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絵本『ひみつのえんそく きんいろのさばく』

 くら ささら 文/木内達朗 絵   福音館書店 2022年8月刊 

新進の歌人、九螺ささらが福音館書店から絵本を出版した。

  九螺ささらは2018年に『神様の住所』という歌集でドゥマゴ文学賞を受賞している。「めまい」のような新感覚的表現で「存在」の根幹を揺るがすような作風で注目を浴び、その後も『きえもの』『ゆめのほとり鳥』という独創的な歌集を発表し続けている。

 そんな彼女が、児童向けの絵本の「文」を書き下ろした。

  歌集の「めまい」の作風が、童話的不思議の世界へと溶け込んでいて、そのストーリーテリングの巧みさに感心した。

 存在という哲学的主題に挑んでいる歌人、九螺ささらは、ファンタジーの手法で、こどもたちに何を問いかけているのか。

 子供と大人という双眼でもって、早速、その鑑賞を試みてみよう。

 絵本だから、その文章はふつうの物語のように過剰に語らない。絵とともに見せる世界である。俳句や短歌という短詩型文学は、言葉を削ることで、逆に読者に、その省略された言葉の余韻を暗示し、広大な心的世界を体験させる表現である。

 そう思えば、絵本における、余計な言葉を削りおとした「文」は、短詩型文学のように濃縮されたような緊張感のある文章になる点で、類似性があることに気づく。

 話の全体構図をを紹介すると、雨で遠足が中止なった、主人公「たかし」が、母が買物に出かけて留守番をすることになった時間に、「きんいろのさばく」に「ひみつのえんそく」をしたという、「おはなし」である。

 居間の壁に飾ってある金色の砂漠と駱駝の絵、その絵から駱駝が抜け出してきて、自分の国の砂漠に遠足に行こうと、たかしを誘うところから、ファンタジー世界が展開する。

 「文」では駱駝が絵から抜け出してきたことについては、ひとことも触れられない。

 絵で暗示するだけの表現に「省略」されているのである。

 子供の読者の身になって、この絵本を読むとき、最初はそのことに気づかないだろうと想像される。

  読み終わって、不思議体験の余韻にひたりながら、この絵本を最初から、ページをめくり直したとき、こどもの読者は、居間に絵が飾られていて、駱駝がたかしの前に現れたシーンで、その絵から駱駝が消えていることに、改めて気づくだろう。

 もちろん、最初からそれに気づいて読み進めるこどももいるだろう。

 大人としてこの表現の意図を読めば、想像の世界という不思議で広大な世界があって、そこに行くには、二段階の契機が必要だ、という九螺ささらのメッセージが、ここに暗示されていることを、改めて発見する体験をするかもしれない。

  想像世界に行く二つの契機とは、一つは「外的契機」で、もう一つは「内的契機」である。

  第一の「外的契機」として、この絵本では美しい砂漠と駱駝の絵である。

  第二の「内的契機」として、この絵本は次のシーンを用意している。

   たかしが、幻想の駱駝の背に乗ると、駱駝は、

「いっしゅん、めを とじてもらえますか?」

という。絵本は見開きの暗黒の中で目を閉じる、たかし少年のアップである。

   つまり、想像世界は目を閉じて、自分の内なる世界を開くことによって、想像の世界の扉は開くということを表現している。

  ものがたりの終末の、夢の砂漠から現実に帰還する場面でも、駱駝は、

「いっしゅん、めを とじてもらえますか?」

と言うのである。

   この魔法の手続きを、こどもの読者は無意識の中に刻むだろう。

   開いた創造の世界も二重構造をしている。

   最初はただ広大な金色の砂漠を、駱駝に案内されて歩き、着いたオアシスで「とろりとしていて、すっぱくて あまい」金色の砂漠の水を飲んだり、椰子の木陰で、背負ってきた遠足のリュックから弁当を取り出して、おにぎりとタコウインナーを駱駝といっしょに食べる。

   これが第一想像世界。

   第二想像世界は、オアシスの脇に見つけた階段を下りてゆく世界である。

   この想像世界の二重構造は何を意味しているだろうか。

   仮説だが、第一想像世界は、たかしの家に飾ってあった砂漠の絵という、外的な契機によって開く想像世界であり、たかしの心の中にだけある固有の想像世界ではない、ということだろう。

  その想像世界から、さらに階段を下りてゆく第二世界は、たかしの心の独自の想像世界ということだろう。

   大人になって、かつて子供だった読者は、この想像世界の二重構造の意味に気づき、何かに覚醒するかもしれない可能性の表現がされているような、深さを感じる表現である。

   その地下世界にも果てなき金色の世界が広がっている。

そこがたかしの心の深い深層世界である証拠に、その上の天井世界から一筋の砂が、まるで砂時計の砂のように零れ落ち続けているのだ。

  独立した、たかしの深層想像世界だが、現実との繋がりをこうして保っているのである。

  現実との繋がりを亡くした独りよがりの想像世界は妄想世界であり、必ず病む。現実への帰還を暗示、保証するこの砂時計的な表現は、美しく健全である。

  その現実との繋がりを持つ想像世界から零れる砂は、創造性の源になることを、作者は次の展開で表現してみせる。

  駱駝に促されて、両手でその零れる砂を受け止めると、駱駝はこう言うのだ。

「すなに めいれいしてみてください。すなは なんにでも なれるんです」

   想像世界が生み出す、創造性の無限の可能性を教えているのだ。

  たかしは砂に命令して、つまり自分の創造力を駆使して、砂から鳥とイルカを創出して、想像世界を飛翔させる。

  最後に人間を創ることを命じると、自分そっくりの砂人間が現れる。

   80回じゃんけんをするが、相手も自分なので決着がつかない。

   相撲をしても、駆けっこをしても勝敗の決着はつかない。

  このシーンは、たかしの自己発見、自己客観視する視座の獲得を意味しているのではないか。

  想像と創造は、外に向かう前に、自分自身を発見することから始まるのだから。

   想像世界には時間的な制約がある。天井から落ち続ける一筋の砂が細くなって、制限時間が近いことを告げる。駱駝がたかしにそのことを代わりに告げる。

  そうして、また駱駝に促されて、たかしは「いっしゅん めを とじて」、現実世界に帰還するのである。

  そして母が帰宅して、たかしの留守番の時間の「ひみつのえんそく」は終わる。

  居間の砂漠の絵にも駱駝が「帰還」している。

  だが、たかしの髪の毛に金色の砂が残っていて、たかしの「ひみつの えんそく」が、想像世界の体験旅行だった証が残っている、と表現する作者の表現意図が暗示されている。

  母はたかしにレモネードを買ってきていて、たかしはそれを飲んで、想像世界で飲んだ「オアシスのみず」と同じ味だ、と思う。
 たかしが たかしの想像世界のことは知らないはずの母に、

「きんいろの さばくの みずだね」と言うと、「そうね」と言い、

「おかあさんは にっこり わらう」

という文で、この絵本は終わる。

   この、母なるものの、全肯定のことば。

   それこそが、こどもたちの健全なる想像力と創造力を育む力ではないだろうか。

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付記

九螺ささらの短歌については、このブログ内の下記のアドレスで
歌集の紹介しています。
ぜひ、そちらもご覧ください。             武良竜彦


https://note.com/muratatu/n/nd1431df792b6 

https://note.com/muratatu/n/nb4276eb356ae

https://note.com/muratatu/n/n707b0735fd99

https://note.com/muratatu/n/n9516205f7145/edit


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