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日記から日記へ
日記を書こうと久しぶりに思ったのは、最近知り合いからすすめられた、違国日記という漫画を読んだからです。
東京で、自身のプロレス団体のミーティングを終えた帰り道、
電車を待つ時間にふらっと入った書店で買ってみたら、まあ面白い。
作中、主人公が日記を描いているのを見て、
電車に揺られる約2時間半、1巻を何度も読み返しながら最寄り駅に着き、
家までの徒歩30分、
綺麗な星空を見ながら、
「嗚呼、、、日記を、書こう。」
と染々思ったものでございます。
嗚呼、私は日記を書くためにこの世に生を受けたのだ。
日々に散りばめられた些末な所作や機微を救い上げ、記し、
いつか読み返した時に、大胆かつ繊細な、私自身にのみの感動として、物語となって画面をスワイプする度に押し寄せてくる。
その感動に対して、私は温かい珈琲でも飲みながら、なんとなしに微笑んだりしながら、息子を眺める気持ちで持って対峙する。
そんな風情あるシャレオツな未来が目に見えるよう。
嗚呼目に見えるよう。
そこから数日経ちまして、
実際にnoteを更新していくと、
その時の日記を描こうという心持ちを、ある程度距離をとって、シャレオツなんて世代的に馴染みない使いつつ言葉を茶化せるくらいにはなるわけで、
実際あの夜、確かに書きたいと思っていた内容はもう記憶から薄れてしまい、
なにか光る点のようなものが夜空を通過し「あれ?UFOじゃね?ついに見たんじゃね?」と、霊感等含めたミステリー的遭遇率皆無の己を無理やり奮い立たせたことぐらいしか覚えておらず、
「物語は熱いうちにというか覚えてるうちに打て」
という、それらしき格言らしき文字を並べるに至った、のが本日の日記でございました。
実際、何かにのめり込むには、その熱を継続させられている時間の中で打ち込まないと、
そのうち、全てを自分の人生の物語に繋げようとすることへの、抵抗感が顔を出してきて、
温度や距離がよくもわるくも変化してきてしまうので、
今の自分がやりたいこと、やっていることが幾つかあるとして、
各々への温度と距離感を考えることが多くなった。
無理やり薪をくべて火を巻き上げて、温度を上げよう距離を詰めようとすることは、なくなっているように感じる。
物語にのめり込むことも、そこから離れることも、どちらに対しても、今いち寄り添い切れない自分がここ数年あり、
ただそれこそ、ふと振り返ってみた時に「俳優として」「プロレスラーとして」とか「立ち上がる」とか、あげきれない細かいことも含めて、
自分はこういうもので、このような肩書きで、こういう物語を描きたい、
よく聞くところの、何者かになりたい、というようなことは、気づかぬうちに散々やってきている気はする。
その中で生まれてきた、違和感や嫌悪感のようなものへ向き合うことは、ふわふわと言葉にしながらも、殆どやってきていなかった気がするので、
今の自分はそちらに興味があるみたいです。
趣味である絵や、最近通ってみた舞踏の稽古や、そのあたりに、今の自分に響く言葉や経験が、ポロポロとあった。
ので、そのポロポロとしたなにかを、じんわりと見つめてみます。
ここまで書きすすめてみたものの、
違国日記を読んだ日に書きたいと思った内容は毛ほども思い出せない。
ただ、数年前に出会った、実人生で日記を書くことを推奨してくれた方のことは思い出した。
初めてカウンセリングに言った時。
口ひげ蓄えた眼鏡のご年配の先生で、
やたらと優しい口調で、
「日記を書くがよいでしょう」
「がよい」て。
「がよい」て。
その時の出会いが、noteに残っていました。書き残しとくもんですね。
https://note.com/murocodile/n/n3a8cbd23c9dc
昔の自分の文章を読んで、あれ、ちょっとは面白い日記書くなと、にまっと口許がゆるんでしまった。
ホット珈琲&息子のような優しい理想とした微笑みとはまあ真逆の我欲的笑い。
同じ笑いでも、まるで「違国」の人間のよう、ですね。
うまいこと言ったぞ。
うまいこと、言ったぞ。
おやすみなさい。