侍の精神の中に勇ましさの極まりがある。
その極まりは一切の不純物のない純粋な意志である。同じような意志が日本刀にもあり、もしかすると、刀の方がその意志が強いのかもしれない。
勇ましさを純粋な意志まで極める、
これを技と言ってもいいし、あるいは素質、更に大きくいえば直観力とも言える。
そして、侍と刀の持つこのような意志は、
日本という風土にしかないかもしれない。
不純物の一切混ざらない意志、
これは純粋な意識とも言える。その意識に入らないと分からない潔さ、楽しさ、広大さがあり、ほとんどの侍はこのような意識の中で生きていたのだと思う。
侍の字には仕えるという意味があり、貴族に仕えていた特定の人たちを侍と呼んでおり、歴史の中では身分も高かった。信頼され、大事なことを任される存在故に、忠誠心を筆頭に様々な能力が求められただろう。侍にも元々そのような素質が備わっていたと思われる。
しかし、その忠誠心は主だけに向いていた訳ではないように思う。仕えるのは、皇族や将軍などの国や地域を代表する人々であり、同時にその土地との関係も強かっただろうことが推察される。侍の主人への忠誠心の背景には国や地域があり、その忠誠心は国、地域へのものであったと言っても過言でない。別の言い方をすれば、それを郷土心だと言えるかもしれない。もう少し広くとらえると、郷土心はその地域の土地と自然と繋がっており、これらのことから侍の「命」との繋がりも容易に想像できる。
そのため、
侍の精神の根底には、八百万の神が源流としてあるのが感じられる。
しかし、後に日本に入ってくる儒教の枠にはめられて、郷土、自然への心が、ただ仁、義のような言葉だけの精神になってしまったと思われる。
八百万の神が源流にあるのなら、純粋な意識が生まれ、それが必然的に揺れない忠誠心を生んでいく。故に侍の忠誠心は郷土、自然への忠誠であり、それが命への忠誠でもある。
しかし、
侍というものへの本当の理解が、日本の近代歴史の評価の中で見落とされてきたように思えてならない。さらに、侍というとあまり良い印象を持たない日本人すらおり、これはとても残念なことだ。
侍の精神がどのような形で発揮されるかは、その時代の社会の仕組みによって大きく変わる。侍の土地、自然、命への忠誠を柔らかくいえば、自分への忠誠になる。この自分への誠実さが多くの心理または精神的な問題を解決する有効な方法の一つであり、現代人の幸せを左右する根本的な要因となっている。そして、一切の不純物のないその純粋な意志が、すべてを生き返らせる力でもあり、この偉大な力は日出ずる国の精神の真髄だと言えよう。
侍と刀の意志は日本の大事な伝統であり、個人の心にも、社会の仕組みにも根本的な影響を与える智慧である。