俳句は生き方 ――竹内葉子句集『青』を巡って
私が「小熊座作品鑑賞」のページを担当していたとき、竹内葉子さんの次の三句に瞠目し、次のような鑑賞文を書かせていただいたことを覚えています。
天上はおだやかなるや竹降り来
この天地を繋ぐ垂直感。起点は頭上の竹の枝から。竹の秋の落ち葉が地上にはらはらと降り注ぎます。その根元に立つ人はゆっくり上空を見上げます。その視線が垂線を逆に辿り「天上」と突き抜けてゆき、死後の魂の平穏の祈りの造形と転じてゆく見事な自己表出的文学表現です。
鰯雲われの出自も大海ぞ
戦あるな家鴨水牛蝉しぐれ
「鰯雲」の句の命の源への眼差し。「戦あるな」の句の、具象に語らせる俳句独特の表現の勁さ。中七から下五に並列された生き物とその命の現象が等価なかけがえなさで浮かび上がります。そこから読者がそれぞれに思い浮かべる風景の重みが一変します。
この度、句集『青』を上梓された竹内さんの俳句を一挙に鑑賞しても、この三句の表現主題と方法が一貫していて、その深化発展に心を尽くされてきたのだなと、改めて感じました。句集には間に合わなかった近作でも、
水葬の水脈に副ひゆく水母かな
同じ「水」の字の異音読みという見事な技法で、命を見つめる竹内さんの主題が、具象に語らせる俳句的王道で表現されていましたし、
鉾立てや縄に残れる青の色
こんな、発見的眼差しに、繊細な慈しみの心を感じて敬服します。
一面の実り田の泥人の泥
自同律的な繰返しのリズムでくっきりと可視化され、並列される具象たちを等価のものとして見つめる眼差しから、主題の「命」が感受できて脱帽します。
竹内さんはすでに、完成した自分自身の表現主題と方法を身につけていらっしゃる方です。私などまだそれが出来ていないので、恥じ入るばかりです。
句集の中で印象に残った俳句を以下に上げておきます。
「落葉道」から
暗きより出されし雛の吐息かな
西瓜一つ提げる力のやゝ足らず
冬帝の去りゆく気配水の音
佐田川桜別れを言へば又散りて
散りてなほ妖しき花の行方かな
鵜舟去る闇の底より能囃子
「葦原」から
かたかごの花に風ある傾ぎかな
丈低きたんぽぽは黄を主張する
籠枕母ありし日と同じ風
「巣燕」から
残り菜の列に雪積む日となりぬ
繰上げの卒業ありき征きたりき
雛仕舞ふ平成の手を添へながら
あめんぼう尾瀬に生れて尾瀬育ち
冬囲い藁に残れる青き色
母の忌の朝顔紺を極めけり
「夏蚕」から
天上はおだやかなるや竹落葉
鰯雲われの出自も大海ぞ
メコンデルタ女船頭腕細し
戦あるな家鴨水牛蟬しぐれ
迷ひ込む道捕あり蓼の花
冬の蝶ここも戦のありし跡
私たちはどうして、このような竹内葉子俳句に惹きつけられるのでしょうか。その理由の一つに次のような俳句表現というものの根源的な力があるのではないでしょうか。
竹内葉子俳句には理屈や意味を語らず、俳句的韻律に貫かれた詠法で、発見的に切り取り描写された具象に「語らせる」技法と、万物を等しくかけがえのないものとして見つめる生命観を感じる「表現主題」に溢れています。
こう書けば、もう万人が得心するでしょう。
それこそが俳句表現の本質であるということを。
竹内さんは投稿を始められた時から、すでにその骨法を身につけていました。そのことに全面的な賛意と同時に、それがなかなかできるものではないという驚きを感じて、その句業に惹きつけられたのだと言えるでしょう。
あめんぼう尾瀬に生れて尾瀬育ち
例えばこんな俳句は竹内さんでないと読めない。でも俳句はこのように詠むものだという美しさを感じます。
この俳句を文章として読んだとき「意味」は通りますが、その「意味」の只中で立ち止まってみると、「何も言っていない」ということに気づかされます。つまり、この表現で使われた言葉の「意味」が表すことを伝えたいのではなく、竹内さんがただ指し示した具象「あめんぼう」の、その命のたたずまい、尾瀬で生まれて育って死ぬという命への慈愛の主題が、読者の心に「意味」としてではなく、直接響き渡るのです。こういう句が詠めるには、日々を丁寧に生きている人の精神が、そこに静かに定まっているからだと思います。俳句は詠み方ではなく生き方ですね。
まさに俳句はそんな竹内葉子さんのためにあるのです。