第2話 事業承継
2007年7月10日
祇園祭が始まり、京都の街はもうすぐ宵山と山鉾巡行を迎える。祭に関係がある人間も、そうでない人間も、この時期はどことなく落ち着きがなく、仕事に身が入っていない。
じめじめと長引く梅雨の最中、浸透し始めたクールビズはどこへやら、私はネクタイを締めたスーツ姿で京都市内のあちらこちら、名古屋、東京の取引先を駆けずり回っていた。
前年の2006年8月31日に和装産業における最大手小売企業が破綻。その影響を受けて、メーカー・問屋・小売いずれの流通段階においても、昨年対比20~30%の売上ダウンという状況に陥っていた。
その渦中において、父のガンが再発。
一度目は2005年9月の早期発見後に手術で摘出したが、手術当時59歳という年齢が災いしたのか進行が速く、手術後の病理検査ではステージ4まで進行していたことが判明。
そして手術から1年後、外科的アプローチが不可能なレベルでの複数箇所への転移が確認された。
一般的に再発率が高い部位のガンという説明を受けていたので、来るべき時が来たかという思いではあったが、再発時の診断が「このまま何も治療をしなければ余命半年」というのには面食らった。
それを父から伝えられた2006年9月時点の私は、入社して半年の若干25歳。俗っぽい言い方をすれば、詰んでいる状況であったと言えよう。
この時のいきさつは色々とあったが、結論から言うと私は最後の逃げるチャンスを自ら捨てた。ピーク時でグループ年商200億円を突破した栄華を象徴する自社ビルを、それを建てた創業者の娘婿である父が売り飛ばすことに諸手を挙げて賛成。その際の借入金の借り換え手続きで個人保証をする羽目になり、その後はいかに最短距離で、つまりは父が死ぬまでに事業承継を完遂させられるかというミッションに取り組むことになった。
ガンの再発後、徐々に闘病生活へシフトしていく父と、これから難題が山積みの会社を背負っていかなければいけない私とでは、会社への意識や責任感が綺麗に反比例していく。私がそれなりのキャリアを積み重ねた年齢であれば、あらゆる世襲企業でいつかは起きる、いよいよ先代から実権を奪っていくフェーズと捉えることも出来ただろうが、ひよっこもひよっこの状態ではそれもままならない。
入社前のデューデリを全くしなかった私の責任だが、事前の父からの説明とは大きく乖離した、しかしある意味では標準的な斜陽産業における世襲企業の成れの果てであった会社の現状をここまで放置してきたことに対して、父を厳しく責めた。体調のことを考えれば仕方が無いとはいえ、会社のことも家族間の問題も含めた全てを私に丸投げしてきた父親の人間としての姿勢に対する憤り。そういうことも含めて、電話や対面で声を荒げて言葉にならない感情をぶつけていた。
関係性が日々悪化する中、父が闘病に専念するために関東へ移住したいという要望を出してくる。前年から続く市場の大幅な縮小に伴って、取引先、特に得意先に対する債権管理に注力する必要が出てきていた。移住を承諾した場合、登記上の役員が父のみであったため、実質的な司令塔が会社に不在という状況に陥ってしまうが、それは避けなければならない。
私が事業承継をした会社には、現場を完全に掌握している所謂番頭のような人がいなかったのだが、それはせめてもの救いであったと言える。他社で嫌というほど見てきたが、強い番頭と戦えるだけの実力を身に付け、実権を奪っていくまでに下手をすると10年以上かかるケースもある。私の場合であれば、その内輪の争いをやっている間に間違いなく会社は破綻していただろう。
何も支えが無いということは、心細く、暗中模索の日々を送ることでもあったが、その分、自分自身で全てを確立していく必要があり、それによって私は成長することが出来たとも言える。
とは言っても、最後の最後まで私を支え続けてくれた、Sさんというお目付け役のような人はいた。後に顧問的な立場に一歩退いてもらったが、大きな経営判断をする際には相談をするか、必ず事前に伝えて反応を確認していた。YesもNoも強く主張するわけではなく、明確な答えを返してくれるわけでも無かったが、社員や取引先はどう思うだろうかという一般的な感覚について、経営目線で相談することが出来る数少ない人であった。
社長になって数年経ってからは、暴走機関車化した私があえて冷や水をぶっかけられるために話をするというコミュニケーションの取り方が主であったが、入社した直後に周りの全ての人間から腫れ物に触るようなコミュニケーションを取られていた私を毎週のようにお酒を飲みに連れ出し、父のガン再発以降も私の横に寄り添いサポートをしてくれていた。
そんなSさんに12年間で唯一、叱られたことがある。
それが、父の関東移住の件だ。
父の縁故で入社していた人に、どうしても辞めてもらう必要があった。そもそも会社自体も混乱し始めていたし、Sさんには伝えていなかったが家族間の問題も私は抱えていた。あれもこれもどうしようとなっている私に「英人がすぐに副社長なり専務なりになって、会社を背負っていかなければいけないんだ!」と、その人にしては珍しく明瞭な言葉で叱られたことを今でも覚えている。私はその言葉を受けて、父に移住の件は了承するが、父の縁故で入社していた2名の方に辞めてもらうことと、私を副社長に、そして何人かの幹部を執行役員にすることを求め、私の役職が副社長ではなく専務取締役になったこと以外は概ね合意を得た。
決算期が6月末日であったため、2007年7月1日より専務取締役に就任。入社後すぐに新規事業に取り組んでいたため、既存の製造卸業に関連した取引先へは全く顔が知られていなかった。2006年夏以降の市場の大幅な縮小、それに関連したわけでもなかったのだが、関連して捉えられた自社ビルの売却、それに伴う本社移転。父のガンの再発、売上の縮小と移転に伴うリストラ。その責任を取る形でNo.2の役員が退任、ちなみに私の入社前には現場を仕切っていた実力派の幹部が2名辞めている。そんな中、入社1年3ヶ月で専務取締役に就任した25歳の息子。そう、どこを見ても会社に対する信用不安を巻き起こす要素しか存在していなかった。
とにかく顔を売っていくしかないと、取引先行脚に走り回っていたのが冒頭の2007年7月10日である。Sさんと担当部長が同行していたので、会話の主体は私にはなり得ない。先ずは相手の雰囲気や特徴を掴み、会社との関係性を含めて理解をしていくという場であった。
中には初対面で「こんな頼りない奴が跡継ぎで大丈夫か!お前ら幹部が支えないとどうにもならんぞ!」と言ってきた得意先の社長もいたが、そういう人の懐に入り込んでいって最終的に懇意にしてもらうのは、私の得意パターンになった。トラブルやクレームが結果的に取引強化に繋がるのと同じ理屈であろう。反面、父と親しかった方々とはなかなか距離が詰められずに苦労した。時代の変化の中で取引内容は変化し、実はお互いそこまで必要としなくなってきているケースもあれば、取引云々関係なく人間として親しくしていたケース、色々だ。
「お父さんには世話になった」と言いながら近寄ってくる人間と、父が本当に親しかった事実は無い。酒が入ると一転して「お前の親父は気に入らなかった」と言い出す人間や、私のことを与し易いと見て近寄ってくるような輩ばかりだった。本当に親しかった人はそんなことをいちいち口に出さない。