八百万の神
八百万の神、
出会った時からこの言葉が好きだった。
この読み方もとても心地よく聴こえてくるのだ。
日本での生活の中で、大事なことを考えたり思ったことをまとめる時に、この言葉が度々出てくる。これは意識的に思い出すのではなく、自然に出てくるもので、それは今でも変わることなく私の心の中にある。そして、もっと大切だと思うことは、当時ただ好きだった言葉から、今は感覚が伴う存在となっていることだ。
八百万、
これは実際の数字を表したものではなく、限りなく多い、無数の存在を指している。
八百万の神、
この言葉は、現代の人には全てのものに神が宿っているという昔の人々の考え方であり、言葉自体が単なる形容詞に過ぎないかもしれない。
しかし、
少なくともこの言葉が作られた当時、そしてその後暫くの間、これが単なる考え方や形容詞ではなく、人々は実際に万物と意識の交流が行われていたのではないかと私は感じるのだ。
万物に意識があり、意識があるからこそ万物が存在する。
昔の日本人は、生活の中でその存在を感じ、実際にこの意識と交流して、自然と畏敬の念が生まれていたし、八百万の神という言葉が作られたと思う。そして、これらは特別で神秘的なことではなく、日常的に行われていた交流だったと思う。人間の本質も神であるから、交流できるのは、当然のことであるが。
このことが私の中ではっきりとしてきたのは、大学時代に日本の地方へ行き始め、その地域の自然を感じ、おじいちゃん、おばあちゃんと交流してからである。その頃は哲学者である内山節先生の著作を読んでいた。
しかし、今までこの言葉を100%表現して、生きている日本人とは1人も会ったことがない。それは、私も同じくできてないからであると思う。
とはいえ、
私にとって、純粋に好きだった言葉から、今は思うだけで命の輝きを感じられて、敢えて表現するのであれば、そこに希望というか、自信というか、一つの満たされた感覚がある。
もちろん、私の直観力がもっと上がれば、すべてのものと意識の交流ができて、万物と一体になれて、そこに幸せが溢れるのだろうと思う。学問的にいえば、ここに哲学的な、教育的な、科学的な全てのものが含まれていると言える。
残念ながら、
今の教育システムを見渡しても、更に社会の仕組み、人々の生活スタイルを見渡しても、八百万の神の息吹が薄い。
豊かで、広大な自然を持つ日本、そこに八百万の神が点在する。しかし、今ではほとんどの人が自然との交流がなくなり、きっと寂しがっているだろう。
実際、本当に寂しがっていたのだ。
初めて訪れた上高地でのある体験によってこのことを知った。それがあったからこそ、今これを書いているかもしれない。
数年前に、修験道の復活の兆候が現れているという話を聞いた。私から見れば、修験道は大地の脈であり、それはきっと人々を自然と繋げてくれるだろう。
神々の寂しさが解決されるだけではなく、
八百万の神、
この言葉は智慧であり、そこに社会変革の紐解きとなるヒントも隠されている。
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