【小説】東雲刹那は『真理』を嫌悪する
〈1〉
僕の名前は相生繋(あいお けい)。しがない大学生だ。
少しだけ、僕の大切な出会いの話をしよう。
その出会いは高校二年の夏までさかのぼる。
電車通学だった僕は、普段通りホームを歩いていた。
その日は何故か普段より混んでいて、僕は男性に荷物をぶつけてしまう。
しかも嫌なことは続くもので、相手が激昂してしまった。
僕は男性に思いっきりホームの方へと突き飛ばされる。
死を覚悟した。だが、僕の背後には、女性が立っていたのだ。
*
お昼時、大学の食堂は相変わらず混んでいた。ゆったりとランチを楽しむ集団。教科書をおかずに白米をかき込む勉強熱心な青年。様々な日常がある。
僕も日替わり定食を持って手頃な席を物色する。見つけた席に定食を置き、さらに、遅れてくる知人のため、正面の席に荷物を置く。隣では女子二人組が顔を寄せ合って不穏な顔をしていた。
食堂は騒がしいが、僕は彼女たちの隣に座っている。日替わり定食を無言で食べ進めていると、否応にも、その会話は聞こえてきた。
「瑠璃ちゃん、まだ帰ってきてないんだって」
不意に聞こえた知り合いの名前に、僕はご飯を運ぶ手が止まる。そんな僕には気付かず、見知らぬ二人の会話は続く。
「マジ? でもまだ一週間でしょ?」
一週間も失踪したら事件だろ。
「でも、ストーリーとか全く更新してないとかやばくない?」
「え、なにそれやばくない?」
最近の子は深刻さをそこで測るのか、と同い年ながら関心をする。
瑠璃は大学の入学後に知り合った僕の友人だ。
彼女は一週間前くらい前から、大学に来ていない。もちろん僕も連絡を入れたが、返信は皆無だ。既読すら付かない状況である。
「相生先輩、お待たせしました」
後ろから声がかかる。振り向くと、そこには息を切らした栃本茜(とちもと あかね)が立っていた。
「すみません、講義が少し長引いちゃって……」
「だからって走ってこなくても……」
彼女の荒い息と一緒に、乱れたセミロングの茶髪が上下する。走った影響でずれてたらしいメガネを上げ、彼女は呼吸を整えるように大きく呼吸をした。
「じゃあ、ご飯取ってきます」
「はい、いってらっしゃい」
僕はお母さんか。そんなツッコミを飲み込み彼女を見送る。
栃本はうどんを持ってきた。あの量からすると大盛りだ。相変わらず、小柄な身体のわりによく食べると関心をすると、
「え、あげないですよ」
「いらん」
僕はもう定食を半分ほど食べ進めており、順調に満腹へと向かっているのだ。
「てっきり欲しいのかと思いました」
「いや、相変わらず良く食べるなと」
「えへ、私のとりえは良く食べることなので」
そういい彼女は僕の真正面に座り、うどんに手を合わす。
「聞いてくださいよ、私、彼氏に嫌われたかもしれなくて」
そう言って彼女はうどんを啜る。
「……僕に恋愛相談は役に立たないんじゃないかな」
彼女はうどんを咀嚼しながら首を横に振る。うどんをしっかりと飲み込んでから、彼女は話を続ける。
「先輩だから話せるんですってば」
「僕だから話せる?」
聞き返すと、彼女はウンウンと頷く。
「嫌いになった、ってのは言葉のアヤみたいなことで、あの、多分なんですけど」
彼女はそこで言葉を切る。浮かない顔のまま、彼女は再び話し始める。
「瑠璃先輩が関わってるんじゃ、ないかなって」
米をすくい上げた箸が止まり、米がポトリと茶碗へ落ちる。
「アイツが?」
「私の彼氏が、瑠璃先輩の彼女だって言い出したんですよ」
「……どういうこと?」
僕が聞き返すと、彼女は眉間に手を当てウーンと唸る。
「私だってどういうことなのか分かんないですよ。それで、瑠璃先輩と仲がいい先輩なら何か分かるかなーって」
僕に相談をした理由は合点がいった。
「でも、栃本ちゃんの方が瑠璃との付き合いは長いだろ?」
そう、僕は疑問をぶつける。僕と瑠璃は大学からの付き合いだが、確か、瑠璃と栃本は高校も一緒だったはずだ。だが何故か、彼女はとても渋い顔をした。
「えぇー……いやぁ、ちょっと瑠璃先輩とは色々あって……」
彼女は場を濁すようにうどんを啜った。
「付き合いが長いからこそ、話しづらいことってあるんですよ」
僕には根ほり葉ほり聞き出そうとするような野次馬根性は無い。
「だから、僕が適任だと」
「そうそう。あとほら、先輩のバイト先的な意味でも適任かなって」
「いや、なんで栃本ちゃんがバイト先を知ってるの?」
「瑠璃先輩から聞きましたよ?」
次は僕が渋い顔をする番だった。アイツは本当に油断も隙もない女だ。
「ともかく変なんですよね。彼氏、私と付き合ってることを忘れてるんです」
「……忘れている? とぼけてるとかじゃなくて?」
ウンウンと彼女は大きく頷く。
「そう。私との記憶をすっかり忘れてるんですよ。その上で、瑠璃先輩と付き合ってるって思ってるって、おかしな話じゃないですか?」
なるほど。僕が適任、と言うよりは、僕のバイト先が適任だ。
「分かった。アポ取っておく」
彼女は安堵するかのように小さく息を吐いた。
「よかったぁ。先輩のバイト先ならきっと安心ですね」
「確約も出来てないのによくまあ安心って言えるな」
「それは先輩の人柄のおかげですよ」
そういって、彼女はどんぶりを持ち上げ出汁を飲む。完食完飲した満足げな表情で、彼女はウインクをこちらに飛ばす。
「期待してますね、先輩」
「いや、解決するのは僕じゃなくて刹那さんだから」
その後は他愛のない会話をし、次の授業がある彼女はまた慌ただしく食堂を去っていった。
少しだけ、瑠璃の話をしよう。
瑠璃は、授業中の片手間で株の取引をし、唐突に海外旅行に消え、現れたと思えば何らかの賞を携えてたり、しかしテストは上の水準を保ち教授たちも手を焼いている、ともかく、行動が全く読めず自由だ。
そんな突飛な性格で大学から浮くかと思えば意外と浮かず、飲み会やらなんやらで彼女の周りに人が絶えることはあまりない。思い返せば思い返すほど、瑠璃の超人ぶりが際立つ。いや本当に何者なんだアイツは。
考えるのを止めて席を立つ。今日の授業はもう無い。このままバイト先に向かうだけだ。
大学を出て最寄り駅とは反対方向に歩く。残暑も無くなり、紅葉する桜並木を歩き、大きな交差点を曲がる。街路樹が桜からイチョウに代わり、遠くからぎんなんの匂いがした。
秋の訪れを感じながら、大きなマンションの中へと入る。最近に立てられた高級マンションだ。ロビーのインターホンで来訪を告げると、オートロックの自動ドアが開く。いつも通り、郵便受けを確認し、エレベーターで五階に上がる。
一番奥の角部屋。重厚な扉には『東雲探偵事務所』のプレートがぶら下がっている。ここが僕のバイト先である。
僕が来たので鍵は開けられている。扉を開くと、ひんやりとした冷気が足元を撫でた。今日もこの部屋の主は暑がりだった。
「やあ、少年。今日も生きてるかい?」
明るい声。リビングから一人の女性が顔を出す。
「……死んでたら来れないでしょう」
僕の返答に彼女は快活に笑う。彼女がこの事務所の所長かつ僕の雇い主、東雲刹那(しののめ せつな)だ。
女性としては高い背丈。胸まで伸びた黒髪の毛先はクルクルと自由に跳ねていた。ショートパンツから露出している右足は、膝より下は木目模様の義足になっている。
「まー、それもそうさな!」
彼女はリビングへと戻っていく。彼女はスリッパを好まず、基本的に部屋の中は素足だ。彼女は歩くと、フローリングと義足がぶつかる、コツコツと言う音が聞こえる。
彼女に続いてリビングへと向かう。来客が座る二人掛けのソファーとローテーブルの間に、倒れた洗濯カゴと洗濯物が散らばっていた。幸運にも、部屋の角にあるデスクやオフィスチェアーにまで被害は及んでおらず安堵する。
「どうしたんですか、これ」
「いやぁ、君が来る前に洗濯しようとしたら急な電話で転けて撒いちゃってだなぁ」
彼女はポリポリと頭を掻いた。
「これから来客があるんだ。せめてカゴに戻して寝室に片づけてしまいたい」
「……来客?」
僕の記憶では、今日は特に予約が入ってたわけでない。
「あぁ、飛び入りでね。多分、そろそろ来るんじゃないか?」
まるで謀ったようにインターホンが鳴る。
「だったらもう少し焦ってくださいよ!」
刹那はインターホンの応対へ向かう。ここは五階最奥の部屋。来るまでに少しの余裕がある。僕は大急ぎで洗濯物をカゴに入れてゆく。レースっぽいアレとかコレとかあったような気がしたが今はそれどころではない。
お客様が座るソファー周り、その正面にあるローテーブルの下、靴下などの細かな落とし物が無いのを入念に確認する。よし、無い、大丈夫だ。
「刹那さん、カゴ仕舞ってください!」
「いつも悪いねえ。ついでに履き替えてくるから覗かないでくれたまえよ?」
「そんなこと言ってたら来ちゃいますよ、早く着替えてください!
洗濯カゴを彼女に渡す。刹那は自分の寝室にカゴを置きに居なくなる。少しして、ロングスカートに履き替えた彼女が出てくる。そこで部屋のインターホンが鳴った。ギリギリセーフだ。
僕が扉を開けると、自分と同じくらいの年齢の、スーツを着た青年が立っていた。やや筋肉質な体格に、特徴的な黒縁メガネ。若干つり目ではあるが、どことなく柔和な印象を受ける。
「……あれ? 東雲探偵事務所って、ここ、ですよね?」
青年は困惑した表情を浮かべている。無理もない。いきなり大学生が出てくると大抵はそんな表情をする。
「はい、こちらが東雲探偵事務所になります。僕は助手の相生と言います。中で東雲さんが待っているので、どうぞ」
来客用のスリッパを出し、青年を招き入れる。また困惑が拭われてないものの、彼はおずおずとついてきた。
刹那はリビングの定位置であるオフィスチェアに腰掛けていた。ご案内した彼の姿を見ると、彼女はスッと立ち上がる。
「初めまして。東雲探偵事務所所長、東雲刹那だ。よろしく頼む」
そこでようやく青年の困惑が解ける。
「初めまして、嵯峨誠(さが まこと)と申します。こちらこそよろしくお願い致します」
嵯峨と名乗った青年は、慣れた動作で胸ポケットから名刺を取り出す。刹那はそれを受け取り、彼をソファーへと促した。それを見届け、僕はキッチンへと向かった。
来客用のコーヒーを用意する。幸いにも、ポットにお湯が入っていた。落としている間に、刹那さん用の麦茶を準備するために冷蔵庫を開ける。麦茶はもう少しで無くなりそうだったので、新しいものをついでに作る。
麦茶とコーヒーを持ってリビングへと戻ると、社交辞令を終えちょうど本題に入るところだった。お客様に飲み物を出して、自分も刹那の隣に座る。
「彼女が、帰ってこなくて」
「なるほど、人捜しか。彼女がいなくなったのはいつ頃なんだい?」
「いなくなったと気づいたのは三日くらい前ですね」
早速、刹那の眉間にシワが寄る。
「気づいた? と、言うことはもっと早くに失踪してる可能性があるってことかい?」
嵯峨は痛いとこを突かれたように苦笑した。
「社会人の僕と学生の彼女じゃ生活リズムが違うので、元々マメに連絡を取っていたわけじゃないんです」
「それで、彼女の失踪が発覚したのに時間がかかったと」
刹那の言葉に嵯峨は頷く。
「共通の友人から話を聞いて、そこで初めて本当に連絡が通じないんだって分かりました」
「浮気の可能性は? その、共通の友人と共謀して、君から逃げようと考えてるとは思わないのかい?」
刹那の問いに、嵯峨は首を横に振った。
「それだけは無いと思います。彼女のことなんで、別れるってなったらもっと派手に何かが起こる予感がするので……」
「なるほどなぁ。それで、彼女の失踪に関する手がかりはあったりするかい?」
嵯峨は何かを思い出したように、自身のカバンを漁る。
「あの、彼女が僕の部屋に忘れていったメモなんですが」
そういって、彼は一冊のメモ帳を取り出し、パラパラとめくる。特に飾りもない、コンビニで買えそうな小さなリングノートだ。
「そう、このページです」
嵯峨がメモを差し出す。それには、こう書かれていた。
『悠久に住まう者、
未だ死を知らず、
真の怪異の訪れに、
死を知るだろう』
女子が書いたとは思えない、妙に乱れた文字だ。その文章の周囲や、その前後のページはたくさんの走り書きに溢れ、日本語以外の言語も混ざっていることが確認できた。
「……これ、何かの訳ですかね?」
僕が訊くと、刹那は深刻な顔でソレを見つめていた。
「……すまないが、このメモをこちらで預かっても構わないだろうか?」
刹那の声音は、ほんの少しだけ震えていた。そんな彼女に気づかず嵯峨は快諾する。僕と刹那は礼を言い、メモをこちら側に寄せた。
「あぁ、そうだ。彼女の名前は、なんて言うんだい?」
「瑠璃です。神立、瑠璃(かんだち るり)」
僕は平然を装うことに集中する。落ち着け、ここで動揺をしてはいけない。
「写真はあるかい?」
訊くと、嵯峨はスマホを操作する。いくらかスクロールをする操作をしているが、一向に彼が画面を向ける気配は無かった。
「……すみません、ちょっと、写真無いですね。僕も彼女も、写真を撮られるのがあんまり好きじゃなくて」
「分かった。なら、容姿の特徴だけでも構わない」
嵯峨は刹那に瑠璃の特徴を話す。少しだけ別人であることを期待したが、僕の記憶と相違なかった。
その後はお金の話や連絡先などの事務的なやりとりをし、嵯峨を見送る。
「少年、瑠璃と言う少女と知り合いかい?」
ドアが閉まってすぐ、刹那はそう訊いてきた。
「なんでバレてるんです」
「アッハハ、修行が足らんよ。取り繕ってはいたが、動揺してただろう?」
図星で思わず黙り込む。その様子が面白いのか、刹那はカラカラと笑った。
「私の慧眼をなめちゃいかんよ。それで、神立瑠璃って子はどんな子なんだい?」
リビングへと歩きながら、刹那はスカートを脱ぎ捨てる。もちろん、下にはショートパンツを穿いていた。道すがら寝室へスカートを投げ込みリビングへ戻る。最初のうちは驚いたがすでに見慣れた光景だった。
「なんというかまあ……豪快な奴です」
「ほほう。失踪するような感じはあったかい?」
僕は首を横に振る。
「急に海外へ遊びに行くような自由人だけど、報告は欠かさないし、絶対に帰ってくるっていう謎の安心感はありましたね」
「謎の安心感ねえ」
リビングに戻った刹那は、机の上に置かれたメモに手に取る。
「あと、勘が良くて頭が良い奴でしたね。テストは勝てないし、サプライズは見抜かれて台無しにされました」
それを聞き、刹那は何故かにんまりと微笑んだ。
「へえ、気に入られてたんだねえ。サプライズを見抜いて台無しにするなんて、よほど信頼してないとやらないさ」
「まぁ……」
瑠璃に気に入られていた自覚は無いわけではなかった。しかし、他人からそう指摘されれば、複雑な気持ちにならざるを得ない。
「なんか、私みたいな子だねえ。一度会って、じっくりと会話をしてみたいものだ」
「いや、刹那さんの方が常識人ですよ」
僕の返答に彼女は大きく笑った。
「そうかそうか、私を誉めてくれてるのか」
「誉めてないです。アイツと比較したらって話です」
僕の抗議を無視して、彼女はメモに視線を落とす。
「にしても、見覚えのある文章ではあるんだけどねえ」
「何かの呪文ですか」
刹那はオカルトに精通している。だから、これもそういった類のものかと思ったが、彼女はゆるゆると首を振って否定した。
「いや……どこかで見た文章なのは確かなんだけどねえ」
そう言いながら、彼女はオフィスチェアに腰を落とす。それから、おもむろにデスクの引き出しを開け、中にある白い本に視線を落とした。
「もう使うんですか?」
「そんなわけないだろう。そんな簡単に使えるものじゃないさ」
その本の名前は『アカシック・レコード』。古今東西ありとあらゆる事象が書かれている魔法の本だ。過去のことから未来の事件まで、その本を開けば全てを知ることができるのだ。しかしもちろん、それを見るためにはリスクが伴う。彼女はそのリスクを望んでいるが、僕は望んでいなかった。
「刹那さんのことなので、早速使うのかなって」
「甘くみないでくれたまえ、私にだってプライドがある。話の全容も見えぬまま使わないさ」
刹那は引き出しを閉じた。白い本は、暗がりに戻っていった。
〈2〉
男性にぶつかった僕はホームの方に突き飛ばされる。
不幸にも、僕の身体は女性に当たる。
僕の代わりに、彼女はホームから落下していく。
しかも、次の電車がやってきた、そのタイミングで。
周囲が悲鳴をあげる。
電車がブレーキが響かせた。
そんな中、線路へと落ちてゆく女性は、嬉しそうに微笑んでいる。
その彼女の表情が、僕の記憶に強く、残っていた。
*
妙な依頼が来ても、瑠璃が帰ってこなくても、世界はいつも通りに回っている。
「なーんか神妙なカオしてっけど、どしたの?」
授業の終わりにそう声をかけてきたのは、同級生の猪上雅(いのかみ みやび)だった。ド派手な金髪がよく目立つ青年だ。また、オカルトマニアを自称しており、刹那を師匠と呼びリスペクトしていた。諸事情で一度、浪人してから入学しているため、年齢は僕より一つ上である。
「ま、どうせお前がそんなカオするってことは、師匠絡みだろうけども」
「分かってるじゃないですか」
「だろー? オレってば今日も冴えてんなー。ってことでメシ行こうぜ」
断る理由もない。僕と雅は二人で食堂へと向かう。
「あっ、相生先輩」
後ろから声をかけられる。栃本の声だ。僕は後ろを振り返り、彼女に頭を下げる。
「ごめん、伝え忘れてた」
「えぇ、開口一番ソレですか……」
「女の子との約束破るなんてサイテーだぞ。何があったのか知らないけど」
「雅さんはちょっと黙っててください」
次こそは忘れぬように、とスマホを取り出し刹那へ、後で少し相談があります、とメッセージを送る。最初からこうしておけば良かった。
「んで彼女は一体何者? あ、オレは猪上雅って言いますヨロシクー」
「初めまして、栃本茜と言います。相生先輩とは瑠璃先輩を通じて知り合ったんです」
「あー瑠璃ちゃんの。あの子も交友関係広いからなぁ」
なるほどなぁ、と雅は感心する。
「瑠璃先輩とは高校からの知り合いなんです」
「へぇ。ところでこれからお昼? 一緒に食べない? あとラインやってる?」
「いきなりナンパしないでください雅さん」
この人は目を離すとすぐにこうだ。栃本もスマホを取り出す。
「栃本ちゃんも便乗しなくていいんだよ」
栃本は雅とラインを交換する。
「いや、私も食堂にいくとこだったんで。ダメですか?」
「いーじゃん繋くん。彼女も乗り気なんだからサー」
圧倒的に劣勢だった。とはいえ、別に拒否する理由もない。三人で食堂へと向かう。
相変わらず食堂は混んでいた。栃本が率先して席を探してくれ、僕たちは空いてるテーブルに座る。
「あれ? 今日は大盛りにしないんだ」
僕は栃本のトレーを見て、思わずそう口にする。
「今日、ちょっと食欲なくて……」
「繋くん、そういうのは黙っておくモンでしょ」
「いいですよ。相生先輩はいつものことですし、私は食べるのは大好きですし」
「あーね。普段よりご飯が少なかったら気にするかぁ」
ウンウンと頷きながら、彼はカレーライスを頬張る。
「そうそう、相生先輩。あとで図書館に行ってみません?」
「図書館? ここの?」
彼女は頷く。
「瑠璃先輩がよく出入りしてたので、何か手がかりがあるかもって思って」
「瑠璃ちゃん意外と読書家だよねー」
活動的な瑠璃から、静かに読書をする姿が想像できない。
「ところで、この後ヒマですか?」
「うん、空いてるよ」
「オレも同行して良き?」
雅が尋ねる。
「いいですよ」
即答したのは栃本だった。彼女は言葉を続ける。
「相生先輩だけじゃ頼りないので」
この後輩、想像以上に毒舌である。
昼食を食べ終わった僕たちは、栃本とともに大学内の図書館に向かった。
中は普通の図書館とそこまで大差ない。たくさんの学術書と、少しの雑誌と新聞。人によっては開くと眠ってしまいそうな本が大量に置いてある。
今はあまり人がいないようで、自習スペースは空席が目立った。それを僕らは横目に見ながら貸し出しカウンターへ向かう。
カウンターに居たのは、僕らより少しだけ年上っぽい女性だけだった。何故か彼女に既視感を覚えジッと見つめていると、雅がポンポンと方を叩く。
「繋くん、いくら美人さんでもそんなに見つめちゃ失礼でしょ。すみません~」
女性は顔をあげる。彼女は僕を見てアッと言う顔をし、こちらへ駆け寄ってきた。
「ねえねえ、瑠璃ちゃんとよく一緒にいたよね」
彼女からそう声をかけられ、ようやく僕も彼女が瑠璃とよく話していた人物だったことを思い出した。
「あっ、そうです」
栃本が不思議そうな顔で僕の肩を叩く。
「相生先輩、お知り合いですか?」
「瑠璃の知り合いだよ」
女性は頷いた。
「そう、私は司書の宮原です。瑠璃ちゃんとはご縁があってよくお話をしてたの」
「そーなんすね。オレ、瑠璃ちゃんの同級生の猪上って言います」
「私は、栃本茜って言います。瑠璃先輩とは高校からの知り合いで」
「僕は相生繋って言います。瑠璃の親友です」
「あら親友なの。彼氏じゃなかったのね」
ウフフ、と宮原は笑う。
「二人のことも瑠璃ちゃんから聞いてるわ。可愛い後輩と楽しい同級生だって」
宮本の言葉に栃本は照れ、雅はにっこりと笑った。
「単刀直入ですみませんが、瑠璃の失踪について何か知らないですか?」
僕の質問に宮原は表情を曇らせる。
「ごめんなさい。私にも分からないの」
「まー、瑠璃ちゃんって絶対に肝心な事だけは喋らないからなぁ」
答えたのは雅だ。隣で、栃本も頷いた。
「問題になった時は大抵手遅れって言うか、こう、大惨事を起こす人ですもんね……」
何かを思い出したのか、栃本は眉間にシワを浮かべる。彼女もまた、瑠璃の無茶ぶりに付き合わされたことがあるのだろう。似たような経験がある身からして、同情せざるを得ない。
「じゃあ、失踪する前に変な行動とか……兆候とかってありませんでしたかね?」
「あら、瑠璃ちゃんは常に変な子じゃない」
宮原はあの返答が早い。隣の二人も頷いている。
「わかります。瑠璃先輩って頭がいいのに馬鹿ですよね」
「それな。カンが良いのに天然なのが本当にもったいない」
さすがにこれはひどい。三人はそのまま瑠璃の話を続ける。すると、奥から別の司書が顔を出し、図書館では静かに、と声をかけた。三人は驚いた顔でお互いを見合って、えへへ、と笑う。既に旧知の仲のような空気だ。
「あ、そうそう思い出した」
宮原がポンと手を叩いた。
「結構前の話なんだけど、あの子、変な本を持ってきたわ」
「変な本?」
僕のオウム返しに宮原は頷いた。
「やけに古びてて、確か洋書だったはず……蔵書印が無かったから、誰かの忘れ物だったのかなって」
「それって今ここにありますか?」
宮原は首を横に振って否定した。
「いえ、瑠璃ちゃんが学務の方に持っていくって言うからお願いしちゃって」
「あー、絶対に学務に持って行ってないですよ瑠璃先輩」
「オレもそんな気がする」
宮原は天を仰ぐ。
「やっぱり? あー、こっちで預かるって言えば良かったなぁ」
確かに二人の言うとおり、素直に学務に届ける人物には見えない。届けるにしても、自分で読んでから届けるだろう。
大衆小説のようなものなら大して気にも留めないが、いかんせん古びた洋書である。これが、刹那の土俵で起こってる事件なら、瑠璃の持っていった本は大切な鍵になる。
「その本って、そんな感じの本でしたか? 本当に些細なことでいいのでおしえてください」
宮原はぎゅーっと眉根を寄せる。
「うーん。英語じゃない感じの言語で、すごく古びてて、皮の表紙……だったかなぁ。しっかりと見てたわけじゃないから自信ないなぁ」
「いえ、それだけ分かれば十分です。ありがとうございます」
彼女の言葉を携帯のメモに残そうとスマホを取り出すと、刹那からメッセージが来ていたことに気づく。
『明日、神立さんの家に行くことになったのでよろしく』
内容はそれだけだ。神立、の文字に一瞬戸惑ったが、瑠璃のことだと気づくのにそう時間はかからなかった。
「繋くん、こうみると本当に探偵だなぁ。なんかしっくりし過ぎてウケる」
「そんなことでウケないでください。僕は普通の大学生です」
「あら、探偵さんなの?」
「相生先輩のバイト先、探偵事務所なんですよ」
どいつもこいつも僕のプライバシーに気を使う素振りは一切無い。
「相生くん、もし瑠璃ちゃんを見つけたら私にも教えてね?」
宮原は可愛らしくウインクをする。見つけるのは僕の仕事ではない。
「まあ、その時は」
こうして僕たちは図書館を後にし、念のため学務にも寄ってみた。
案の定、学務に古びた洋書の忘れ物は届いていなかった。
〈3〉
ホームでの転落事件から二週間後。
電車に轢かれた彼女への見舞いは、放課後の日課となっていた。
周囲の証言もあり、僕は無罪で済んだ。
それでも、僕は彼女の表情が忘れられずにいた。
だから、こうして毎日、昏睡している彼女の見舞いをしている。
そう、彼女はまだ目覚めていない。
右膝より下を永久に失ってはいるが、容態は安定している。
医者は、彼女自身が生きることを拒絶してるようだ、と語った。
*
次の日、今日は授業が午後からなので、朝から東雲探偵事務所に詰めていた。
「刹那さん、また朝ご飯食べてないですよね」
「またとは失礼な。たまに食べないだけさ」
「その『たまに』を僕が朝から居る日に当て込んでるのは気のせいですかね?」
「フハハ、勘が良いじゃないか」
刹那は定位置のオフィスチェアに座る。
「まあ、君の分も一緒に作ってくれて大丈夫さ。私の予想だが、君も朝食を食べてないんじゃないか?」
バレていた。今日は若干の寝坊をしてしまい、朝食を食べる余裕もないまま出てきてしまったのだ。
「なんで分かったんですか」
「君にしては珍しく寝癖がついてるよ? あと語気が荒い」
思わず頭を触る。本当だ、跳ねていた。
「そうそう。期限が切れそうな食パンがあるからそれの消費をお願いするよ」
幸いにも僕は自炊が出来るタイプである。消費を希望された食パンはトーストにした。冷蔵庫にイチゴジャムがあったので、それも一緒に出す。それから、ベーコンとタマネギを発見したので、それらはコンソメスープにする。
出来た気配を感じたのか、刹那がキッチンへとやってきた。
「うんうん、君に頼むと食事が豪華になるからありがたいよ」
「じゃあせめて運ぶの手伝ってください」
刹那はジャムとトースト二つを器用に持ってリビングへと消える。僕もコンソメスープをカップに入れ、リビングへと移動する。
ローテーブルの上に朝食が並ぶ。刹那も定位置ではなく、ソファーへと腰掛ける。僕も彼女の隣に座る。
「さあ、食べようじゃないか」
刹那が手を合わせる。僕も手を合わせた。
「「いただきます」」
刹那はイチゴジャムに手を伸ばす。僕はコンソメスープに口を付ける。ほどよい塩味とベーコンのコク。突貫で作ったわりには良い出来だった。
「ジャム、使うかい?」
刹那はジャムを差し出す。
「使います」
僕はジャムを受け取りトーストに塗る。隣で刹那が、あぁそうだ、と独りごちた。
「どうしました?」
「今日、嵯峨も同行するからよろしく」
業務連絡だった。刹那は話を続ける。
「そういえば昨日、相談があるとか云々言ってなかったかい?」
「あ、そうなんですよ。実は」
そうして、栃本の件と昨日の図書館の話を端的に伝える。古びた洋書、と伝えるとやはり刹那は嫌そうな顔をした。
「謎の古びた洋書ねぇ……」
悪い予感しかしないよ、とこぼし彼女は一口サイズまで食べ進めたトーストを口に放り込む。僕も同じタイミングで食べ終わり、どちらからともなく手を合わせた。
「「ごちそうさまでした」」
僕は適当に皿を重ね、キッチンへと持っていく。
「じゃあ、私は出かける用意をしてくるよ」
刹那は寝室へ入る。これから着替えや化粧でもするのだろう。
食器を片づけながら、瑠璃の家に行くのは初めてだなと何となく思った。
準備を終えた刹那と共に、嵯峨との待ち合わせ場所に向かう。五分前に到着したと言うのに、嵯峨はもうそこで僕たちを待っていた。
瑠璃の家はそこから少し歩いた場所にある。大学からなら、徒歩二十分くらいだろうか? 閑静な住宅街に佇む、小さな一軒家だった。瑠璃が実家暮らしなのは、かなり前に本人から聞いている。
刹那がインターホンを鳴らすと母親が出てきた。瑠璃をとても柔和にしたような雰囲気の人だが、その目元には濃い熊が出来ている。元々、話は通していたらしく、すんなりと部屋へと案内された。
瑠璃の部屋は、女子にしてはシンプルだった。無骨な学習机やクローゼットに、寒色系でまとめられたベッド。それから、様々なジャンルが雑多に詰まった本棚。壁際に並べられた人形が、かろうじて女子らしい部屋を演出していた。
母親曰く、失踪前と特に変わったことはないらしい。嵯峨も部屋の様子を検分しながら、
「特に変わってないですね……」
と、話す。それを聞き、刹那は大きく頷いて、本棚へと近寄った。僕も共に本棚を検分する。本棚には、参考書や教科書、小説にマンガなどバラエティーに富んだ本が適当に並んでいた。雑多な本棚の中、大学ノートが数冊並んだ場所を見つける。
「それ、瑠璃の日記だと思いますよ」
僕の視線に気づいた嵯峨がそう言った。
「ふぅん、日記ねぇ」
刹那が適当な一冊を手に取る。僕は横からそれを眺めた。
僕はそれを後悔する。
ノートを開いた瞬間、嫌な空気がそこから溢れ出る。
「……いやぁ、これはこれは」
刹那の呟く声が遠くに感じた。
開かれたそのノートには、何らかの言語が並んでいる。それらの文字が浮き上がり、渦を巻き、僕に語りかけてくる。文字は回る。世界の真理を見せようとしてくる。そんな世界は知りたくない。でも、目の前の文字が、理解を誘っている。胸を抉ってくるような、強烈な好奇心に支配されそうだ。
「少年、大丈夫かい?」
その声で、僕の意識が戻ってくる。
いつの間にか、彼女はノートを閉じ、不思議そうに僕の顔をのぞき込んでいた。
「すみません、大丈夫です。もしかして、このノートは……?」
「あぁ、当たりだね。しかも少しだけ訳されてるやつだ。よく訳したと誉めてやりたいが、日記に紛れさせるなんてタチが悪い」
刹那はそれを小脇に抱え、他の場所に目を向ける。つられて僕も見渡すと、嵯峨がクローゼットの中から浴衣を見つけたところだった。
「青いですね、浴衣」
「瑠璃は青色が好きなので」
嵯峨はそう答え、その浴衣を愛おしそうに撫でた。
「瑠璃、か。名前通りで似合いの色じゃないか」
嵯峨は丁寧に浴衣をクローゼットに戻した。
「よく似合ってたんですよ、この浴衣」
「彼女とどこかに出かけたのかい?」
はい、と嵯峨は肯定する。
「先月、花火大会に行ったんですよ。その時に、彼女が着ていたんです」
そういえば確かに、瑠璃本人もそんな話をしていたような気がする。
「じゃあ、二人で出かけるのは多かったのかい?」
「いえ。仕事が忙しいのもあってあんまり……」
話はそこで終わった。嵯峨は微妙な空気から逃げるように学習机を調べ始める。
本立てには教科書が詰まり、入りきらなかったらしいノートやプリントは机の隅に高く積まれている。その下でたくさんの文房具が転がっており、お世辞にも綺麗とは言えなかった。ノートはプリントは講義で配られたもので、見覚えがある。
「……なんだこれ」
声に反応して嵯峨を見る。彼は一冊の日記を読んでいた。書かれている日付を見るに、自分たちが高校生だった頃の日記だ。
「なんで俺たち、別れてるんだ……?」
嵯峨の顔に困惑が広がる。
「その時期は……特に、何も、無かったような……」
「考えない方がいい」
刹那の凛とした声が響いた。
毅然として嵯峨に近づき、彼の手から日記を奪う。
「彼女がこの日記に嘘を書いている可能性だって捨てきれない。君は、あの子の安否をただ心配してればいいのさ」
刹那は二冊のノートをカバンに仕舞う。
「さぁ、帰ろう。ここまで揃えば満足さ」
母親に挨拶をし、瑠璃の家を後にする。既に日が傾き始めていた。どうやら思っていたより長居をしていたらしい。
「あっ、相生先輩」
少し歩いてから、聞き覚えのある声がする。声がした方を見ると、そこには栃本がいた。
「栃本ちゃん、どうしてここに?」
「バイト帰りなんです」
そういって僕の後ろを見て、彼女の表情が凍った。
「……誠、さん?」
彼女の視線は嵯峨に向けられている。視線を向けられた彼は不思議そうに首を傾げる。
「茜……?」
「誠さんこそ、どうしてここに……?」
「探偵さんに、瑠璃を探してもらってるんだ」
栃本はそこで、刹那の方を見る。
「少年から話は聞いてるよ、栃本さんだね。私が東雲刹那だ」
「初めまして、栃本茜です」
栃本は軽く会釈をし、再び嵯峨を見つめる。
「……誠さん、何か思い出しましたか?」
視界の端で刹那が怪訝な顔をした。
「だから言ってるだろう。俺はお前と付き合ってないじゃないか」
栃本の表情は揺らがない。まるで静かな湖のように、穏やかに凪いでいた。僕にとって、そんな彼女の姿がとても不気味に見える。
「まあまあ、ここでその話はやめたまえ」
刹那が二人の間に割って入る。
「今日はこれで解散さ。詳しい話は、それぞれ後ほど聞くことにするよ」
「……分かりました、その時はよろしくお願いします。相生先輩、また明日」
「うん、また明日」
そう言って、栃本は足早に去っていく。
「彼女とお知り合いですか?」
嵯峨が僕に尋ねる。
「瑠璃から教えてもらったんです。瑠璃とは大学の同級生で」
じゃあ僕とも同い年だったんですね、と嵯峨は笑う。
「良い後輩なんですけどね……なんか急に彼女ヅラって言うか……」
「そうなったのっていつ頃なんですか?」
「一週間くらい前ですかね……瑠璃と連絡が取れなくなってからかと」
「なるほど。とりあえず、今日はもうお開きにしよう。私も色々と整理がしたい」
探偵事務所に戻ると、彼女は大きく息を吐いた。
「まったく、ちょっとした人捜しだと思ってたんだけどねぇ」
彼女はオフィスチェアーに腰掛ける。慣れた動作で義足を外し抱き抱えた。遠目に見ると、チェアーの上で膝を抱えているように見える。考え事がある時の、彼女の仕草だった。
「まさか、呪文を習得した上に、他人の記憶にちょっかいをかけるなんて……」
「まあ、アイツならやりかねない話ですけどね……」
刹那はムッと頬を膨らます。
「なんだい少年。神立さんの味方をするのかい?」
「いや、擁護じゃなくて事実ですもん」
「はー、そうかい」
刹那は持ち帰ってきた瑠璃の日記をパラパラとめくる。ページの中間くらいまでめくったところで白紙になった。そこで日記は途絶えてるらしい。
「随分と中途半端で終わってるじゃないか。少年、読むかい?」
刹那は僕に日記を差し出す。知り合いの日記を読むのは少し気が引けるが、そうは言ってられなかった。日記を受け取り読み始める。
どのページにも、誠の名前が書かれている。瑠璃がゾッコンだったのがよく分かった。知らないアイツの一面に、何故か恥ずかしさが沸く。
しかし、それもつかの間『誠と別れた。もう、彼と関わることはないんだろうな』と書かれているのを見つけた。改めて表紙の年数を確認すると三年前、自分たちが高校生だった頃の日記だ。そこから、明るかった日記が一気に暗くなる。別れてからも誠の名前が出てきていた。もう関わらない、別れたんだ、諦めなきゃ、と言う言葉と共に。
「彼女はとても嵯峨のことが好きだったみたいだねえ」
「じゃあ、なんで別れたんですか」
「私に聞かれても分からないさ。日記にも書いてないからね」
言われてみれば確かに、別れた経緯がどこにも書いてなかった。
「あとそうだ。栃本さんって、普段からあんな発言をする子なのかい?」
あんな発言、とは多分、さっき会ったときの言動だろう。
「彼女はいたずら好きな性格ですけど、あんな風に人を惑わすような子じゃないと思ってます」
「じゃあ、あそこでの言動は君にとっても予想外だったと」
「予想外、と言うよりは……その後の反応が不気味でしたね」
「ほう、不気味と」
刹那は身を乗り出して僕の話を聞く体勢になる。
「えぇ、すごく静かで、それが逆に怖かったと言うか……」
なるほど、と刹那は何かを理解したように何度か頷く。
「私の予感が正しければ、これは、とても面倒なことになりそうだ」
〈4〉
結局、刹那が目覚めるまで一ヶ月がかかった。
お見舞いで部屋にいる最中、急に彼女が起きあがったのだ。
彼女は自身の身体を検分し、深く頷いた。「……どうやら、生きてしまったようだね」
彼女は夕日に目を細める。
「死んでしまえば良かったのに」
「どうしてそんなこと言うのですか」
反射的に言葉が出た。涙が溢れ、頬を伝う。
「僕は、こんな僕を救って、そのまま、死んでしまったらどうしようかと、どうすればいいって」
それ以上は言葉にならなかった。僕は嗚咽と共に彼女へ泣き崩れる。
「……それは、済まなかったね」
刹那は、僕の頭を優しく撫でた。その温もりが、僕はとても嬉しかったのだ。
*
瑠璃の家に行った次の日。学校の終わりに栃本が刹那の元へやってきた。
「さて、話を聞こうじゃないか」
凛とした態度で刹那は問いかける。彼女が来ると知ってから、事務所に来る直前まで、ずっと不機嫌そうな顔をしていたのが嘘のようだった。
「……あの」
喋りだした栃本の声は震えていた。
「実は、誠さんは私の彼氏なんです」
「あぁ、そう聞いているよ」
「でも、瑠璃先輩の彼女だって言い始めて……それで、そういう変な話なら、相生先輩のバイト先が良いって、前に瑠璃先輩に聞いてて……」
「それで、少年に声をかけたと」
栃本は頷く。
「まあ、嵯峨に何らかの呪文がかけられていることは容易に想像できる。そして私は、それを消すことが可能だ」
「出来るんですか……?」
刹那はにっこりと笑う。
「当たり前だろう、出来るとも。本当はお金を取るんだが……学生価格ってことで特別にお代は要らないよ」
「えっ、それはさすがに申し訳ないですよ」
慌てて栃本は財布を取り出そうとする。
「いいのさ。その代わり、大人からたっぷり頂くからね」
そう言い、刹那はにんまりと笑う。思い返せば、嵯峨への相談料は少し割高だった気がした。
「さて少年。嵯峨を呼んでくれるかい?」
電話をすると、仕事を終わらせたらすぐ行くと言う返答だった。
「仕事が終わったらすぐ来るみたいですよ」
栃本が安堵と不安の中間くらいの複雑な顔をしている。そんな彼女に気づいて、刹那が優しく微笑んだ。
「じゃあ、彼が来るまでお喋りといこうか」
嵯峨が来るまで、刹那と栃本は他愛のない会話に花を咲かせていた。内容は主に瑠璃についてのことだ。
栃本の話す高校時代の瑠璃は、僕が知っている瑠璃とほとんど相違ない。知らなかったのは、嵯峨との関係だった。
「瑠璃先輩と誠さんって、お似合いのカップルだったんです」
彼女の言葉で、刹那の顔に陰りが出る。
「いつも隣にいるけど、ベタベタとしてるわけじゃなくて、そこに居るのが自然って言うか、まるで夫婦みたいでした」
刹那は無表情でそれを聞いていた。それはまるで、何かの感情を必死に押し殺してるように見える。
「だから、二人が別れたって聞いて、チャンスだって思ったんです」
栃本は視線を落とした。その瞳は、水面のように揺れている。
「それからしばらくして、本当にチャンスが来たんです。付き合うことが出来たんです」
「告白したのは、どっちなんだい?」
刹那は淡泊に尋ねる。
「私からです。瑠璃先輩も応援してくれました」
刹那と反比例するように、栃本の話に熱が帯びてゆく。
「それなのに、誠さんは私のこと忘れちゃうし、瑠璃先輩はいなくなっちゃうし、もうどうして」
栃本は目をつむる。閉じた目から、涙が頬を伝った。
「少し酷な話をするよ」
刹那は冷たい声で栃本に語りかける。
「君が嵯峨に恋しなければ、君はここで泣かずに済んだわけだ」
「……刹那さん」
刹那に牽制をするが、彼女が止まる気配がない。
「その涙は言わば身から出た錆だ。恨むなら自分を恨まなきゃダメさ。だから君は、今の幸せを誇らなきゃいけないよ。たとえそれが、茨の道でもね」
そこまで言い切ると、刹那は大きなため息を吐いて立ち上がった。そのまま、彼女はキッチンへといなくなる。僕は栃本に箱ティッシュを差し出してから、刹那の後を追った。
キッチンでは、刹那が麦茶をあおっていた。今日はお客様が居るので室温も少し高めだ。彼女にはさぞ暑かったことだろう。
「嵯峨さんの記憶喪失の件なんですけど、あの姿を、見せるんです……?」
「それを聞くためだけに付いてきたのかい?」
刹那は鼻で笑った。
「まさか。私だって魔術に精通してるんだ。あのくらいなら朝飯前さ」
それを聞き、僕は安堵する。あの姿は、なるべく他人に見せたくなかった。
二人で栃本の元へ戻ると、鼻をかんだティッシュを抱えていた。慌ててゴミ箱を差し出すと、彼女は勢いよくゴミを投げ捨てる。
「そういえば、瑠璃先輩も同じ事言ってました」
「瑠璃が?」
「はい。その幸せをめいっぱい誇れ、って」
そこでインターホンが鳴る。相手を確認しに行くと嵯峨だった。
「来たかい?」
刹那の質問に僕は頷く。栃本がカバンから目薬を取り出し、赤い目に点眼した。瑠璃にはない女の子らしさだ。
事務所にやってきた嵯峨は、栃本がいることに少し驚いた顔をする。二人は気まずさからか、お互いに何か言葉を交わすことは無かった。
刹那が嵯峨に座るように促す。嵯峨は、少し間を空けて栃本の横に座った。
「さて今回、君を呼んだのは、嵯峨さんにとある呪文がかかってるからだ」
刹那の話に、案の定、嵯峨は眉をしかめた。
「呪文?」
「不審に思うのは無理ないさ。私だって、あの日記がなければ、君に呪文がかけられているなんて思いもしなかったさ」
「いや、そうじゃなくて……」
「あぁ、呪文の存在がありえないってことかい?」
嵯峨は頷く。
「そりゃあふつうに生活していれば、巡り会うなんて無いさ。しかし、ソレに触れた人がいて、君を巻き込んでしまった。そうなった以上、君は呪文の存在を空想上の絵空事、なんて言えないよ。分かるかい?」
嵯峨はまだ腑に落ちない顔をしている。
「わからなくて結構。じゃあやるよ、文句は後からいくらでも聞こう」
刹那はコツコツと嵯峨に歩み寄る。彼女は何かを呟き、右手を拳銃のような形にして彼に向けた。その指先がわずかに煌めき、小さな光が嵯峨の脳天を貫く。
「誠さん!?」
栃本が驚愕の声を上げた。嵯峨は小さな声で呻き、栃本の方に倒れ込んだ。
「何をしたんですか」
「安心したまえ、彼は眠っただけさ。寝ることは記憶の処理として有効な手段だからねぇ。心配せずともすぐに起きるさ」
刹那は再び、定位置のオフィスチェアーに腰掛ける。座った拍子に、ふわりとスカートが浮いた。栃本はふわりと舞う足元を見つめ、申し訳なさそうな表情で口を開く。
「あの、刹那さんの足って……」
「あぁ、義足だよ。しかも特注の木製だ。かっこいいだろう?」
刹那は自慢げにスカートをめくり、木目色のそれを自慢げに見せる。僕は浮かんだ感情を押し殺し、そっとキッチンへと向かった。
その傷を、自慢にしてほしくなかった。その傷は僕の罪の象徴だ。そんな風に、何も知らない他人に、自慢げに見せて欲しくなかった。
コツコツと足音が近づいてくる。刹那がやってくる足音だ。キッチンに現れた彼女は不思議そうな顔をしていた。
「どうしたんだい少年」
「す、すみません」
「何故、謝るんだい? 何も悪いことなどしてないじゃないか」
刹那の視線が痛かった。思わず視線を逸らす。彼女は、鼻がくっつきそうな程、顔を寄せてきた。ふわり、と刹那の香りが理性をくすぐる。その匂いは、僕の判断力を鈍らせた。
「その傷を、他人に見せてるのが、気にくわなくて」
口が滑る。
刹那は黙り込む。彼女は改めて不思議そうに、幾度かの瞬きを繰り返す。
「もしかして少年、嫉妬しているのかい?」
そんなことないですよ。
当たり前のように言えるはずの軽口が、口から出てこなかった。そんな自分に動揺した。この感情が嫉妬だって? そんなまさか。でも、そう言われてしまえば、先ほど抱いた感情も納得してしまいそうだった。
刹那は一歩後ろに下がる。香りが遠ざかる。彼女の顔は、わずかに赤かった。
「まぁ、君がそう思うなら、少しくらい気をつけてあげようじゃないか」
そう言い残して刹那はリビングへ戻っていった。
僕はキッチンへ来た建前として、来客分のコーヒーと刹那の麦茶を用意する。テーブルにそれらを並べていると、嵯峨がもそもそと起きあがった。
「……誠さん?」
栃本の呼びかけに彼は反応した。
「茜、ごめん。心配かけたね」
嵯峨が栃本を抱き寄せる。彼女の目から涙が溢れた。
「大丈夫です。無事で、良かった……」
「すまないね。感動の再会も良いのだが、あんまり時間も無くてね。早速で悪いけど、話を聞き直しても大丈夫かい?」
刹那が二人を見る目は冷たい。二人は居住まいを正した。もう二人の間には、微妙な距離は無い。
「記憶は戻ったが、瑠璃を探して欲しい、と言う依頼は取り下げるのかい?」
嵯峨が首を横に振る。それを確認し、刹那は満足そうに頷いた。
「では改めて、瑠璃との関係を聞こうか」
刹那はバインダーを手に取った。
「僕の元カノです」
「別れたのは?」
「高三の冬です」
刹那はサラサラとメモを綴る。
「別れを切り出したのはどっちから?」
「向こうからです」
嵯峨も、刹那の質問に淡々と答えてゆく。最初に事務所へ来たときの、不安げな表情はどこにもない。ただ事務的に、彼は質問に答えてゆく。
あんまりじゃないか、と僕は思った。栃本との記憶を忘れていたとはいえ、それだけで、どうしてそこまで冷淡になれるのだろう。
「別れた後も結構遊んでました。僕が一人暮らしを初めてからは、月イチ程度で泊まりに来ていましたし」
刹那の眉間にシワが寄る。
「……瑠璃が、好意を寄せていたことは?」
「もちろん知ってますよ」
嵯峨は即答する。刹那のペンを握る手に力がこもった。
「なんだいそれ。ある意味、浮気じゃないか」
刹那の声に大量の棘が混ざる。
「浮気じゃないですよ。だって、付き合ってなかったので」
「そういう問題じゃないだろう!」
ダンッ、と義足が床を叩いた。
「貴様は瑠璃の好意を逆手にとり、たくさんの逢瀬を重ねておきながら、新しい人が見つかれば迷いなく捨てて」
「だって、恋ってそういうものじゃないですか?」
嵯峨は動揺することなく淡々と答える。
「わかった、じゃあ問おう。君は瑠璃に告白されていたらどうするつもりだったんだい?」
「あ、告白されましたよ。茜の、少し前に」
「「はぁっ?」」
僕と刹那の声がシンクロする。
「き、君は、なんて、答えたんだい!?」
珍しく刹那が動揺している。彼女の動揺を見て、僕は少し落ち着いた。
「今は無理、と」
刹那の動揺が次第に収まってくる。
「……その後、栃本に告白されたから付き合った、と?」
「そうです」
嵯峨は迷いなく言い切る。その隣で、栃本が僕らから目線をそらした。
「貴様がクズだったか」
刹那の温度が一気に氷点下まで下がった。彼女はバインダーを床に投げる。
「やめだ。貴様の依頼なんざもう聞きたくない。そこまで記憶が戻った上で、まだ瑠璃に会いたいと言うその精神が理解できん。再会したくば他を当たってくれ。まあ、私以外で瑠璃を見つけられるとは思わないがな」
嵯峨は怒る理由が分からないと言う顔をしていた。栃本は再び泣きそうな顔で嵯峨の手を握っている。僕は、二人に頭を下げた。
「申し訳ございません。所長がこう申しておりますので、大変不躾ではありますが、お引き取りいただいてもよろしいでしょうか?」
嵯峨は納得がいかない顔で立ち上がる。栃本もそれに倣った。僕は二人を玄関まで誘導し見送る。
手を繋いで帰る後ろ姿は、幸せそうなカップルそのものだった。
リビングへ戻ってくると、刹那は義足を抱き枕のように抱え床に寝ころんでいた。
「……すまない、取り乱してしまったね。後ほど、詫びの電話を入れなくては」
その声はしおれた花のように元気が無い。
「そんなに、嵯峨さんのやったことが許せないですか?」
「許せない、か。んー、まぁ、そうだね。許したくはないな」
彼女は寝返りをうつ。そのはずみで、口元だけが見える状態になった。肝心な表情は、髪に隠れて見えない。
「……この依頼、断るんですか」
「嵯峨が懇願したら考えるさ。でも、あんな断り方をしたんだ。再依頼は来ないだろうよ」
そのまま、彼女は口を閉ざした。しかし、その口元は何かを喋ろうとする気配を感じる。
「僕でよければ聞きますよ」
言葉を整理するように、刹那は黙り込む。僕は手持ち無沙汰に瑠璃の日記を手に取る。
どの日付にも、どのページにも、嵯峨の名前がある。それは別れた後も変わらない。日が進む度、はやくバイバイしなきゃ、もう卒業しなきゃ、そんな文が増えてゆく。選ぶ言葉に、書かれた文字に、悲痛な叫びを感じた。
それでも、瑠璃はそれを隠して、なんでもないフリをして、僕らと遊んでいたんだ。嵯峨と栃本が付き合うまでは。
そんな日記も、大学生活に入ると一気に日付が飛ぶ。それでもたまに書かれる日記には、ほぼ必ず、嵯峨の文字があった。これで最後だ、なんて言葉と共に。
日記は半年くらい前の日付で終わっている。中途半端に残されたページをぱらぱらとめくると、後ろの方に何かが書かれていることに気づく。僕は慌てて、そのページへ戻ると、乱れた文字でこう書かれていた。
『手放した宝物に固執した愚かな私を誰でもいいから気づいてくれ助けてくれ』
急激に息が詰まる。心臓がキュッと音を立てた。そんなこと、よりにもよって瑠璃が言うとは思わなかったのだ。
「なぁ、少年」
唐突に刹那は話し出す。
「どうしましたか?」
「人の可能性は無限大だ。空に憧れ、宇宙に思いを馳せ、それらを実現している。ならば何故、人は未だにこの世の真理を知らないか分かるかい?」
刹那は、僕の言葉を待たずにしゃべり出す。
「真理は、人の体じゃ、冷たすぎるんだよ」
刹那の声が震えた。
「そこは人の領域じゃない。どれだけ人類が進歩しても、その領域を渇望しても、その事実は永遠に覆らない。わずかに残った本能の残滓が知っているんだ。近づいてはいけない、知ってはいけない、と」
刹那は仰向けに寝そべる。その瞳に涙を溜め、真っ直ぐ天井を睨んで、話を続けた。
「真理は冷たい。瑠璃はそれを知ってしまった。それが私にとって、ものすごく悲しいのだよ。……悲しいのだ」
刹那は荒く涙を拭った。
「そんな原因を作った嵯峨を、私は好きになれない。だけどね、それより思うことがあるんだ」
「思うことって……?」
刹那はゆっくりと瞬きをした。新しい涙が床へ伝い落ちる。
「嵯峨を好きなまま、他の誰かを好きになれば、君はきっと救われていたのに」
もう刹那は語らない。彼女は、ただただ静かに、涙を流していた。
〈5〉
毎日わざわざ来なくてもいい、と彼女は言う。
それでも僕は、彼女への見舞いをやめることはなかった。
そんなある日、病室に入ると彼女は血にまみれていた。
大急ぎでナースを呼び、医者が駆けつける。
しかし、出血の原因はどんな検査をしても分かることはなかった。
僕が、彼女の出血の原因を知るのは、少し先の話だ。
*
「師匠がブチ切れしたってマ?」
今日の授業終わり、雅がそう訊いてきた。
「どこから聞いたんです」
「茜ちゃん」
先日ラインを交換していたことを思い出す。人の口に戸は立てられぬとはよくいったものだ。
「僕から話せることは無いですよ。プライバシーってものがあるんです」
「もー繋くんってばお堅いねぇ」
やれやれ、と雅はため息を漏らした。何はともあれ探偵業だ。おいそれと人に依頼の話は出来ない。
「じゃあ、瑠璃ちゃんの話と交換条件ならどーでしょー?」
「瑠璃の話?」
「そー、一回だけ恋バナをしたことがあるんだよねー」
瑠璃の恋バナ。それはある意味、一番欲しい情報でもあった。
僕の反応に気付いて、雅はにんまりと笑う。
「聞きたいでしょ?」
「聞きたいですけど、ここでは……」
もちろん僕たちが居るのは大学。ここで在学生の噂話をするのは気が引けた。そんな僕の様子を知ってか、雅は親指を立てる。
「だーいじょうぶ! オレ、いいとこ知ってるからさ」
連れて来られたのはパチンコ店だった。新台入替ののぼりが至るところに飾ってある。静かな喫茶店のような場所を想像していた僕は大いに困惑した。
「え、ここですか?」
「そーだよ?」
迷いのない足取りで雅は中へと入る。慌てて、僕もそれを追った。
タバコの臭いと爆音。味わったことのない強烈な刺激に、思わず顔をしかめた。そんな僕の様子を見て、雅はケラケラと笑う。
「間違えて入ってきた中坊みたいだな」
彼は慣れた足取りで台の間を歩いてゆく。二人並んで椅子に座った。昔に流行ったアニメの台だ。
「オレの奢りな」
そう言いながら、台の横に千円札を入れ、玉を払い出す。台には一玉一円と書かれていた。
「まー今日の目的は話すことだし、それっぽく打ってな」
ハンドルを握ると、一定間隔で盤面に玉が射出される。ずっとこのリズムを聞いていると眠くなりそうだと思った。
「……情けない恋をしてる、って言ってたんだよなぁ」
僕と同じようにハンドルを握る彼は、急に呟いた。
「瑠璃がですか?」
分煙ボードを軽く避け、雅のほうに顔を寄せる。
「うん。嫌いになれないから、新しい恋が出来ないんだってさー。不器用な子だわー」
コツ、コツと玉は射出される。僕の台から演出の爆音がした。なるほど、周りに盗み聞きされることはなさそうだ。耳をすまさないと、雅の話を聞き逃しそうではあるが。
「別に好きな人が複数人居たっていいと思うのよ、オレは」
「……刹那さんも、同じ事言ってました」
「え、なんて? パチ屋だからちょっと大声で喋ってくれる?」
「刹那さんも! 同じ事言ってました!」
声の調節が難しい。ちゃんと聞き取った雅は、マジで~と照れた表情をする。
「だってさー、自分だけが好意を抱えてセフレになるくらいなら、愛してくれる人を探した方が建設的じゃんね」
セフレ、と言う単語で僕の思考が止まる。雅がおや? と言う顔をした。
「エッ繋くん。まさかそんな可能性を考えてなかったの?」
雅はオカマのように空いてる左手で口元を隠した。
「あらやだ、繋くんってばウブじゃな~い。オレ、いけないこと言っちゃったかしら~?」
「い、いや、別にいけないことじゃないですよ! ウブでもないですし!」
大声で否定をする。これだけ声を上げても周囲に声が届いてる気配はなかった。
雅はニマニマとした笑顔を引っ込め、真剣な表情になる。
「オレは瑠璃からしか話を聞いてないから、そっちの事情は知らないけどさ。セフレでもいいから隣にいたい、なーんて感情は身を滅ぼすぜ」
急に、雅の台が強く光り輝く。彼の嬉しそうな表情を見る限り当たってるようだ。画面の中で女の子が「右打ちしてね!」と言っている。
「んで、師匠がブチ切れた経緯って?」
僕は昨日の話を掻い摘んで話す。セフレの関係に気付いてたからか、雅の理解はスムーズだった。
「なるほどねー。そりゃ師匠が嫌がるヤツだわ、意外と義に篤い人だしぃー」
再び、雅の台が瞬いた。どうやら、また当たったらしい。
「てか、師匠じゃないと探し出せないってことは、この世界にはいないのかー。瑠璃ちゃんもよく逃げたなー」
瑠璃が逃げた。僕からすれば、想像もしない話だった。
「んで、繋くんはどう思ったのさ」
訊かれて、言葉が出なかった。
瑠璃は友人だ。それなりに親交もあった。嵯峨との関係性を知り、悲しい気持ちにもなっている。でも、そんな感情は当たり障りのない、ただの感想でしかなかった。
僕はただ、瑠璃を『見ていた』だけだった。
そんな事実が重く、自分の心にのしかかる。
カツン、カツンと、空打ちの音がする。どうやら、全て打ち切ったらしい。雅はそれを見て目を丸くした。
「ビギナーズラックが無いなんて珍しー。まー、この千円は情報料ってことで返さなくてイイヨー」
ひらひらと雅は手を振る。
「オレはまだ当たってるから打ってるけど、繋くんどーする? まだ打つなら自分のお金で打ってね、教えはするけど」
雅からの誘いをご丁寧にお断りをして、僕はパチンコ店を後にした。
「ついにタバコを吸い始めたのかい?」
事務所に顔を出した瞬間、玄関で僕を待っていた刹那は驚いた顔をする。
「違いますよ。雅さんとパチンコに……」
刹那は大げさな仕草で壁に倒れ込む。
「少年もついに不良の道に……!?」
刹那がわざとらしく泣き真似をする。
「違います。ちょっと、話があって……」
「私は少年を不良に導いた覚えなぞ無いと言うのに……」
「雅さんに連れてかれたんですよ」
「あぁ、彼ならやりかねないか」
刹那の嘘泣きがストンと止まり、壁から離れる。どうやらもう飽きたらしい。
元気な足取りで刹那はリビングに戻ってゆく。
「今日は何かありましたか?」
その背中に問いかけると、刹那は首を横に振った。
「いーや、何もないよ。いたって平和さ」
平和の言い方に含みがあった。やはり刹那も、瑠璃のことがまだ心残りのようだ。
「……刹那さん」
「なんだい少年?」
刹那は定位置に腰掛ける。
雅や栃本から聞く、知らない瑠璃の姿。日記に書かれた瑠璃の叫び。いつでも真っ直ぐで、強かだと思ってた瑠璃の、もう一つの姿。
僕は瑠璃のことを何も知らなかった。彼女の表面だけを見て、きっと満足してたのだ。
それは、あまりにも、悲しいことだった。
そして、同時に、怒りがふつふつと沸いてくる。
なんでも独りで抱えすぎなんだよ。
「……どうしたんだい? 何か、言いたいことがあるのだろう?」
刹那は問う。
緊張で、口が渇く。
あとで冷蔵庫の麦茶を少し頂こう。
「瑠璃に、会わせてください」
刹那は怪訝な顔をした。
彼女が何かを言い出す前に、僕は素早く話を続ける。
「アイツは大切な友人だ。なのにアイツは、独りで全部抱えて、どっか行っちゃって、だから僕は、僕は……」
刹那は、黙って僕を待っていた。
「僕は、アイツと話がしたい」
とりあえず、瑠璃に怒りたかった。
「いいだろう!」
パン、と刹那はヒザを叩く。
「よく言ったじゃないか少年。その心意気、嫌いじゃないよ」
刹那は満面の笑みだった。
もう少し説得に時間がかかると思っており、思わず拍子抜けする。
「……いいんですか?」
「話がしたいんだろう? いいじゃないか。それなら、私も命を懸ける価値がある」
刹那は立ち上がる。不敵に微笑む彼女は、瑠璃に良く似ていた。
そこからの対応は迅速だった。
ついでだから、と刹那は嵯峨と栃本を呼び出す。あんな対応をしたのにも関わらず、二人はすぐに向かってくるとのことだった。
「じゃあ、二人が来る前にサッとやってしまおうか」
やることは瑠璃の場所の特定だ。
刹那はデスクの中にあるアカシック・レコードを取り出す。
その本には、ありとあらゆる事象が書き込まれている。持ち主に万物の知恵を与える魔法の本だ。白い本は、自身の出番を感じ、強く瞬いた。
今までも何回も、刹那がアカシック・レコードを開く光景には立ち会ってきている。しかし、ここまで緊張するのは初めてのことだった。
「君が緊張するなんて珍しいじゃないか」
「僕だって、関係者ですから」
刹那は意味深に笑む。
「関係者?」
「……大切な友人です」
「なんだい。好きな人じゃないのかい?」
つまんない、と言いたげに刹那は唇と尖らせた。子供っぽい仕草に僕は苦笑する。
「友人としては最高ですが、彼女にはしたくないですよ」
「なんでだい?」
「あんな勘の良い奴、身内にはしたくないです」
そう答えると、刹那は大笑いした。何が彼女のツボを突いたのか、お腹を抱え、身体を折り曲げる。
「そうかいそうかい、そんなに凄い子なんだねえ。俄然、会うのが楽しみだ」
刹那は涙を拭い、表情を引き締めた。
「さて、無駄話もここまでにして……始めようか」
刹那の凛とした声。彼女はアカシック・レコードを開いた。
本から爆発的な風が吹き、刹那の長い髪が激しく乱れる。アカシック・レコードが宙に浮き、独りでにページをめくり出す。彼女はパラパラと流れるページを凝視する。
その目から、一筋の血液がこぼれた。
ひとつ、ふたつ、その筋は増え、まとまり、大きな滝のようになって、刹那の瞳から溢れる。
アカシック・レコードは持ち主の寿命を引き替えに、様々な知恵を授けるのだ。
削れる寿命を体現するように、その血は溢れる。白目が赤黒く染まり、黒目との境界を失う。
「……終わったよ」
その声で、本が床に落ち、こぼれた血液が消滅した。刹那はゆるゆるとその場に座り込む。
「大丈夫ですか?」
青白い顔で刹那は頷く。
「いつも通りさ。とっても眠い」
インターホンが鳴った。どうやら二人がやってきたらしい。
刹那はゆっくりと立ち上がり、大きく一歩を踏み出す。カツンッと、義足が高々に鳴った。
「でもまだ、寝てられないからね」
「瑠璃が見つかったんですか?」
リビングへやってきた嵯峨が早々に尋ねる。
「居場所は特定したよ。無事かどうかは分からないけどね」
「それじゃあ、早く行きましょう」
嵯峨と栃本は再び外へ出ようとした。僕は慌てて二人を引き留める。
「外に出る必要は無いよ」
二人は不思議そうな顔をした。その反応に、刹那は笑う。その表情に、先ほどまでの青白さや眠たさは無い。
「門を開けるのさ」
「あの、門を開くって……?」
栃本がおずおずと質問する。
「見ていれば分かるよ。少年、台所から料理酒を持ってきてくれるかい?」
言われるがまま、僕はキッチンから料理酒を持ってきて刹那に渡す。
「本当はちゃんとしたお酒を用意すべきだが、今回はそんなこと言ってられないからね」
刹那は壁に軽く酒をかける。それから、右手を壁にかざし、何かを呟いた。
かざした右手に、ぼんやりと青白い光が灯る。それは何かの意志を持って蠢き、幾多の線に枝分かれをした。ある線は長方形を描き、ある線は複雑な文様を描く。そうして、壁に光る門が出来上がる。
「――この先はひとならざる者たちの領域」
刹那が語り出す。
「人が人としてたどり着くことの無い世界。ひとたび気を緩めれば、たちまち狂気が君を飲み込むだろう」
くるりと、刹那はこちらを振り向いた。
「それでも、行くかい?」
刹那は笑む。
「……行きます。瑠璃先輩が、いるのなら」
栃本が答え、嵯峨が強く頷く。刹那は二人の返答を確認し、何故か僕を見た。
「どうしたんですか?」
「君にも訊いてるのだが」
「もちろん、行くに決まってるじゃないですか」
瑠璃に会って話をしなきゃいけないし、なにより、刹那が独りでどこかへ行ってしまうのが嫌だ。
「じゃあ、開けるよ」
刹那は右手を下ろした。
門が、音を立てずに開かれる。
その先は、黒一色で塗りつぶしたように真っ黒だった。
刹那は暗闇に臆することもなく、中へと踏み入れる。
僕らも彼女の後を追った。僕は刹那の隣に。二人はその後ろをついてきた。
門を抜けるとそこは、方向感覚を失うほど暗い場所で、何もない。
刹那は黒を歩く。光源は無いのに、彼女の姿ははっきりと見える。
時間も距離も感覚も黒に奪われてゆく。確かにここは、人の居るべき場所では無かった。どれほど歩いただろう。振り返ると、門は栃本と嵯峨のすぐ後ろにあった。もう、自分の感覚は信じられなくなりそうだ。
刹那は立ち止まる。彼女の視線の向こう。見覚えのある姿が見えた。
「……瑠璃」
僕が名前を呼ぶ。人影は振り返った。
ショートヘアがふわりと揺れる。間違いなく、瑠璃だった。
瑠璃は僕を見て、嬉しそうで悲しそうな、そんな複雑な笑みを浮かべる。
「繋か。どうしたんだ、こんなところまで。バイトか?」
やや低めの声音で、乱暴な言葉。いつも通りの瑠璃だった。
「そうだよ。わざわざ開けてもらったんだ。独りでこんなとこまで来やがって。人に迷惑かけんなよ」
「あはは、それは本当に悪いことをした」
瑠璃は苦笑して頭を掻く。
「でも、私は帰らないよ」
「どうしてですか」
口を挟んだのは栃本だった。瑠璃は彼女の声に驚いた顔をする。
「茜も来てるんだ……」
その口振りから、もしかして、瑠璃の目は見えてないのかもしれない、そう思った。それでも、そんな雰囲気を微塵も見せてないところに、瑠璃の凄さを感じる。
「誠さんも、いますよ」
「瑠璃」
嵯峨が声をかけた。瞬間、瑠璃の表情が凍った。
「先輩は、どうしてこんなことを」
問いかける栃本の声は震えている。
「知っちゃったから、やっちゃった」
瑠璃は先ほどの表情を取り繕うように、にっこりとはにかんだ。
「だって、これは禁断の知識だよ。使ってみたいって、思うじゃん」
瑠璃の手元に、一冊の本が現れる。外国の文字で書かれた表紙。それが、彼女を狂わせた元凶なんだろう。
「でもね、誠の記憶をイジってさ、私、気付いちゃったんだ。もう戻れないんだって」
瑠璃は本を抱きしめる。
「そうしたらさ、私、怖くなっちゃったんだ。もう、この世界にいたくないって」
瑠璃の目が潤み、涙が落ちる。
「だから、全てを捨てて、逃げてきたのに」
瑠璃の両腕から、本が落下した。
「ねぇ、誠。どんな気持ちで私を抱いてたの?」
嵯峨は答えない。
「浴衣着て花火大会に行ったじゃない。たくさん泊まったし、たくさん遠出だってしたでしょう? それなのに、誠は私を選ばなかった。あはは、私は都合の良い女だったのね」
涙を流しながら瑠璃は歪に笑った。嵯峨が、ゆっくりと口を開く。
「……ごめん。でも、そんなつもりは無かったよ」
「そういうこと本当に嫌い」
嵯峨の弁明を、瑠璃の鋭い声が切り捨てる。少しだけ怒りを露わにしたかと思えば、再び、彼女は笑みを浮かべた。
「あはは、ほんっっとうに腹立つ。あっははははっ」
瑠璃は笑いに耐えきれないかのように、身体を捩り、お腹を抱え、しゃがみこむ。
「ふっ、もう……うふふ、本当に、あははっ、こんなに嫌いなのに。なんで……どうして……」
瑠璃の笑い声が緩やかに収まる。彼女は音もなく、ゆらりと立ち上がった。
「どうして、こんなに愛しいんだろう」
瑠璃の涙。透明だったそれは薄赤に変わる。徐々に赤色と粘性が増してゆき、やがてそれは、完全な血液へと変わった。その姿は、アカシック・レコードを開いた刹那のようだ。
瑠璃は血液を流しながら晴れやかに笑った。
「さようなら、愛しい人」
瑠璃は後ろに飛んだ。まるでそこに奈落があったように、彼女はどこかへ落ちてゆく。
「瑠璃!」
嵯峨が瑠璃を追おうとする。刹那が立ちはだかり、僕は嵯峨の腕を掴んだ。
「嵯峨さん! それ以上の深追いは危険です!」
「だって瑠璃が!」
「やめたまえ! 瑠璃はソレを選んだ! 君に止められるものではない!」
嵯峨は僕の手をふりほどこうともがく。僕がこの手を離せば、刹那にも被害が及ぶだろう。それだけは、絶対に、嫌だった。
ゆっくりと、嵯峨の動きが収まる。彼が落ち着いたのを確認し、僕は彼の腕を離した。刹那は全員の無事を確認し、瑠璃の落とした本を拾い上げる。
「……じゃあ、帰ろうか」
「どうしてそんなに冷静なんですか」
嵯峨が刹那に詰め寄る。僕は刹那を守れるように、嵯峨の前に立った。
「今回の原因は君だ。君が彼女の好意をハッキリと拒絶すれば、こんな結末は避けられた」
「この……っ」
嵯峨が大きく腕を振り上げる。僕は咄嗟に刹那を抱き寄せた。しかし、いつまで経っても拳はやってこない。
「少年、大丈夫だよ」
刹那の声に、僕は嵯峨の方を見た。僕が刹那にしているように、茜が嵯峨を抱きしめていた。
「誠さん、もう帰りましょう。まずは、帰りましょう、日常へ」
その様子を見て、僕は刹那から離れる。
「栃本ちゃんの言うとおりです。帰りましょう」
そう嵯峨に声をかけると、彼はゆっくりと門へ歩き出した。栃本は、彼の手をしっかりと握って共に歩く。
刹那は、そんな二人を見向きもせず、瑠璃の消えた方向をただ見つめていた。
「刹那さん」
声をかけると、彼女はこちらを見た。その瞳はうるんでいる。
「もう一度、抱きしめましょうか?」
「いらん、帰るぞ」
刹那は乱暴に目元を拭い歩き出す。僕も並んで歩き出した。
こうして僕らは、日常に戻ってゆく。
〈6〉
謎の出血はあったものの、女性は無事に退院となった。
あの事故から続いた僕のお見舞いも、今日で最終日となる。
「そういえば少年。非常に今更だが、自己紹介をしてなかったね」
彼女はふふっ、と微笑んだ。
「私の名前は東雲刹那、探偵をしているよ」
「僕は相生繋。高校生です」
彼女は不思議そうに首を傾げる。
「ケイ? 漢字は?」
「繋ぐ、って書きます」
彼女は何かひらめいたように表情を明るくした。
「なるほど。良い名前じゃないか」
そう言って枕元のポーチを引っ張り、中から名刺を取り出した。
「もし、機会があれば来ると良い」
その後、僕は事務所近くの大学に合格し、彼女の元でバイトをすることになった。
でもそれは、また別のお話。
*
栃本たちを見送った後、刹那は僕に合い鍵を託して倒れた。いつものことで、僕はそう驚かない。
アカシック・レコードを開くと、彼女は数日間寝てしまう。傷ついた身体を治そうとする本能的な行動らしい。
その間僕は、刹那がいつ目覚めてもいいようにご飯の用意や掃除を済ます。一応たまに、お手洗いや水分補給などで起きてはいたが、覚醒とは言えないほどぼんやりしていた。彼女が覚醒したのは倒れから二日後のことだ。
それからさらに二日後、栃本が事務所にやってきた。どうやら報告があるらしい。彼女を通し、ソファーに座らせると、彼女は早速口を開く。
「誠さんと別れたんです」
定位置に座る刹那が大きなリアクションを見せた。
「別れたのかい!? あんな馬鹿みたいに優男、もっと限界まで搾り尽くしてから捨てればいいじゃないか」
「刹那さん、それは言い過ぎです」
「うるさい少年。あんな男、女に殺されればいいのさ」
刹那の暴言に僕は頭を抱える。それを見る栃本も苦笑していた。
「怖くなっちゃったんです」
「怖い?」
僕が聞き返すと栃本は頷いた。
「誠さんを見てると、先輩を思い出しちゃって……」
「別にいいじゃないか、彼女はもう死んだんだ。それは死者に手向ける感情じゃないよ」
刹那の言葉に、栃本は首を横に振って否定する。
「ああなった瑠璃先輩にも、誠さんはいつも通りでした。先輩が飛んだときも、誠さんは本気で救おうとしてた。それが、薄気味悪かったんです」
栃本は、膝の上に乗せた両手をギュッと握る。
「多分、私が狂っても、誠さんは愛してくれるでしょう。でも、私はあそこまで狂いたくない」
刹那は温かいまなざしで、怯える彼女を見つめた。
「狂人は狂人同士で、と言いたいのかい?」
栃本は無言で首肯する。それを見て、刹那は悲しそうに微笑んだ。
「瑠璃は狂ってなんかないさ」
刹那はデスクの上に置いてあった一冊の本を手に取った。門の向こうで拾った、あの本だ。
「あの男に誑かされなければ、瑠璃はこの本を手に取らなかっただろう」
刹那はページをパラパラとめくる。そこには難しい言語で何かが綴られていた。
「そうすれば、世界の真理を知らずに済んだのに」
優しく本を閉じ、刹那はそれを膝の上に置いた。
「この本を読み解いたのは狂気じゃないよ、愛情だ」
刹那は膝上の本に視線を落とす。本へ少しだけ微笑み、ゆっくりと目を閉じた。
「もっとも、彼を好きなまま、他の誰かを愛することができたら幸せだったろうに」
そのまま刹那は動かなくなる。すぅすぅと小さな寝息が聞こえてきた。
「あ、寝た」
「え、なんで?」
栃本が目を白黒させる。
「疲れすぎたんだよ。僕がベッドに連れてくから、先に帰ってて」
栃本を追い出してから、刹那の義足を外してお姫様だっこをする。あまり他人に、この光景を見せたくはなかった。ベッドに彼女を優しく寝かすと、ぼんやりと目を開ける。
「すみません、起こしましたか?」
「いや……充分に寝たつもりだったんだがな……重かったろう?」
「いえ全然ですよ。義足持ってきますね」
義足を持って戻ると、刹那は鍵を握っていた。僕が返却した、ここの合い鍵だ。
「それ、君にあげるよ。好きなときに、好きなだけここに来るといい」
そう言って鍵を手渡される。女性の部屋の合い鍵をもらうなんて初めてだった。
「僕、男子だってわかってますよね?」
「でも変なことはしないだろう?」
眠たそうな顔で刹那は言う。僕は、この人には勝てないなと、思った。
外に出ると、栃本が僕を待っていた。
「先に帰ってて良かったのに」
栃本は唇を尖らせる。
「こんな気分なのに独りで帰りたくないですよ。駅まで送ってください」
仕方なく僕は、栃本と共に歩き出す。僕らはお互いに何も言わなかった。改札が見え、このまま解散だろう、そう思っていた矢先、彼女は立ち止まり口を開く。
「相生先輩、私と付き合いませんか?」
真剣な声音だ。思考が止まる。脳裏をよぎる人物と、抱いた感情に、僕は激しく動揺した。だが、沈黙に堪えきれないと言いたげに、栃本は思いっきり吹き出した。
「冗談ですよ。先輩、本気にしたんですか? 動揺しすぎです」
栃本は明るい声でクスクスと笑う。
「だって相生先輩は、刹那さんが好きじゃないですか」
今度こそ本気で完全に思考が止まった。
「ちょ、ちょっと、そんな、つもりはっ」
「え、無自覚ですか。先輩ちょっと誠さん並に罪深い男ですね」
あはは、と笑いながら栃本は改札に向かって駆ける。改札を抜け、くるりとこちらを振り返る。
「進展、楽しみにしてますねー!」
人の少ない改札で良かった。人混みであんなこと言われたらひとたまりもない。栃本はホームへと消えた。
強く吹いた木枯らしが、地面の枯れ葉を巻き上げる。
一人の友人の死に気付かぬまま、世界は変わりなく回っていた。
終