鈴木美江子句集『山あげの街』
句集の題名にもなっている「山あげ祭」について、句集の巻頭口絵に掲載されているもののうち、著者の句が添えられている写真を紹介する。
次のQRコードで、「山あげ祭」のことが紹介されているページを開くようになっている。
巻末に収録された著者のエッセイを以下に紹介する。
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エッセイ 鳥山の山あげ祭「山あげを季語に」
那須烏山市山あげ俳句全国大会実行委員会委員長
鈴木美江子
五十年程前にこの町のはずれへ嫁いで来た。
那須岳を源流とする那珂川に沿った、古い歴史のある城下町である。二人の子供が幼児期になったころから毎年、山あげ祭の参詣と見物に出かけていた。
山あげ祭は毎年七月の最終金・土・日の三日間行われる。真夏の炎天下、演じる踊り子たちは汗にまみれながらも美しい衣装を纏って真剣に演技をする。
舞台右手の常磐津の太夫席からは二丁三枚(三味線二人、常磐津語り三人)と言われる力強い響きが流れる。舞台背景に山と呼ばれる作りものの背景が高く大きく遠近に配されている。強く心惹かれた。
しばらくして、市の観光協会のボランティアの仲間に入った。そこで町の歴史、祭の歴史、市内の寺社にまつわる由緒のある沢山の事柄を知った。
時は戦国時代(一五六〇年・永禄三年、烏山城主那須家七代目資胤の時代に疫病退散、五穀豊穣を願って勧進した神社の祭で、延々と受け継がれたのである。時代と共に変遷もあるが、途絶えることは無かった。始めの頃は神楽、相撲などが奉納されたが、後に所作狂言、奴踊りに移りやがて江戸で流行の常磐津に載り、舞踊と共に台詞の入る「将門」や「戻り橋」「忠信」等が演じられるようになった。商人を中心とした財力と江戸との交易が、先進的な祭文化を発展させて、当初は一座を買うという事であったが後には町中のいわゆるいいとこの娘さんが踊りを習い舞台に上がる事になって行った。町中の人は祭の三日間は家業を休み赤飯を炊き親類を呼び楽しんだ。また近郷の人々も農作業を休んで参詣にやってきた。
山を揚げるようになり、移動して演じられるようになったのは一七〇七年
(宝永四年)の頃よりで、六町輪番制で行われている。特産の和紙と竹で「けりか山」を作り、それへ絵を塗り、きりかえしという仕掛けで変化を見せる。
前山、中山、大山(高さ十メートル・幅八メートル)を背景として若衆たちにより忽ち舞台が作られる。終わるとまた別の町内へ移動、日に五回から六回を三日間、通算十五回は開演する。夜の舞台も妖艶で美しい。
山あげ祭は昭和五十四年に国の重要無形民俗文化財に指定された。その主なる採用の要点は祭の行事を施行する宮座組織にあるとされている。そして宮座組織の一部である山あげ祭の主役、若衆団、この見事な働き振りには目が離せない。平成二十八年には「烏山の山あげ行事」として全国の「山・鉾・屋台行事」とともにユネスコ無形文化遺産に登録された。
私が、この地域に六十年も続いた俳句の結社「こだち」(令和三年三月号で終刊)に仲間入りしたのと、ほぼ同時期に黒田杏子先生の「藍生」に参じたのもこの頃であった。「こだち」の最後の代表であった最東峰先生は、地域の俳人たちと共に、この町にゆかりの江戸時代の俳人であり、蕪村の師である、早野巴人に因み「早野巴人顕彰全国俳句大会」を平成元年より十五回開催した。
平畑静塔先生、黒田杏子先生は当時の選者であられた。静塔先生は「山あげ」が季語になるといいね、と再三言われたとの事などを繰り返し最東峰先生方ら伺っている。またユネスコに登録されたのを記念して「山あげ俳句全国大会」が二回開催され、「山あげ」を季語として定着させたいと実行委員会が結成された。この二回とも黒田杏子先生が代表選者であられた。また以前山あげ祭をご高覧の際、「山あげ祭十五句」を藍生誌上に載せられている。
計らずも『運河』誌令和四年六月号に岡田幸子氏が「平畑静塔と栃木 その六」において実に細やかに「烏山の山あげ祭」と題して描かれている。また、宇都宮市在住の「運河」同人の五十嵐藤重氏の句集『山揚げ』は茨木和生先生の跋文を受けて「山揚げ」を豊かに詠まれている。
(後略)
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こうして、鈴木美江子氏は「山あげ祭」の季語化運動に情熱を傾けられている最中である。
以下、句集から、わたしが好きな句を抜粋して紹介する。
Ⅰ 山あげの街
ほととぎす今朝の出御(しゅつぎょ)を高らかに
※出御…八雲神社から大神様をお神輿に移し移動すること
山あげや銀行マンも若衆入り
木頭(きがしら)の涼しき柝音(きおと)山揚がる
※木頭…若衆達に指示を出す役柄
山あげや神主さまは小児科医
山あげやブンヌキに舞ふよろづ神
※ブンヌキ…各町の屋台が集まって行われるお囃子の競演
山あげのブンヌキに骨共鳴す
八十路にも祭の魔法かかりけり
山あげの街に埋もるる悲話ひとつ
山あげの街水清し山清し
嫁ぎ来て山あげの町昼うどん
山あげや黒の羽織に惑ひなし
山あげや魚屋おかみお世話好き
山あげを英語で語る髪ゆたか
山あげや神の依代笹高し
山あげや金棒曳(かなぼうひき)は五歩区切り
※金棒曳…大屋台を引く大人達の先頭を切って歩く子供の役柄。
悪霊を払うため、金棒で五歩毎に地面を叩きながら進む。
御簾するする上り常磐津連(ときわづれん)涼し
※常盤津連…舞台の脇の位置から三味線や歌を披露する方々
山あげや病院長は常磐津師
山あげや胴上げに闇深々と
山あげの果てて街中風白し
山あげや那珂川(なか)より風の贈りもの
祭果て手紙書くねと別れけり
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この章を通読すると、熟達の詠法で的確な描写とクローズアップで、祭の一日を共に過ごした気持になる。こうして抄録しただけでも、それは充分伝わったのではないだろうか。
以下の章は鈴木美江子氏の日常詠の記録である。
特にわたしが好きな句を抄録して紹介する。
Ⅱ 花ざくろ
初詣男体山に真向ひて
春耕やまじなひ程に苦土石灰
たちまちに山太りけり昭和の日
一歩づつ光の方へ卒業子
干しあげて大小の鍋五月晴
命日の万灯となる花ざくろ
秋灯やピアニカの音のちとはづれ
秋灯小さき古裂(こぎれ)の息づかひ
くるくると廻る地球や芋煮会
両の手に杵搗餅の光享く
Ⅲ 雛の間
うぐひすやもの食みながらもの想ひ
この雛贈られし子も恋のとき
花筵ここを浄土と定めけり
初採の胡瓜天下を取る心地
風の盆八尾いづくも水の音
地の神へ天の神へと風の盆
霧のぼる山に呼吸を合せけり
おやつとはやさしきことば木の実降る
禱りつつ種より育て盆の供花
打払ふことなにもなし鬼やらひ
Ⅳ 夜間飛行
外飼ひの猫一匹の余寒かな
下萌や鳶から届く光の輪
住み古りて築百年の余寒かな
二歳の子けふ兄となるしやぼん玉
新じやがを濯ぐ水の輪水の影
実梅捥ぐ真青のしづく浴びながら
ただ黙し新緑に身を溶かしゆく
風薫る子の一歳の一升餅
まみゆれば嬰(こ)はまろき鼻菊日和
いざ秋を迎へに小さき握飯
おすそ分けですと朝露分けて来る
炊き上げて縄文の香や零余子飯(むかごめし)
夫の忌やかつて塩鮭鹹(から)かりし
お見舞と木の葉を置きて子の去りぬ
晦日蕎麦打つに禊(みそぎ)の朝の風呂
おしるこに焼餅ひとつ夫若し
悼・黒田杏子先生 三句
鈴の音の遠ざかりゆく花吹雪
子を持つも持たぬも幸と花朧
山あげの願ひ聴き入れ賜りし
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俳句の調べが清冽で、敬虔な祈りのような、また自然と人と命への慈愛と感謝に満ちた句ばかりで、読んでいてこちらまで気持ちが穏やかで涼やかに鎮まってくるのを感じる。
もうこう評しただけで充分ではないか。
読者も同じ思いを持たれたはずだから、一句一句の鑑賞は読者に委ねよう。
最後の黒田杏子への悼句にうち、次の句、
子を持つも持たぬも幸と花朧
この句については、高田正子氏編による『黒田杏子俳句コレクション3 雛』の評文で、この主題に因んだ感想を、拙ブログで書いたことがあるので、興味のある方は、是非そちらも読んでいただけたら幸いです。
ブログアドレス
https://note.com/muratatu/n/n8b827a0bd0fb
『黒田杏子 俳句コレクション3 雛』 髙田正子編著|武良竜彦(むらたつひこ) (note.com)