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『黒田杏子 俳句コレクション3 雛』 髙田正子編著

  

コールサック社2024年3月3日

               

 高田正子氏のライフワークの黒田杏子俳句コレクションの第三集が上梓された。

 今回のテーマは「雛」である。

 雛で一冊になることに先ず驚いている。

 既刊の句集で読んで覚えていた次のような印象的な句も、もちろん収録されていた。


  雛流す常世の涯の浪の音        『日光月光』

  逢ひ訣れ逢ひ訣れ雛飾りけり        〃

 

 そして雛の句ではないが、強く印象に残っていた次の句も収録されていた。


  子を持たぬをとこをんな毛蟲焼く    『一木一草』

  子をなざさりしことよかり龍の玉    『花下草上』

  授からぬことよかりけり花のくも      〃

  子をもたざれば父母恋ひし天の川    『日光月光』

  子のいない家十薬の花の闇         〃

 

 同じ境涯のわたしにとって、この「よかり」の境地にどうやって黒田杏子が至ったのかということに関心があった。

  わたしの子なしの原因はたぶん、「潜伏型水俣病」の影響だろうと思われる。母方の親類に「水俣病」の被害にあった一族があり、その漁家から母が購ってきた魚介類を食べてきたので、わたしたち家族にも身体的障害の被害が及んでいる。「潜伏型」というのは、原因物質の有機水銀禍との因果関係が、医学的に証明が困難で、保証対象外となる多様な症状の疾患のことをいう。わたしの姉と妹は結婚後、子どもを授かったが、その子どもたちは身体に障害があって幼くして亡くなっている。男の兄とわたしには子どもができなかった。それを水俣病のせいだと証明する術はない。だがわたしの兄弟姉妹の、これらの身体的「被害」が偶然ではないことは状況的に明らかだ。その姉、兄、妹も子どもがないまま他界している。

   わたしが死ねばわが家の家系は途絶える。

   わたくしごとを書き連ねてしまったが、子どもを持てずに生涯を過ごすの身の、人類の歴史の外に置かれているような寂寥感のようなものは、わたしと黒田杏子に共通していよう。

   だから掲句のような表現の俳句を読むと、その「よかり」という境涯を受け入れた肯定感に、何かほっとする気持ちと、そこに呑みこんでしまった思いの深さの前で、平気ではいられない。

  本書で髙田正子氏は、これらの句を引いて、次のように述べている。

   ※

杏子とこの類を話題にしたことは一度も無い。ゆえに句集の中で出会うたびに心臓が跳ねあがった。〈私が選ぶ雛の句〉は私だからこそ選べる、という自負にも聞こえ、佳き句と思う。

(註 文中の雛の句は「子を持たぬ私が選ぶ雛の句」という句を指す。)

   ※

 わたしはこの文で、黒田杏子の「よかり」の想いの背景を少しだけ推測する手懸りを得たような気持ちになった。

 子なしだから持てる視座もあるのだよ、というふうに。

 

 その後に続く、髙田正子氏の引用句とその解説にも胸打たれた。

 黒田杏子は永年、「吉徳」ひな祭俳句賞の選者を務め、膨大な応募句の選句と同時に、自句を必ず加えて発表し続けたという。

 本書の最後の章、「Ⅴ 一生(ひとよ)の雛」は、「俳句」二〇二三年三月号(角川文化振興財団)特別作品五十句「炎ゆる人炎ゆる雛―『雛』をめぐる八十四歳の記憶」の再録である。
 人と雛に歴史あり、という感じで、黒田杏子の人生折々の景が「雛」を介して詠まれている。両親はもちろん、兄と姉妹と家、暮し、風土まで目に見えるような表現がされている。

 その掉尾に置かれているのが次の句だ。

 

    首都東京はつひに

  三月十日炎ゆる人炎ゆる雛

 

  髙田正子氏によれば、この句には次の原型があるという。

 

  東京三月炎ゆる人炎ゆる雛      ひな祭俳句第三十七回

                    「藍生」二〇二一年三月号

 

 この句について、髙田正子氏は次のように述べている。

    ※

 欲しがりません、勝つまでは、と雛を飾ることすら自粛した人もいれば、空襲の炎に巻かれてしまった人もいる、と杏子はまず生身の人間を描く。そして、それだけではなく雛も、つまり代々繋いできた血脈もここで絶えてしまったのだ、と語るのである。戦争を知る最後の世代の、静かな反戦の狼煙でもあろう。

 第Ⅴ章の句群は、文字通りの一生の集大成となった。

    ※

 生きて在る今を詠み続けるのが実存的俳句文学であるとするならば、黒田杏子の句業と、それをこのような書籍として編み直すことで、その意義を読者に広く知らしめることも、一つの文学的営為といえるだろう。

 生きて在ることの実感、実体、実存感から遊離した、質量感を喪失した記号的言葉世界で、遊戯的に完結しているような作風の俳句作品が氾濫している現在、この師弟の姿こそ学ぶべきだろう。


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