点でしかないかもしれない。だがその鷹も、ただ落ちていくだけの怠惰な存在だ。
そして三は、
今年もみんな、ありがと茄子
良いお年を
迫真工学部