第5話 リストラ
2009年6月12日
ギャンブルがそうであるように、人生や経営にも波がある。うまくいく時は何をやってもうまくいくが、駄目な時は何をやっても駄目だ。この日は、その駄目で最悪な日々の中でも、どん底にまで落ちた一日であった。
継いだばかりの会社が大赤字になることが確定していた期中に、いち早く経営幹部の若返りとリストラの大鉈を振るい、翌期の黒字転換に道筋をつけるも、リストラをしたことで会社に対する信用不安が巻き起こっていた。本来ならばリストラをするということは会社の業績や中身が改善するはずなのだが、経営者ではない所謂「現場の人間」は短絡的で感情的な見方をしがちなので、えてしてリストラをした=あそこの会社はヤバいというレベルの低い噂話が広がる。
そんな中、母が56歳の若さで亡くなったのが2009年6月12日であった。死因は多臓器不全。色々と背景はあるがここでは割愛する。同じ京都市内で別々に暮らしていて、定期的に様子を見に行っていたと言いたいところではあるが、前述のように自分自身が生きるか死ぬかの世界で翻弄されていたこともあり、満足なケアが出来ていたとは到底言えないであろう。
悲壮感は一切抜きに、母が亡くなったことに対する私の責任は大きい。
10年以上が経つが、未だに母が亡くなったことを自分の中で消化することが出来ておらず、ただ記憶が薄れていくだけの日々であったが、このテキストを書いていた2020年は何故かその時のことをよく思い出していた。コロナ禍に突入したばかりの陰鬱な空気が、2009年当時とよく似ていたからであろうか。
前年の2008年に起きたリーマンショックに始まる世界的な恐慌は、私が経営していた着物メーカーというニッチの極みのような業種の会社に対しても、通期で昨年対比27%の売上ダウンという大ダメージを食らわせていた。
産業構造上、その中でもメーカーという業種の特性もあり、営業利益が5%出せたら素晴らしいと言われる中で、27%の売上が吹っ飛べば当然大赤字になる。実際にその期は16億6千万円の売上に対して、営業利益段階で2億4千万円という巨額の赤字を計上してしまうことになった。
売上が急減し始めた2008年の10月頃、特定の金融機関から、今期の赤字決算は仕方ないとしても、来期には必ず黒字転換出来る再建計画を策定して実行して欲しいと、毎週のようにせっつかれ始めた。手形貸付、所謂手貸と呼ばれる借入金に対する目線も厳しくなり、本来は1年、短くても半年単位で更新をするものだが、動向を不安視されてしまっていたため、最初は3ヶ月、最後は何と1ヶ月単位で更新をかけていくことに。これはつまり、1ヶ月毎に借りた金を回収される可能性がやってくるということであり、生きた心地がしない日々を送る羽目になっていた。
父の急逝に伴って26歳で代表取締役に就任したばかりの私には、その状況を打開するために売上を急増させるウルトラCを繰り出せる能力も無ければ、知識や経験も圧倒的に足りていない。
打ち手はただ一つ、リストラ。それも事業の再構築という本来の意味ではなく、シンプルに人員削減一択であった。
経営幹部は父の代から変えずに来ていたが、概ね50代の彼らは無意識に「残りの会社人生を穏便に逃げ切る」ということが行動原理になっており、この先10年から20年先を見据えた改革を求めるのは酷であると判断。
30代の若手世代に、威勢が良いが、実力もある人間が3名居た。高齢化した会社の中で、私と年齢が近いが故に却って緊張感のある関係性になっており、突っ込んだ話をなかなか出来ずにいたが、このタイミングで一人ずつ飲みに誘い「会社そのものをゼロから作り変えたい」と口説く作業を始める。
年が明けた2009年1月から、他の社員に動きが悟られないように会社の隣のワンルームマンションの一室を借り、チェンジ会議と称して30代の若手3名と、バックオフィス関係でキーとなる人間も集めて、具体的なアクションプランを固める作業に入った。
当初は30代の若手3名には人員削減の話はせず、戦略の立て直しから、営業部・商品部の組織構成や人員配置の見直しに注力してもらい、当事者意識が高まってきた2月後半に、現在の経営幹部全員に役職を外れてもらい、その3名に新任の部長になって欲しいこと、営業以外の間接人員で10名程度の人員削減を行う旨を伝えた。組織の若返りと一口に言っても、現在の役職者からは一回り以上の年齢差があるため、かなりドラスティックなものになることは間違いなく、和装産業という保守的な業界では各方面からの反発も多いことも予想されたが、今振り返ってもそれ以外の打ち手はあり得なかったと思う。
本人たちはそこまでの変革を予想していなかったようで、当初は躊躇う発言もあったが、押し切り、期の途中であったが2009年4月から役職交代を実施し、それに伴って希望退職の募集をスタートした。当時約50名程度の企業規模であったため、本当に希望する人間だけの退職を受け入れるだけでは、想定していた10名の削減は出来ず、辞められると困る人間に手を挙げられるリスクもある。なので、実質は部署や業務の廃止に伴った退職勧奨を行なうための、アリバイ作りとしての希望退職募集であった。
人員削減の支援から対象者の再就職支援までを行なうコンサルティング会社と契約をし、人事制度・給与体系の大幅な見直しと、法的に問題の無い退職勧奨面談のやり方についてレクチャーを受けるなどの準備を進め、2009年4月6日の社内発表の日を迎える。
今となっては、当日何をどんな顔をして話したのかは覚えていない。直後に2~3日ぶっ倒れたように家で寝ていた記憶もあるが、その時の予定表を振り返ると何だかんだとアポイントが入っていたようで、それなりに仕事もこなしていたのかもしれない。
その後は粛々と面談を進め、第4話にあったように労務問題で揉めていた1名と民事裁判で争うことになった以外は、驚くほどスムーズに話が進んだ。再就職も時間がかかった人は居たが、最終的には全員どこかしらには就職が決まっていった。
面談時の私のトークスクリプトは、クソの極みである。
「会社の業績が悪い」
「貴方が所属している部署が無くなる、もしくは貴方がやっている業務を無くすことになった」
「そのため、貴方にやっていただく仕事が無くなる」
「どうしますか?」
今書いているだけでも最悪の気分だが、言われた人はもっと最悪の気分だろう。しかし、退職勧奨面談としてはこれが最もベターなトークスクリプトであることは、今日時点においても変わっていない。
会社のためならと潔く身を引く人たち、ゴネつつ有利な条件を引き出そうとする人たち、色々な人が居たが、社歴が長い人が多かった割にはあっさりと決着出来た方だとは思う。
「貴方の考え方、もしくは貴方の仕事振りは会社の方針と合わないから辞めて欲しい」
日本では事実上、正社員の解雇が出来ないが、本来このように伝えることは正しいと思う。
しかし、
「仕事が無くなりました。だから辞めてください」
とは、経営者としてもっとも言ってはいけないことだと、今でも思う。