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太田土男著『松崎鉄之介―俳句鑑賞ノート―』について

                   百鳥叢書137 2023年10月15日刊

表紙

  太田土男氏が師事した二番目の師である松崎鉄之介の俳句鑑賞の書である。

 太田土男氏には一代目の師の俳句鑑賞の書がある。

それが『『大野林火―俳句鑑賞ノートー』で、わたしのブログでも紹介しているので、是非そちらも併読していただけたら幸いである。

 

太田土男著『大野林火―俳句鑑賞ノートー』|武良竜彦(むらたつひこ) (note.com)

https://note.com/muratatu/n/ndffe9bbc3d47

 

本書の「あとがき」で太田氏は次のように述べている。

     ※

― 私は先生が「濱」を継承して七〇〇号を過ぎてしばらくした頃に退会している。不肖の弟子だが、『大野林火 俳句鑑賞ノート』を書き進むうちに、鉄之介先生のことを書かなければ、という思いが募ってきた。

「松崎鉄之介の百十句」「松崎鉄之介の世界―実の人」は先生と精一杯向き合って書いたつもりである。先生のことはもっと多くの人に知ってほしい、書いて欲しい。そのきっかけになればという思いである。―

     ※

 第二章の章題「松崎鉄之介の世界―実の人」の「実の人」という言葉に、その人柄への敬愛が籠っているようだ。

 奇しくも俳句総合誌「俳句」の二〇二三年十二月号の、角谷昌子の連載記事「俳句の水脈・血脈」で、松崎鉄之介のことを取り上げ、その師系の位置づけ、作風、俳句会に多大な貢献をした実績など詳細に論じている。その最後に、その俳人の師弟の系列に当る現役の俳人へのインタビューで締めくくる構成になっている。

 そこに本書の著者である太田土男氏の、松崎鉄之介についての証言が掲載されている。

 さらに最近刊行された『林翔全句集』(コールサック社二〇二三年)に、松崎鉄之介が林翔の為人と俳句作品について、雑誌に寄稿した全文が掲載されていた。

 林翔、松崎鉄之介、この二人は人柄がよく似ているように感じた。

 相通じるものがあって、この評文を書いたように感じられて、とても興味深かった。

 是非、そちらも読んでいただきたい。

 松崎鉄之介の略歴。

一九一八年十二月十日生、没年二〇一四年八月二十二日、神奈川県出身。

横浜商業専門学校(現・横浜市立大学)卒。

在学中より俳句をはじめ、「馬酔木」に投句。

一九三九年、加藤楸邨の勧めに従って大野林火に師事し、「石楠」に入会。

一九四七年、復員後に林火の「濱」に同人として参加。

一九四九年、東京国税局に入局。

一九七〇年、退職し銀座で税理士事務所を経営する。

一九七一年、俳人協会設立に参加し理事を務め、俳句文学館建設にも寄与した。

一九八二年、林火の死去にともない「濱」主宰を継承。

同年、『信篤き国』により第二十二回俳人協会賞受賞

同年俳人協会会長に就任。

二〇〇三年、『長江』により第十八回詩歌文学館賞受賞。

 実務的な能力に長けた、実直な人柄であり、特に「俳人協会」に果たした業績は大いなるものがあるようだ。

 松崎鉄之介のような戦争を体験した世代の俳句は、その命に関わる過酷な体験が、その人生観、俳句観の背景になっていて、明確で大きな物語性があり、読者として理解と共感がし易い。

 今、俳句界は多様化して、各自が自分の世界で俳句を創作している。

 「大きな物語」を持たない後続世代の句は、この世代の作品に比べて、どうしても言葉が軽いように感じられてしまう。全員がそうだと言うつもりはないが。

 俳句の善し悪しのレベルの話ではなく、実存的な重みが欠落している傾向があるように感じられてしまうという感想を述べただけである。


本書では太田土男氏が選句し、一句ごとに鑑賞文を添えている。

その中のいくつかを抜粋して、以下に紹介する。


    

 

一人づつ死し二体づつ橇にて運ぶ       歩行者 昭和20年

 

 奉天で玉音を聞き、九月にはソビエトの捕虜になり、イルクーツク北方の収容所に入る。昭和二十二年「濱」七月号に掲載されている。復員して携えてきた二五○句を林火が選んで、「帰還」三十三句として発表した。命を懸けた句である。林火はどんな思いで選んだのだろう。

 捕虜生活は辛酸を極めた。自身もチフスに罹る。揚句、「一人」はまだ人間だが、「二体」は屍である。一切の感情を殺して事実だけを提示する。

     ☆

殺戮もて終へし青春鵙猛る          歩行者 昭和26年

 

 昭和十五年に入営、二十二年舞鶴帰還。つまり、二十二歳から二十九歳まで大陸にあったことになる。青春丸ごとである。しかも、転戦と抑留、生き死にの真っ只中に過ごしたのである。取り返しのつかないことへの怒りがこみ上げてくる。「美しかるべき二十代は何を得ることもなく過ぎてしまった」とは実感であろう。ひとまず平安を得たとは言え、時折抑留時が甦る。虜囚回想として「ノルマ終へず共に焚火にうづくまる」「かばねにかける乾草のみが凍てずあり」などとも詠んでいる。

     ☆

千曲寒風戦友がどの村々にも         鉄線 昭和40年

 

 この句碑は、千曲川市の善光寺に建てられている。北支派遣の戦友会が初めて信州上山田温泉で開かれた。以後幾度となく開かれている。そしてくり返し詠まれている。生死を共にした仲間たちである。仲間には信州出身の人が多かったようだ。後に「稲架の列隊長の名を終生負ふ」「戦友の一人づつ減り雁渡る」(『巴山月夜』)などとも詠んでいる。

 この時は、戦友堀内義善に千曲川を案内して貰った。寒風吹きつけるなか、二人にはどんな思いが湧き、話が交わされたのだろう。

     ☆

妻急変冬木一列帰路一途               鉄線 昭和49年

 

 年末には俳句文学館に補助金が下りるかどうかの瀬戸際にあって、ホテルに泊まり込みで待機していた。

「電話にて病妻叱る年の暮」がある。実家への最後の別れだったが、告げることなく実家に帰ってしまったのだ。「病妻の句を断ち冬に入りしかな」とも。鉄之介にとって極限状況が続いた。

 一月四日出勤した。しかし事務所に着くと、妻急変の電話が鳴った。朝は元気に送り出してくれた妻である。癌の骨髄移転による心不全であった。

     ☆

雲も水も自在遠野の青山河           信篤き国 昭和50年

 

 柳田国男の『遠野物語』、その柳田の生誕百年記念会が山本健吉を会長に発足し、東京で国際シンポジウムが開催された。その財務一切を任されたのである。現地調査も行われ、同行した。

 遠野は、早池峰山、六角牛山、そして物見山に囲まれた盆地である。この時は、その中央にある高清水山という小高い山にのぼって遠野の全容を見ている。川は猿ヶ石川である。いずれも物語にしばしば登場する。自然と暮らしが渾然とした遠野が生き生きと詠まれている。読んで行ってみたくなるような一句である。

     ☆

死ぬものは死に亞浪忌も古りにけり        玄奘の道 昭和58年

 

 「石楠」入会は昭和十四年だが、十五年には出征している。しかし、十六年度の「石楠」賞を受けている。縁は深い。

 句は一件無骨で非情に見える。これが飾らない鉄之介らしいところだ。もっとも亞浪には「死ぬものは死にゆく躑躅燃えてをり」があり、これを踏まえている。

 これに先立つ十年ほど前に亞浪二十二回忌を修している。その時は、大野林火も原田種茅もいた。此度は三十三回忌、先輩は八木絵馬、川島彷徨子だけだった。この事実が句の根底にある。

      ☆

 林火忌の湖北に萩と吹かれけり        玄奘の道 昭和59年

 

 林火の辞世三句には二句の萩の句がある。師亞浪縁の萩だ。林火忌といえば自然と萩に繋がる。忌の頃、湖北を旅している。湖北八句の中の一句である。鉄之介は忌日に墓参を欠かさぬ。従って、この句は実際には三日前の海津大崎の大崎観音での所見である。

 林火三回忌の折、追悼の言葉としてこの句を上げ「追悼句会で出来た句であります。先生お採りくださいますでしょうか」と話しかけている。私たち同席した一同、感極まった一瞬であった。

 林火忌の句はこの一句に極まった感がある。

 

      

 

 まだまだ引用して紹介したい句と鑑賞文だが、これ以上続けると著作権侵害になりかねないので、このあたりで控えておく。

 特に強く印象に残った句だけを以下、抜粋するに留める。

 

  暁闇のタクラマカンを天の川

  寝るだけの家に夜長の無かりけり

  一月逝く一師一生の一番弟子

  悪路王の血の達谷の紅葉かな

  夜神楽に満月高くかかげけり

  野馬追終へ相馬盆唄よくひびく

  竜天に登るを黄河追ひゆけり

  君逝くに冬の畦道みな真直ぐ

  戦傷を受けし六月廃刊決む

 

 先師への深い敬意と思慕、兵士として青春を過ごした中国大陸への旅と民族を超えた交流、晩年の万葉集世界への没頭、実務型人生。

厳しい人生だったが、豊かな精神世界を直向きに耕した俳人の姿を思う。

 このような俳人はこれから少なくなっていくだろうと思うと、また別種の文化的喪失感を抱いてしまう。

 そんな読書感を抱いた書であった。

 

 

 

 






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