太田土男著『大野林火―俳句鑑賞ノートー』
太田土男著『大野林火―俳句鑑賞ノートー』
「草笛」代表、「百鳥」同人で、永年、大野林火に師事してきた太田土男氏による林火俳句の鑑賞ノートが上梓された。
四章立てになっていて、
大野林火の百十句
大野林火のみちのく
俳句の場(講演録)
あとがき
が収録されている。
農水省の研究機関で草地生態学を専攻されてきた太田土男氏の、ライフワークだと思われる『季語深耕 田んぼの科学』を二〇二二年に上梓されたばかりだが、本書も太田氏にとっては、師事した大野林火俳句を論じるという、もう一つのライフワークであったに違いない。
「大野林火の百十句」の章は、単なる一句一句の鑑賞ではなく、その句が成立した経緯が考察、詳述されている。
林火自身の境涯から、子弟たちの動向などのエピソードが添えられていて、時空の広がりとリアリティのある鑑賞文になっていて興味深い。
もっとも大切なのは、大野林火の為人(ひととなり)も併せて、彼の俳句観も深く理解できる記述になっていることである。
そういう意味でも、林火俳句ファンには座右の書となるに違いない。
林火俳句として著名な作品に添えた、太田土男氏独自の視座による鑑賞文が味わい深い。
その一端を以下に摘録して紹介する。
※
征く人に一夜の宴の螢籠 早桃 昭和15年
(略)日中戦争は長引き、昭和十六年十二月真珠湾攻撃に始まって太平洋戦争に突入してゆく。『早桃』には講義もままならず、学徒動員の軍需工場で生徒たちと夜勤する姿などが詠まれている。この句、よくあった万歳をして華々しく出征を送り出すようには詠まれていない。誰もが口には出せなかった心情が惻々として伝わる。螢籠がぽつんと置かれ、それがすべてを語っている。
あをあをと空を残して蝶別れ 早桃 昭和16年
蝶二頭、もつれ合い、絡み合いながら空の高みに上がってゆく。その瞬間、二つに分かれ、青空ばかりが鮮やかに拡がる。ダイナミックで息をつかせぬ一瞬が切り取られている。蝶が視点から消えた瞬間のはっとしたおどろき、「あをあを」が心象的だ。兄事した飛鳥田孋無公の「詩はおどろきだ」という言葉が甦ってくる。
林火といえば耽美的傾向を指摘する人が多い。自身、この句に関してそのことを諾っている。その上で、中学時代に鈴木三重吉の小説に心酔したことなどを語っている。
耕せば土に初蝶きてとまる 冬雁 昭和22年
(略)私には限りなく拡がる荒起こしされた大海原のごとき大地を渡っている蝶のように見える。初蝶であることが初々しいが、だからこそその生命力に感動する。私たちは時にいろいろの苦しさに出会うが、小さな自然の発止としたいのちに癒され、励まされる時がある。私はこの句をそんなふうに読んで力を貰っている。
寒林の一樹といへど重ならず 青水輪 昭和25年
弘明寺の裏山の雑木林である。林火の散歩コースは三、四通りあった。尾根伝いになっており、港が見えたり、眼下に田んぼが拡がっていたりした。「雷雲を待つや野茨のしづけさに」もこのコースの取材である。田んぼがあったというから、雑木林は落葉掻きのために、下草が刈られよく管理されていたのであろう。だから一本一本が際立つのである。しかし、「一樹といへど重ならず」はなかなかいえない。ここには凝視の強さがある。発見がある。しかも寒林である。寒林のからりと乾いた密度が詠み取られている。
昏くおどろや雪は何尺積めば足る 白幡南町 昭和31年
草津楽泉園の患者たちの合同句集『火山翳(ひやまかげ)』の出版記念会に足を運んだ。昭和二十五年に句会指導の依頼を受けて、翌二十六年以降、毎年訪うている。村越化石は昭和二十四年に「濱」に入会しているが、はじめは患者であることを明かしていなかった。「昏くおどろ」は、真っ暗な天から限りなく降る雪の恐ろしさだ。「何尺積めば足る」、肉親と離れてこの地に耐えている人たちの気持ちに寄り添って問いかけている。「除夜の湯に肌触れ合へりし生くるべし 化石」、林火の励ましに応えるように楽泉園の患者たちは励んだ。
雪消えて三百町歩天にちかく 白幡南町 昭和31年
草津の近く、仙の入開拓地である。戦後、食糧難から緊急開拓といって、各地で入植、開拓事業が進められた。その一つであろう。「あたたかく牛にわが影あてて撫づ」などがあり、三百町歩は牧草地と読んでおく。起伏し、うねる大地であり、その前に立てば圧倒される。林火は、このような景を「毛穴がひらく」といわれた。「天にちかく」の措辞もいい。その果てには、まだ冷たい真っ青な空があったはずある。後に再訪し、「厩までユウスゲの黄のとびとびに」(『雪華』所収)などを得ている。(略)
百千鳥柩の汝を運ぶ土 雪華 昭和38年
「三月十八日払暁、目迫秩父喀血死」の前書きがある。秩父には現代俳句賞を受けた『雪無限』がある。「狂へるは世かはたわれか雪無限」がその一句である。「濱」創刊に参加し、以来最も身近にいた。しかし、結核を発病し、貧困のどん底にあった。その中で、作句意欲は旺盛で、病を押して俳句を作り、林火に送った。文字通り身を削っての俳句だった。林火は、心の何処かでその俳句を待ちながら、いたたまれず「もうよい、句に疾せず、ただ安静にしろ」(文献四)と書き送っている。ここに師弟の凄まじいばかりのいのちの交流を見る。(武良注 「文献四」とは昭和五四年、明治書院刊の『行雲流水』のこと)
種蒔けば天をかぎりの夕焼ぞ 雪華 昭和39年
最近では想像できないが、林火の白幡南町から少し足を延ばした辺りだという。北海道といわれてもいぶかしいところはない。大きい。種子を蒔く人がいて、それをシルエットにして夕焼が迫る。そんな構図に読める。一粒の種子は時に万倍にもなるが、農は自然に委ねることも多く、約束されているわけではない。祈りの部分が多分にある。しかし、どこやら自然を信じ切っているところがこの句にはある。翌年飛騨にゆき、「夕焼はよその国雪籠る」と詠んでいる。夕焼にはどこか憧れのようなものがある。
未来ひとつひとつに餅は焼け膨れけり 潺潺集 昭和41年
火鉢に五徳を置いて餅網を敷き餅を焼く。今では見られないが、返したり、位置を変えたり、それを林火がやっていることを想像すると楽しい。餅は同じようには焼けない。遅速もある。そこで口を衝いてでたのが「未来ひとつひとつに」である。ぷっくりと膨れた餅に林火の未来を見たような気がしたのだ。林火六十二歳、「残された歳月は短いに違いないが、それでも未来は未来だ。十年、十五年、二十年―いずれにしてもそれは私自身埋めねばならぬ歳月だ」(文献二)と書く。いま思うと二十年は叶わなかった。それが哀しい。(武良註 「文献二」とは昭和四三年白鳳社刊の自選自解『大野林火句集』のこと)
年いよよ水のごとくに迎ふかな 潺潺集 昭和42年
新年句会に投じている。「強いて老いに背くつもりはないが、簡単に老いに身を任せたくない」と書いている。それが「水のごとくに」である。あるがままに、平常心で、ということであろう。この年だけでも「眉に白きを交へ秋といふ」「鴨群るるさみしき鴨をまた加へ」「日向ぼこ死が近く見え遠く遣り」などと老境を詠んでいる。諾っているともとれる。林火の老いの自覚は句行に深みをみたらしてゆく導線のようなところがある。この年、「執して、離れて、遊ぶ」(文献一、卷七)という講演をしている。「遊ぶ」という境地に入ったかに見える。(武良註 「文献一」とは平成六年梅里書房刊の『大野林火全集』第八巻のこと)
雪の底年代記即凶作史 飛花集 昭和47年
二月、横手のかまくら、湯沢の犬っこ祭を見て湯田に入っている。「雪国の夜のために炉は残りたる」は横手で得ている。掲句には「岩手湯田」前書きがある。この辺りは、奥羽山系の中でも有数の豪雪地帯である。歴史を遡れば繰り返し凶作、飢饉に見舞われている。ある時、庄屋の娘よねを差しだし、年貢米減免の身代わりにしたという、民謡、正調沢内甚句はそのことを歌っている。厳しい土地である。『沢内年代記』(太田祖電)に詳しい。この地には山崎和賀流がいたから彼からこの著書を貰ったのかも知れない。
桜濃し死のごと曇る沢内村 方円集 昭和49年
「北鈴」十五周年記念大会のため八戸に行き、その帰路、山崎和賀流を弔うため、盛岡から沢内村を経て湯田(現西和賀町)に入った。山崎和賀流は前年「奥羽山系」で角川賞を受賞するが、この年三月に脳溢血で急逝した。享年三十五歳であった。「奥羽山系襞の深雪を終の地に」はその一句である。「死のごと曇る」に和賀流を訪うこの時の林火の心境を重ねている。後に菅原多つを等の尽力で遺句集が編まれる。その序文で林火は「こでからの歳月を持って磨けば、どれだけかがやく珠玉になったことであろうか」と悔やんでいる。
僧のごと端坐すずしく盲化石 方円集 昭和49年
『山国抄』出版記念会の前書きがある。この句集は『獨眼』にづつく村越化石の第二句集である。この間、残る眼を病み、失明している。林火は序文に「私ども目の見える者が、眼の見えるが故に、目の見える限りに終始しているのに反し、見えない彼にわれわれの見えないものが見えるということである」と書く。化石の「松虫草今生や師と吹かれゆく 化石」の一句を上げておく。「最後の癩者たらん覚悟」の化石への師の眼差しは優しい。『山国抄』は俳人協会賞に輝き、この句に因む第三集『端坐』は蛇笏賞を受賞することになる。
夕焼川あはれ尽くして流れけり 方円集 昭和52年
特定の川ではなく、読む人に委ねている。それで私もいいと思う。この年十月、日光で鍛錬会が行われた。当時、那須野に住んでいた私は車で参加した。林火は私に、鬼怒川の、それも夕焼がよく見えるところに連れてゆくように具体的に所望された。夏の季語故か、鍛錬会には示されなかったが、「濱」十二月号に載っている。あ、あの時の、と私は思った。恐らく林火の頭の中にはある程度のイメージがあり、現場に立って確認したのである。林火にはそうしたことが往往にある。「あはれ尽して」、現実を昇華し、仙境に入り込んだかのようだ。
いのち長きより全きをねがふ寒 月魄集 昭和54年
『方円集』を三月に上木する。そのあとがきの「新しい力も湧いた」という言葉通り、精力的だ。四月には「濱」四百号を発行し、こんなことを書いている。「俳句は〈私〉に発する心のうたという私の考えは変わらぬ。創刊以来、作品は幾変遷した。今後も変遷を重ねるだろう。一所にどとまることはないであろう。しかし、貫くものは心のうたであることを忘れてはならない」。「いのちまったき」とは、これを貫くことだ。句はぽつんと掉尾に「寒」と置く。思いを貫くのは厳しいけれど、しかしと、ここに決意を込めていると読める。
萩明り師のふところにゐるごとし 月魄集 昭和57年
順調に回復しているかに見えた病状も、俄に急変し、昭和五十七年八月二十一日午前四時半に静かな死を迎えられた。十七日早暁、辞世三句を松崎鉄之介に書き取らせた。
先師の萩盛りの頃やわが死ぬ日
残る露残る露西へいざなへり
萩明り師のふところにゐるごとし
萩は先師亞浪から株分けし、庭に植えてあった。
透徹して、安らかである。三句を上げて、後に言葉がない。
※
これだけ引いても堪能させられる句と鑑賞文であることがご理解いただけるだろう。
引かなかった箇所もこういう句と鑑賞文に満ちている。
本書の次の章は「林火のみちのく」で、特に林火の東北への深い想いの記述を軸に、その過程で、林火の俳句観、太田土男氏のその受け止め方が述べられていて興味深い。
この箇所は引用が躊躇われる。
知りたい方は是非、本書を購入して読まれることをお薦めするだけに留めることにする。
その一例だけを下記に摘録しておこう。
※
林火の講演に入る。
例えば薔薇の絵をみたときの褒め方として「ホンモノそっくり」という。もう一つ「ホンモノ顔負け」という褒め方もある。俳句がどちらを目指すかというと、文学は「ホンモノ顔負け」を目指すものだ。「ホンモノそっくり」は何かというと、それは写実であり、「ホンモノ顔負け」はホンモノにプラスアルファしたもの、これをリアリティ、真実性と言いたい。林火はここで「執して、離れて、遊ぶ」という言葉を提示する。「執することは、ホンモノそっくりということ。しかし、それからちょっと離れなさい。悠々と心を遊ばせなさい。いえばホンモノの上に遊べということですよ。ホンモノべったりにならぬように。私は、この遊ぶところがリアリティだと思う。アルファではないかと思う。遊ぶということは心を自由に動かすわけですよ。(略)
※
引いた以外のところでも、深い俳句観が記述されている。
本書、最後の章は「俳句の場」と題して、太田土男氏の講演内容が収録されている。
俳句には大切な次の三つの「場」がある、としている。
現場に立つ
自分の場に立つ
自分の土地に立つ
そして最後に次の一つが加わる。
季語の場に立つ
この「場」の概念は、実体験的な時空に支えられた「場」のことのようだ。
旧来の俳句論では、写生論に伴う客観性と主観性のせめぎ合いが俳句論として語られることが多いが、主体が拠って立つ「場」という概念の中に、俳句創作の主軸を置いた論考は独創的で、俳句を作る人が読んだら、それまで靄がかかったような気持ちでいたことが、すっきりと靄が晴れる気持ちになる、画期的な提言であろう。
表現主体を軸においた生の有り様を包括する視座であり、文学は人生の諸相を描くものであるという大原則を、具体的に論じている点が画期的な論考ではないだろうか。
また「俳句の次元」という項では、主体的にものごとを「観る」ことの、時空を孕み込んだ複合的な視座の有り様が解題されている。
なによりも大切なことは、俳句創作が実存的なリアリティを喪失した、言葉だけの操作による言語遊戯に陥らないようにすることだろう。
その核心を衝いた論考である。