千葉信子句集考 ―命と言葉の重なり響き合う巫女的韻律 Ⅰ
Ⅰ 千葉信子俳句の背景
千葉信子氏は一九三十年生まれ。成人以前から作句を始めていたという六十年に及ぶ作句歴の中で、二冊しか句集を上梓していない。「普通」ならすでに四、五冊の句集があっても不思議ではない句歴の俳人だが、二〇〇五年に『縦の目』、それからまた十年余の間をおいて二〇一六年の『星籠』の二冊である。
句集に収録されている随筆によれば、千葉信子氏自身は句集を編むことさえ考えてもいなかったようである。「息を吐くように俳句を詠んできた」という千葉信子氏にとって、俳句は生きることと同義であり、それを記録して書籍にすることなど思いの埒外のことだったようだ。二冊ともご子息の熱心なお勧めの賜物だという。
千葉信子氏は一九五三年に「草笛」入会。すぐ草笛新人賞を受賞されている。その後の一時期、人間探求派の加藤楸邨に師事。楸邨に同じく師事する金子兜太氏たちとの交流があった。そんな俳人たちの影響下で、自分の俳句の主題と方法について研鑽を重ねたのだろう。千葉信子氏の二冊の句集に加藤楸邨の人間探求派的視座、金子兜太の造形俳句的な作句技法の影響が伺える。
夫の転勤、自分の断続的な病気加療(現在も術後の加療中だという)、その後、夫との死別という人生体験の中、一時、作句を中断している。一九九三年に「青樹」に入会、九十七年に同人となる。
「青樹」は二〇〇八年に廃刊。元の主宰だった木下青嶂が一九七一年に死去し、長谷川双魚が継承。双魚は一八九七年生まれ。一九四二年、日本画家であった弟の朝風の勧めで俳句をはじめ、飯田蛇笏の「雲母」に入会し、一九五一年に同人となる。一九八六年、第二十回蛇笏賞を受賞。一九八七年に八十九歳で死去。
その没後「青樹」主宰は妻の長谷川久々子(はせがわ くぐし)氏が継承。長谷川久々子氏は千葉信子氏より十歳若い一九四〇年生れ。飯田龍太に師事し、第十六回雲母賞、第十一回俳人協会新人賞を受賞。
夫の双魚は蛇笏、久々子氏は龍太という系譜を見れば、この会誌の作句上の方法論の想像はつくだろう。
伝統俳句派が共有する作句の「心得」とは、概略次のようなものだと思われる。
一、季節感を大切に。
二、用言を多用しない。
三、観念的な言葉を避ける。
そして、俳句を通じて季節の移ろいを感じ、その中に発見、驚きを見出し、それを季語の働きの中に詠む。
というようなことだろうか。
「青樹」のかつての同人が会のブログに記録していたところによれば、久々子氏が句作りの最終の目的として揚げていたのは「平明でありかつ中身の高い写生」だったという。
処女句集『縦の目』が上梓されたのは、この「青樹」同人時代の平成十七年(二〇〇五年)のことである。巻頭に主宰の長谷川久々子氏の「序」の寄稿を仰いでいる。
「青樹」が平成二十年十二月に終刊した後、千葉信子氏がどのような場所と機会で作句を続けられたかはこの二冊の句集からは知ることができない。
だが、「青樹」の主宰である長谷川久々子氏が「信子さんの周囲に、六つの句会を誕生せしめた原動力」と句集に寄せている文から推察すれば、千葉信子氏を慕う仲間たちに乞われて、主宰的、指導者的立場でいくつかの句会を開き、作句を続けたようだ。
以上、千葉信子氏の俳句歴を概観して、加藤楸邨の影響による人間探求派的な基本姿勢を軸に、伝統俳句派の作句上の骨法に磨きをかけつつも、金子兜太氏のいう造形俳句的な作句法も使いこなして、質の高い俳句を詠み続けていることが推察できるだろう。ここまでは一般論的推理だ。
二冊の千葉信子句集に精選された作品を鑑賞する限り、その作品には伝統俳句派の枠を超越しているものを感じる。すぐれて現代俳句的なのだ。そしてなによりも特筆すべきことは、独自の表現技法を完成させ、ぶれることのない独自の「文学的主題」というものを確立して詠み続けているということだ。
そんな瞠目すべき作品の魅力について考察してみよう。
Ⅱ リフレイン詠法俳句について
千葉信子俳句の鑑賞に入る前に、敢えてもう一度、遠回りをしておきたい。
彼女の作句法の特徴の一つに、一句の中で語句を重ねて詠むことで、リズムを生み出し、彼女独特の思いを表現する方法がある。その表現技法についての予備知識として、その詠法について先に触れておきたい。
この章題で「リフレイン詠法」などという言葉を使ったが、それは私の造語であり、本論のために俄作りした仮称であり、作句法の定番としてこの呼称が存在するわけではない。
俳句は十七音という短い音律の韻文なので、一句の中で同じ語句を繰返し使うことは、原則として避けたい気持ちが働くものである。
だからこのリフレイン詠法を使って作句するからには、それなりの表現意図があってのことだということになる。
例えば次の橋閒石の次の句はどうだろう。
露草のつゆの言葉を思うかな 橋閒石
リフレインは「露草」の「露」とひらがなの「つゆ」。上五の頭韻と中七の頭韻を揃えてリズムを生み出している。ひらがなの「つゆ」としたことで、露草の葉の上でゆれる「つゆ」のやわらかな揺れと、そのリズムが増幅する効果を生み、読者をある思いに誘うようだ。作者はその効果を意図してこの句を詠んでいると言えるだろう。これが俳句的な繰返しの技法の使い方のスタンダードと言えるだろう。
後述する千葉信子氏のリフレイン詠法俳句は、このような「標準的な繰返しの技法」とは異質であり、彼女独特の技法として磨き高め、不動の詠法として確立したものだ。
次の章でそれを詳しく検証するために、この章で他の俳人たちが、この繰り返し技法をどのように使っているか概観しておきたい。
次の橋本多佳子のリフレイン詠法はどうだろうか。
いなびかり北よりすれば北を見る
歌かるたよみつぎてゆく読み減らしゆく
条件反射のように「北」を見てしまうのは、当たり前のことだろうか。読者が、そう、当たり前かもしれないと思った瞬間、そうすることを繰返して生きる「私」の姿が立ち上がってくる。そして普段は考えたこともないような思い、例えば、そうやって条件反射的に何かを繰返して生きていることの周りに、別の世界への出口のようなものはまったく用意されていない、閉じた生の在り方などということに、思いを馳せてしまわないだろうか。普通は誰もそんなことは思いもしないのだろう。だが繊細な俳人は自分の咄嗟の行動に、そんな思いを沸き立たせて噛みしめてしまうのだ。
橋本多佳子は、
夫恋へば吾に死ねよと青葉木菟
螢籠昏ければ揺り炎えたヽす
雪はげし抱かれて息のつまりしこと
というような女性的な情念を赤裸々に詠んだ俳人だった。日常を詠んでもどこか激しさのある人だった。
千葉信子氏のリフレイン詠法俳句も、この多佳子俳句同様、そこに特別な思いが込められているという点では共通している。だが多佳子はこの技法を多様していない。
次の加藤郁乎のリフレイン詠法も独特である。
一満月一韃靼の一楕円 加藤郁乎
冬の波冬の波止場に来て返す 〃
最初の「一満月」の句は「一」の後に漢音の熟語を重ねているので硬質のリズム感が生まれている。極寒の韃靼の凍てた夜空の冷たく光る満月、その光が楕円形に地を囲み、そこに囚われているような気分になる。
「冬の波」の句は何か深い虚無感のような後味が心の襞に残らないだろうか。
その理由はこの俳句の「無意味さ」のせいである。
冬の波が冬の波止場に寄せては返している、というのは散文の意味としては「当たり前」のことだ。「当たり前」というのは、それ以上の意味は何もない、という無意味の「意味」を指す。
伝統俳句の「写生」論でこの俳句を鑑賞する限り、この俳句にそんな「無意味さ」を読み取ることはないだろう。冬の波止場のあるがままの様子を「写生」的に詠んだだけだという鑑賞に収まるだろう。
だがあの諧謔の俳人、加藤郁乎が、ただそれだけのためにこんな句を詠むわけがない。郁乎はたとえば、
切株や歩く銀杏銀の夜
というような俳句を詠む人だ。一見、幻想的な美しい叙景句に見えるこの句には、諧謔に満ちた仕掛けがある。
きりかぶや ある、くぎん、なんぎんの よる
と音節を切り直して漢字変換をすると、
切株やある苦吟難吟の夜
と、諧謔的な意味の句に変身を遂げてしまう。そんな遊びもする俳人である。
「冬の波」の句の無意味さには、この諧謔精神に支えられた別の意味があるのだ。ここで言う「無意味さ」は、論理学では「自同律」的無意味に当たる。
「自同律」とは同じこととの繰り返しの中でも、自己言及的な閉ざされた論理回路の中で完結してしまっている、最もやっかいな繰り返しである。
どういうことか。
例えば「私は」が主語である文章表現の場合、「私である」をはじめとするどんな言葉を述部に持って来ても、客観性を持った表現には決してならない、ということだ。
「私は私である」と私が言うこと自身が、自同律であり無意味だからだ。それが真実であることを証明する「場」、つまり客観性があらかじめ欠如しているからである。
この論理学の自同律を文学の分野で、存在論的な「不快感」として初めて表現したのは埴谷雄高だった。人間という存在である「私」は言葉において自分を客観的に説明できない。だから人は「神」のような架空の絶対者に身を任せ、その空虚な価値観に絡め取られてしまうのだとして、文学における「神」的なものとの壮絶な闘いを繰り広げて見せた。文学という「究極の主観」の解放と自由を希求する文学的闘いだった。
この加藤郁乎の「冬の波」の句は、そのような文学表現的な認識を背景にした俳句だといえるだろう。
郁乎はこの俳句で一見、伝統俳句的に見える表現で、言葉に対する深々とした絶望感と虚無感を表現しているのだ。
先に触れた橋本多佳子の俳句にも、この郁乎俳句と同質の自同律的虚無感を読者は受け取るだろう。
千葉信子氏のリフレイン詠法の俳句は、この郁乎俳句のような不穏当さや、諧謔性とは全く異質であるが、この詠法に彼女の表現主題(文学的主題)と不可分の、特別な思いが込められているという点では通底するものがある。
千葉信子氏が師事していた加藤楸邨にはこんな句がある。
枯れゆけばおのれ光りぬ枯木みな
木の葉ふりやまずいそぐなよいそぐなよ
毛糸編みはじまり妻の黙はじまる
春愁やくらりと海月くつがえる
つひに戦死一匹の蟻ゆけどゆけど
楸邨の句はリフレイン詠法と意識して使っているのではなく、句の含意に合う表現を求めた結果こうなった、という感じが強い。だからこの技法について特別な思い入れはないような気がする。
同じ楸邨に師事するものとして交流のあった金子兜太氏には、次のような句がある。
海に青雲生き死に言わず生きんとのみ
頭痛の心痛の腰痛のコスモス
霧に白鳥白鳥に霧というべきか
富士二日見えず遠離の富士おもう
死火山屋島菜の花どきはかもめかもめ
兜太氏の場合はリフレイン詠法を意図的に使っている感じがある。でも後述するようなこの詠法を俳句に不可分の独立した技法として発展させた千葉信子氏のような特別な意識ではなく、使い方は一般的な繰返し、重ねに留まっている。楸邨と同じ含意のための技法である。
千葉信子氏が同人だった「青樹」の主宰である長谷川久々子氏が師事していた飯田龍太には、彼が確立した風土俳句の代表作といわれる句と、他に二句がある。
一月の川一月の谷の中
風ながれ川流れゐるすみれ草
手毬つく毬より小さき手毬唄
これも含意に添った繰り返し技法であり、他にこの技法の俳句を見かけないので多様した形跡はみられない。
長谷川久々子氏にもリフレイン詠法の俳句がある。
雨の沙羅雨あとの沙羅うす月夜
ふた親に二つともしび朧の夜
やさしい韻律が語感と句意を満たしているような俳句である。これは千葉信子氏のリフレイン詠法俳句にかなり近い。だが長谷川久々子氏のこの二つには遠くで祈っているような思いを感じるが、千葉信子氏のリフレイン詠法俳句は、その俳句が詠まれている人生の、その時を丁寧に生きている人間の息遣いに満ちている。
そんな明確な違いがある。
長谷川久々子氏には次のような作品がある。
涅槃図の嘆のさまざま地を叩き
誰が死んでも仙人掌仏花にはならず
たましひの糸引くやうに桜しべ
極寒の蓋とれば塩ねむりゐる
雪しんと一人の音はすぐ消ゆる
作句法も千葉信子俳句とかなり似ている。
だが、二人のリフレイン詠法の違いに表れているように、自分と人々の思いを遠くやさしく見詰めているのが長谷川久々子俳句だとすれば、千葉信子俳句はそのことを自分のこととして、その場、その時を生きている息遣いを表現していると言えるだろう。
そこが、私が本稿で千葉信子俳句が現代俳句的だと断ずる所以でもある。
実例を紹介して鑑賞する前に、長々と前置きをしたが、それは千葉信子氏独特のリフレイン詠法の俳句が、鑑賞に当たって心の準備が必要な俳句だからだ。
千葉信子俳句はリズムがいいので、さらっと読み飛ばしてしまう畏れがある。この俳句の質の高さと繊細さ、丁寧に、その日その時を生きる人の息遣いを読み取るには、鑑賞者のそれ相応の感度と覚悟が求められるのだ。
二冊の千葉信子句集には、このリフレイン詠法の使用度がかなり高い。それだけではなく、それが独特であるという顕著な特徴を持っている。
そこに表現技法も含む、千葉信子氏の中心的思いの表現、つまり文学的主題の独創性の秘密があるような気がする。
そんな私の仮説に基づいて、その作品の鑑賞を試みることにしたい。
Ⅲ リフレイン詠法が生み出すリズムと心の在処
この章では、二冊の千葉信子句集に収められたリフレイン詠法の作品だけを抜き書きして鑑賞してみよう。
まず『縦の目』から。
『縦の目』
昭和二十七年〜六十年
次男誕生
胎の子にほたるほうたる降るは降るは
霧くぐりくぐりて小舟つなぎけり
萩のかげ萩にもどして吹き初むる
寒卵ふたつ男の子がふたり
独楽をうつ眸のなかの独楽逸れる
野火にたつ風おのづから火の色に
これだけ引用するだけでも、加藤郁乎、橋本多佳子、加藤楸邨、金子兜太、飯田龍太、長谷川久々子氏たちのリフレイン詠法俳句とはまったく違う、独特の千葉信子俳句世界が感受できるだろう。
このやさしさに満ちた俳句的しぐさにおける、この上もない丁寧さは、他の俳人の作品にはないものだ。
たとえば「胎の子」に「ほたるほうたる」と呼びかけるように「降るは降るは」とやさしい思いを降り頻らせている、温かな思いの重ね方。
たとえば「霧」という視界不全の中を、「くぐりくぐりて」、愛しむように不安に揺れる「小舟」を岸につなぐしぐさのやさしい重ね方。
たとえば「寒卵」を掌(たなごころ)に包むように、吾子ふたりを重ね包む愛しみ方。
多忙さを増しゆく現代社会の暮しの中で、なかば上の空で生活している現代人が、はるか昔に手放した「丁寧」な「生き方」をここに感じないだろうか。
今あるこの命の、この場と時間を丁寧に生きるその息遣いのリズムがここに表現されている。それは即ち、作者が日々をそのような立ち振る舞い、そんな矜持で生きているからこそ生じるリズムである。
千葉信子俳句では、俳句表現技法的とその「生き方」は不可分の関係にある。そんな生き方でなればこの技法は生まれず、この効果も生じようがない。
だが反対にそんな生き方が出来ていたとしても、すぐこんな俳句が詠めるわけではない。それには天性の才能と弛まぬ俳句的鍛錬の賜物でもある。
そして最も重要なことは、そんなことを一切感じさせないような、まるで「吐く息」のように声を出して謡われたような自然さで、じわりと滲み出す究極の優しい心根が感じられる。
たとえば「萩」のものである「萩のかげ」を「萩」という命の主体の切り離せない属性として「もどし」てあげる心。そのやさしい「吹き」方。
たとえば「野火」を燃え立たせる「風」は、風である自己を限りなく、命の主体である「野火」に「おのづから火の色」にして寄り添うことで、「野火」と一体となって命を燃え立たせるという生き方。
それは皺立つ日々の暮しという薄紙の皺を伸ばしのばすような丁寧なしぐさで、一枚いちまい、愛おしむように「重ねかさね」てゆくような温かい命のリズムである。
それは先に揚げたどの俳人にもない、千葉信子俳句のリフレイン詠法俳句の特性である。
昭和二十七年〜六十年は作句が途切れそうでも継続した期間である。だがこの後、作句生活は一時中断する。実生活において嵐のような激動の季節をくぐり抜けた時期だったのだろう。普通はそのときの激しい体験が実作に直接的に反映してしまうものだが、千葉信子俳句は、平成五年に作句を再開しても、静かな呼吸を乱すことなく、逆に深みを増した形で表現世界に着地している。
後しばらく、私の解釈を施さず、リフレイン詠法俳句を選出して並べるだけにする。読者各自、その円熟のリフレイン詠法俳句が醸し出す、芳醇で丁寧な生き方の息遣いを堪能していただきたい。
平成五年〜九年
母立てば母に風たつ炭ひさご
猫がきて猫とでてゆく初桜
平成十年〜十二年
おぼろ夜の埴輪の馬を曳く埴輪
すこしづつ覚めすこしづつ土雛
蓑虫の一再ならず蓑の丈
平成十三年〜十四年
カフカ閉づ黴の臭へる黴のいろ
弔電を打つ露分けて草分けて
蛇笏忌の膝抱きて膝尖らせる
木の筥のなかの木のはこ春隣
己が影己に倣ふ寒さかな
平成十五年〜十六年
川越ゆる風船の沙汰雲の沙汰
あかんぼが赤ん坊にふれ桃の花
奈落には奈落のならひ梅雨の蝶
しやぼん玉はじける軽さ浮く軽さ
髦にほうたるのつく凛と点く
リフレイン詠法俳句を抜粋するだけにするつもりだったが、もう少しだけ講釈をさせていただきたい。
髦(たれがみ)だから、前髪が眉のあたりまで垂れた子供の髪形である。つまり自分の子の髦に「つく」螢の火が「点く」さまを詠んだ句だ。読み過ぎかもしれないが髦の字義には「秀でる」の意も持つ。賢そうな吾子のキラキラ光る瞳の上の、髦に付いた螢火まで「凛と点く」と表現されている。その細やかな愛に溢れた眼差しがここにある。
この平成十五〜十六年の句には弾んでいるような命のリズムを感じる。
千姫の菊ひとかかへふた抱え
癌告知甘柿の種甘柿に
読後、平然としていられなくなる句だ。作者が平然と「癌告知」を受け止めているようにみえるから猶更である。癌細胞は身体という器がなければ存在し得ない。柿の種は柿という器がなければ生じない。「同じことよ」と作者が微笑んでいるように感じるから身震いしてしまうのだ。「もちろん、そうですが…」と、私は敢えて問うてみる。「でもなぜ、甘柿なんでしょうか」
すると作者はこう応えそうな気がする。
「甘いも渋いも生きてることの証よね。この場合は渋くっちゃいけないわ」
感服。
虎落笛湯玉をつぶす湯玉かな
この句については長谷川久々子氏の次の鑑賞文がある。
「虎落笛」の句は単なる写実ではなく、対象を凝視して得られた感動が、詩に昇華した句。沸騰した湯玉はやかんの湯であろうか、沸いたのを音で知らせるものならば、「虎落笛」の季語の捉え方に緩みがない。
長谷川久々子氏が主宰だった「青樹」という会派は、千葉信子氏のような感動(つまり観念)を造形する現代俳句のような作風も容認した伝統俳句派だったのか、そうではなくて、この会派の中で、千葉信子氏だけが独特な存在だったのか、私には知るすべがない。長谷川久々子氏の「鑑賞」の視座は伝統俳句派の流儀の内で慎み深い。
もう少し踏み込んで味わってみたい。
表現する句の中に表れるあらゆる「もの」が受け身ではなく、能動的に行為をするように詠まれている。それは千葉信子氏が伝統俳句派的な「観察者」の座を降りて、自分の心の中の現実を生きて行為するように詠む現代俳人に他ならないからだ。
この句の場合も、「湯玉」が「湯玉をつぶす」という行為を生き生きと繰り返している。「つぶす」などという生存競争の殺し合いのような語句を用いながらも、殺伐とした景ではなく、ほのぼの温かく感じるのはそれが文字通り、「湯玉」という熱を持つ「生きる」姿の喩だからだ。ここには子孫代々へと生を繋ぐべく繰り返される、悲壮感など微塵もない楽し気な生のリズムがある。
平成十七年
髪を梳く髪みなうごく良夜かな
こうして処女句集『縦の目』の世界は完結している。
句集の「あとがき」文の最後には次の句が置かれている。
息吸うは一瞬ほたる初螢
千葉信子俳句世界を象徴するような俳句である。
この度上梓された句集『星籠』では、この完成の域に達している千葉信子氏の独創的なリフレイン詠法俳句は、どうなっているだろうか。その軌跡を追ってみよう。
『星籠』
二〇一一年(平成二十三年)
※『星籠』では西暦表示になっているので、『縦の目』と合わせるために括弧内に元号を付記した。
さくらさくらナースコールを押し続け
告白も告知もありし寒昴
二〇一一年、戦後日本の病理と闇が露呈した東日本大震災が起こった年である。千葉信子氏は闘病のベッドの上に居た。その特徴的なリフレイン詠法俳句も、この二句のように緊張感に満ちた内容で始まり、『縦の目』から継続している。
桃熟れて嫌ひな人を嫌ふなり
病室の上も病室つちふれり
高層建築の大病院の一室に幽閉されているような闘病の姿と、しっかり今を見詰める眼差しを感じる俳句だ。
とけはじむ塩のまはりに塩の春
白きもの白く炊きあげ月の寺
道標の雪のよごれは雪が吸ふ
トンネルの先もトンネル山笑ふ
胡桃には胡桃の在所母の声
川あれば川をのぼりて稲の花
髪ほどく髪みなうごく良夜かな
「髪ほどく」の句は平成十七年『縦の目』の最後の年に詠まれた「髪を梳く髪みなうごく良夜かな」と対をなしている句だ。「梳く」「ほどく」の違い。「梳く」は日常の一コマで、「ほどく」は闘病中の一コマの違いか。その微妙な差異の手触りも句に捉えてしまう。
雀いろどき菜の花は菜の高さ
二〇一二年(平成二十四年)
睡るには桜が足りぬ血が足りぬ
すずなすずしろ嬰あやすごとすすぐ
さくらさくら雨になる雲ならぬ雲
鬼になる子もならぬ子も柿齧る
雪に産みまた一人産み吾子とよぶ
「雪に産み」の句はもちろん回想句である。千葉信子氏の出産と育児も男二児のリフレインでもあった。それが降り積もるような雪の記憶と重なり合う。
二〇一三年(平成二十五年)
寒卵も卵キルギスはキルギス語
これが郁乎俳句だったら自同律的無意味感が漂うとこだが、千葉信子句集の中に置かれていると、その過不足の無い自己同一性のような、生の確かさに触れるような気持ちになるから不思議である。それは次の句にも共通する。
左手のための右の手トマト煮る
さくらさくら閂のごと風生まれ
数へぬと決めし螢火かぞへてる
白桃の傷ひとつなき明日は明日
「白桃の」の句は巷で言う「明日は明日の風が吹く」の楽観ではない。「傷ひとつなき」生の充実感の表現である。
二〇一四年(平成二十六年)
粽結ふ親指小指嫁の指
月光の食べたいものを食べにいく
煙突は煙突のまま巴里祭
春隣歩けるところまで歩く
この年のリフレイン詠法俳句は眼差しがどこか遠くに投げられている雰囲気がある。「粽結ふ」の句は懐かしいわらべ歌のような響きで、「月光の」の句はファンタジック、後の二つは望遠の句である。
この年の、リフレイン詠法ではない他の句は回想、異郷への思いなどに混じって、闘病中であることをうかがわせる俳句が多い。
この次の年、二〇一五年(平成二十七年)は収録句がなく、空白の年になっている。病状が悪化し辛い闘病生活を送られたのだろうと推察する。
そしてこの句集の最終年を迎える。
二〇一六年(平成二十八年)
釜石の秋刀魚よ尖るだけ尖れ
楸邨忌根のあるものは根を太く
あきる野の雨雨雨雨草田男忌
すすきするかや其処までとこれまでと
鬼になるあそびビー玉うつあそび
穴惑ひ日向ちいさくちさくなり
馬冷やす未だ塩の道塩の道
父に父ありて積乱雲太る
硝子切る音も紙裂く音も寒
句集の結びの章のリフレイン詠法俳句には、これまでと比べるとやや緊迫したリズムを感じる。厳しい闘病中の身体のリズムを反映しているのだろう。
以上、『縦の目』に二十五句、『星籠』に三十五句、合計六十句もリフレイン詠法俳句が収められている。
これはただの個人の趣向というに留まらないことである。通常の作句の常識で言えば、季重なりを嫌うように、同じ語句を一句の中に使用することは、なるべく避けようとするものだ。他の俳人たちの使用例を見ても解る通り、特別な意図があって使用する以外には滅多に使用されない作句法である。
そのような、どちらかと言えば作句上「忌避」される方法を多用し、自分の表現主題(文学的主題)を表現する技法として使いこなし、磨き上げていることは、俳句表現史上、特筆すべき功績だと言えるだろう。
千葉信子俳句は忌避される傾向の強い語句の繰り返しを、「リフレイン詠法」とでも名付けるべき優れた技法として確立し、俳句の表現世界を豊かにしたのだ。
そして最も大切なことは、自分の切り拓いた詠法によって、命の現場、その日その時を丁寧に生きる命の息吹きという独自の表現主題(文学的主題)を、巧みな造形的表現で成し遂げたことである。
Ⅳ 命の息遣い・胎動・彩の中を行為する俳句世界
この章では、リフレイン詠法以外の句を抜き出して鑑賞し、リフレイン詠法俳句で見た千葉信子氏の表現主題(文学的主題)が、どのように表現されているかを検証しよう。
武良竜彦
Ⅰ 千葉信子俳句の背景
千葉信子氏は一九三十年生まれ。成人以前から作句を始めていたという六十年に及ぶ作句歴の中で、二冊しか句集を上梓していない。「普通」ならすでに四、五冊の句集があっても不思議ではない句歴の俳人だが、二〇〇五年に『縦の目』、それからまた十年余の間をおいて二〇一六年の『星籠』の二冊である。
句集に収録されている随筆によれば、千葉信子氏自身は句集を編むことさえ考えてもいなかったようである。「息を吐くように俳句を詠んできた」という千葉信子氏にとって、俳句は生きることと同義であり、それを記録して書籍にすることなど思いの埒外のことだったようだ。二冊ともご子息の熱心なお勧めの賜物だという。
千葉信子氏は一九五三年に「草笛」入会。すぐ草笛新人賞を受賞されている。その後の一時期、人間探求派の加藤楸邨に師事。楸邨に同じく師事する金子兜太氏たちとの交流があった。そんな俳人たちの影響下で、自分の俳句の主題と方法について研鑽を重ねたのだろう。千葉信子氏の二冊の句集に加藤楸邨の人間探求派的視座、金子兜太の造形俳句的な作句技法の影響が伺える。
夫の転勤、自分の断続的な病気加療(現在も術後の加療中だという)、その後、夫との死別という人生体験の中、一時、作句を中断している。一九九三年に「青樹」に入会、九十七年に同人となる。
「青樹」は二〇〇八年に廃刊。元の主宰だった木下青嶂が一九七一年に死去し、長谷川双魚が継承。双魚は一八九七年生まれ。一九四二年、日本画家であった弟の朝風の勧めで俳句をはじめ、飯田蛇笏の「雲母」に入会し、一九五一年に同人となる。一九八六年、第二十回蛇笏賞を受賞。一九八七年に八十九歳で死去。
その没後「青樹」主宰は妻の長谷川久々子(はせがわ くぐし)氏が継承。長谷川久々子氏は千葉信子氏より十歳若い一九四〇年生れ。飯田龍太に師事し、第十六回雲母賞、第十一回俳人協会新人賞を受賞。
夫の双魚は蛇笏、久々子氏は龍太という系譜を見れば、この会誌の作句上の方法論の想像はつくだろう。
伝統俳句派が共有する作句の「心得」とは、概略次のようなものだと思われる。
一、季節感を大切に。
二、用言を多用しない。
三、観念的な言葉を避ける。
そして、俳句を通じて季節の移ろいを感じ、その中に発見、驚きを見出し、それを季語の働きの中に詠む。
というようなことだろうか。
「青樹」のかつての同人が会のブログに記録していたところによれば、久々子氏が句作りの最終の目的として揚げていたのは「平明でありかつ中身の高い写生」だったという。
処女句集『縦の目』が上梓されたのは、この「青樹」同人時代の平成十七年(二〇〇五年)のことである。巻頭に主宰の長谷川久々子氏の「序」の寄稿を仰いでいる。
「青樹」が平成二十年十二月に終刊した後、千葉信子氏がどのような場所と機会で作句を続けられたかはこの二冊の句集からは知ることができない。
だが、「青樹」の主宰である長谷川久々子氏が「信子さんの周囲に、六つの句会を誕生せしめた原動力」と句集に寄せている文から推察すれば、千葉信子氏を慕う仲間たちに乞われて、主宰的、指導者的立場でいくつかの句会を開き、作句を続けたようだ。
以上、千葉信子氏の俳句歴を概観して、加藤楸邨の影響による人間探求派的な基本姿勢を軸に、伝統俳句派の作句上の骨法に磨きをかけつつも、金子兜太氏のいう造形俳句的な作句法も使いこなして、質の高い俳句を詠み続けていることが推察できるだろう。ここまでは一般論的推理だ。
二冊の千葉信子句集に精選された作品を鑑賞する限り、その作品には伝統俳句派の枠を超越しているものを感じる。すぐれて現代俳句的なのだ。そしてなによりも特筆すべきことは、独自の表現技法を完成させ、ぶれることのない独自の「文学的主題」というものを確立して詠み続けているということだ。
そんな瞠目すべき作品の魅力について考察してみよう。
Ⅱ リフレイン詠法俳句について
千葉信子俳句の鑑賞に入る前に、敢えてもう一度、遠回りをしておきたい。
彼女の作句法の特徴の一つに、一句の中で語句を重ねて詠むことで、リズムを生み出し、彼女独特の思いを表現する方法がある。その表現技法についての予備知識として、その詠法について先に触れておきたい。
この章題で「リフレイン詠法」などという言葉を使ったが、それは私の造語であり、本論のために俄作りした仮称であり、作句法の定番としてこの呼称が存在するわけではない。
俳句は十七音という短い音律の韻文なので、一句の中で同じ語句を繰返し使うことは、原則として避けたい気持ちが働くものである。
だからこのリフレイン詠法を使って作句するからには、それなりの表現意図があってのことだということになる。
例えば次の橋閒石の次の句はどうだろう。
露草のつゆの言葉を思うかな 橋閒石
リフレインは「露草」の「露」とひらがなの「つゆ」。上五の頭韻と中七の頭韻を揃えてリズムを生み出している。ひらがなの「つゆ」としたことで、露草の葉の上でゆれる「つゆ」のやわらかな揺れと、そのリズムが増幅する効果を生み、読者をある思いに誘うようだ。作者はその効果を意図してこの句を詠んでいると言えるだろう。これが俳句的な繰返しの技法の使い方のスタンダードと言えるだろう。
後述する千葉信子氏のリフレイン詠法俳句は、このような「標準的な繰返しの技法」とは異質であり、彼女独特の技法として磨き高め、不動の詠法として確立したものだ。
次の章でそれを詳しく検証するために、この章で他の俳人たちが、この繰り返し技法をどのように使っているか概観しておきたい。
次の橋本多佳子のリフレイン詠法はどうだろうか。
いなびかり北よりすれば北を見る
歌かるたよみつぎてゆく読み減らしゆく
条件反射のように「北」を見てしまうのは、当たり前のことだろうか。読者が、そう、当たり前かもしれないと思った瞬間、そうすることを繰返して生きる「私」の姿が立ち上がってくる。そして普段は考えたこともないような思い、例えば、そうやって条件反射的に何かを繰返して生きていることの周りに、別の世界への出口のようなものはまったく用意されていない、閉じた生の在り方などということに、思いを馳せてしまわないだろうか。普通は誰もそんなことは思いもしないのだろう。だが繊細な俳人は自分の咄嗟の行動に、そんな思いを沸き立たせて噛みしめてしまうのだ。
橋本多佳子は、
夫恋へば吾に死ねよと青葉木菟
螢籠昏ければ揺り炎えたヽす
雪はげし抱かれて息のつまりしこと
というような女性的な情念を赤裸々に詠んだ俳人だった。日常を詠んでもどこか激しさのある人だった。
千葉信子氏のリフレイン詠法俳句も、この多佳子俳句同様、そこに特別な思いが込められているという点では共通している。だが多佳子はこの技法を多様していない。
次の加藤郁乎のリフレイン詠法も独特である。
一満月一韃靼の一楕円 加藤郁乎
冬の波冬の波止場に来て返す 〃
最初の「一満月」の句は「一」の後に漢音の熟語を重ねているので硬質のリズム感が生まれている。極寒の韃靼の凍てた夜空の冷たく光る満月、その光が楕円形に地を囲み、そこに囚われているような気分になる。
「冬の波」の句は何か深い虚無感のような後味が心の襞に残らないだろうか。
その理由はこの俳句の「無意味さ」のせいである。
冬の波が冬の波止場に寄せては返している、というのは散文の意味としては「当たり前」のことだ。「当たり前」というのは、それ以上の意味は何もない、という無意味の「意味」を指す。
伝統俳句の「写生」論でこの俳句を鑑賞する限り、この俳句にそんな「無意味さ」を読み取ることはないだろう。冬の波止場のあるがままの様子を「写生」的に詠んだだけだという鑑賞に収まるだろう。
だがあの諧謔の俳人、加藤郁乎が、ただそれだけのためにこんな句を詠むわけがない。郁乎はたとえば、
切株や歩く銀杏銀の夜
というような俳句を詠む人だ。一見、幻想的な美しい叙景句に見えるこの句には、諧謔に満ちた仕掛けがある。
きりかぶや ある、くぎん、なんぎんの よる
と音節を切り直して漢字変換をすると、
切株やある苦吟難吟の夜
と、諧謔的な意味の句に変身を遂げてしまう。そんな遊びもする俳人である。
「冬の波」の句の無意味さには、この諧謔精神に支えられた別の意味があるのだ。ここで言う「無意味さ」は、論理学では「自同律」的無意味に当たる。
「自同律」とは同じこととの繰り返しの中でも、自己言及的な閉ざされた論理回路の中で完結してしまっている、最もやっかいな繰り返しである。
どういうことか。
例えば「私は」が主語である文章表現の場合、「私である」をはじめとするどんな言葉を述部に持って来ても、客観性を持った表現には決してならない、ということだ。
「私は私である」と私が言うこと自身が、自同律であり無意味だからだ。それが真実であることを証明する「場」、つまり客観性があらかじめ欠如しているからである。
この論理学の自同律を文学の分野で、存在論的な「不快感」として初めて表現したのは埴谷雄高だった。人間という存在である「私」は言葉において自分を客観的に説明できない。だから人は「神」のような架空の絶対者に身を任せ、その空虚な価値観に絡め取られてしまうのだとして、文学における「神」的なものとの壮絶な闘いを繰り広げて見せた。文学という「究極の主観」の解放と自由を希求する文学的闘いだった。
この加藤郁乎の「冬の波」の句は、そのような文学表現的な認識を背景にした俳句だといえるだろう。
郁乎はこの俳句で一見、伝統俳句的に見える表現で、言葉に対する深々とした絶望感と虚無感を表現しているのだ。
先に触れた橋本多佳子の俳句にも、この郁乎俳句と同質の自同律的虚無感を読者は受け取るだろう。
千葉信子氏のリフレイン詠法の俳句は、この郁乎俳句のような不穏当さや、諧謔性とは全く異質であるが、この詠法に彼女の表現主題(文学的主題)と不可分の、特別な思いが込められているという点では通底するものがある。
千葉信子氏が師事していた加藤楸邨にはこんな句がある。
枯れゆけばおのれ光りぬ枯木みな
木の葉ふりやまずいそぐなよいそぐなよ
毛糸編みはじまり妻の黙はじまる
春愁やくらりと海月くつがえる
つひに戦死一匹の蟻ゆけどゆけど
楸邨の句はリフレイン詠法と意識して使っているのではなく、句の含意に合う表現を求めた結果こうなった、という感じが強い。だからこの技法について特別な思い入れはないような気がする。
同じ楸邨に師事するものとして交流のあった金子兜太氏には、次のような句がある。
海に青雲生き死に言わず生きんとのみ
頭痛の心痛の腰痛のコスモス
霧に白鳥白鳥に霧というべきか
富士二日見えず遠離の富士おもう
死火山屋島菜の花どきはかもめかもめ
兜太氏の場合はリフレイン詠法を意図的に使っている感じがある。でも後述するようなこの詠法を俳句に不可分の独立した技法として発展させた千葉信子氏のような特別な意識ではなく、使い方は一般的な繰返し、重ねに留まっている。楸邨と同じ含意のための技法である。
千葉信子氏が同人だった「青樹」の主宰である長谷川久々子氏が師事していた飯田龍太には、彼が確立した風土俳句の代表作といわれる句と、他に二句がある。
一月の川一月の谷の中
風ながれ川流れゐるすみれ草
手毬つく毬より小さき手毬唄
これも含意に添った繰り返し技法であり、他にこの技法の俳句を見かけないので多様した形跡はみられない。
長谷川久々子氏にもリフレイン詠法の俳句がある。
雨の沙羅雨あとの沙羅うす月夜
ふた親に二つともしび朧の夜
やさしい韻律が語感と句意を満たしているような俳句である。これは千葉信子氏のリフレイン詠法俳句にかなり近い。だが長谷川久々子氏のこの二つには遠くで祈っているような思いを感じるが、千葉信子氏のリフレイン詠法俳句は、その俳句が詠まれている人生の、その時を丁寧に生きている人間の息遣いに満ちている。
そんな明確な違いがある。
長谷川久々子氏には次のような作品がある。
涅槃図の嘆のさまざま地を叩き
誰が死んでも仙人掌仏花にはならず
たましひの糸引くやうに桜しべ
極寒の蓋とれば塩ねむりゐる
雪しんと一人の音はすぐ消ゆる
作句法も千葉信子俳句とかなり似ている。
だが、二人のリフレイン詠法の違いに表れているように、自分と人々の思いを遠くやさしく見詰めているのが長谷川久々子俳句だとすれば、千葉信子俳句はそのことを自分のこととして、その場、その時を生きている息遣いを表現していると言えるだろう。
そこが、私が本稿で千葉信子俳句が現代俳句的だと断ずる所以でもある。
実例を紹介して鑑賞する前に、長々と前置きをしたが、それは千葉信子氏独特のリフレイン詠法の俳句が、鑑賞に当たって心の準備が必要な俳句だからだ。
千葉信子俳句はリズムがいいので、さらっと読み飛ばしてしまう畏れがある。この俳句の質の高さと繊細さ、丁寧に、その日その時を生きる人の息遣いを読み取るには、鑑賞者のそれ相応の感度と覚悟が求められるのだ。
二冊の千葉信子句集には、このリフレイン詠法の使用度がかなり高い。それだけではなく、それが独特であるという顕著な特徴を持っている。
そこに表現技法も含む、千葉信子氏の中心的思いの表現、つまり文学的主題の独創性の秘密があるような気がする。
そんな私の仮説に基づいて、その作品の鑑賞を試みることにしたい。
Ⅲ リフレイン詠法が生み出すリズムと心の在処
この章では、二冊の千葉信子句集に収められたリフレイン詠法の作品だけを抜き書きして鑑賞してみよう。
まず『縦の目』から。
『縦の目』
昭和二十七年〜六十年
次男誕生
胎の子にほたるほうたる降るは降るは
霧くぐりくぐりて小舟つなぎけり
萩のかげ萩にもどして吹き初むる
寒卵ふたつ男の子がふたり
独楽をうつ眸のなかの独楽逸れる
野火にたつ風おのづから火の色に
これだけ引用するだけでも、加藤郁乎、橋本多佳子、加藤楸邨、金子兜太、飯田龍太、長谷川久々子氏たちのリフレイン詠法俳句とはまったく違う、独特の千葉信子俳句世界が感受できるだろう。
このやさしさに満ちた俳句的しぐさにおける、この上もない丁寧さは、他の俳人の作品にはないものだ。
たとえば「胎の子」に「ほたるほうたる」と呼びかけるように「降るは降るは」とやさしい思いを降り頻らせている、温かな思いの重ね方。
たとえば「霧」という視界不全の中を、「くぐりくぐりて」、愛しむように不安に揺れる「小舟」を岸につなぐしぐさのやさしい重ね方。
たとえば「寒卵」を掌(たなごころ)に包むように、吾子ふたりを重ね包む愛しみ方。
多忙さを増しゆく現代社会の暮しの中で、なかば上の空で生活している現代人が、はるか昔に手放した「丁寧」な「生き方」をここに感じないだろうか。
今あるこの命の、この場と時間を丁寧に生きるその息遣いのリズムがここに表現されている。それは即ち、作者が日々をそのような立ち振る舞い、そんな矜持で生きているからこそ生じるリズムである。
千葉信子俳句では、俳句表現技法的とその「生き方」は不可分の関係にある。そんな生き方でなればこの技法は生まれず、この効果も生じようがない。
だが反対にそんな生き方が出来ていたとしても、すぐこんな俳句が詠めるわけではない。それには天性の才能と弛まぬ俳句的鍛錬の賜物でもある。
そして最も重要なことは、そんなことを一切感じさせないような、まるで「吐く息」のように声を出して謡われたような自然さで、じわりと滲み出す究極の優しい心根が感じられる。
たとえば「萩」のものである「萩のかげ」を「萩」という命の主体の切り離せない属性として「もどし」てあげる心。そのやさしい「吹き」方。
たとえば「野火」を燃え立たせる「風」は、風である自己を限りなく、命の主体である「野火」に「おのづから火の色」にして寄り添うことで、「野火」と一体となって命を燃え立たせるという生き方。
それは皺立つ日々の暮しという薄紙の皺を伸ばしのばすような丁寧なしぐさで、一枚いちまい、愛おしむように「重ねかさね」てゆくような温かい命のリズムである。
それは先に揚げたどの俳人にもない、千葉信子俳句のリフレイン詠法俳句の特性である。
昭和二十七年〜六十年は作句が途切れそうでも継続した期間である。だがこの後、作句生活は一時中断する。実生活において嵐のような激動の季節をくぐり抜けた時期だったのだろう。普通はそのときの激しい体験が実作に直接的に反映してしまうものだが、千葉信子俳句は、平成五年に作句を再開しても、静かな呼吸を乱すことなく、逆に深みを増した形で表現世界に着地している。
後しばらく、私の解釈を施さず、リフレイン詠法俳句を選出して並べるだけにする。読者各自、その円熟のリフレイン詠法俳句が醸し出す、芳醇で丁寧な生き方の息遣いを堪能していただきたい。
平成五年〜九年
母立てば母に風たつ炭ひさご
猫がきて猫とでてゆく初桜
平成十年〜十二年
おぼろ夜の埴輪の馬を曳く埴輪
すこしづつ覚めすこしづつ土雛
蓑虫の一再ならず蓑の丈
平成十三年〜十四年
カフカ閉づ黴の臭へる黴のいろ
弔電を打つ露分けて草分けて
蛇笏忌の膝抱きて膝尖らせる
木の筥のなかの木のはこ春隣
己が影己に倣ふ寒さかな
平成十五年〜十六年
川越ゆる風船の沙汰雲の沙汰
あかんぼが赤ん坊にふれ桃の花
奈落には奈落のならひ梅雨の蝶
しやぼん玉はじける軽さ浮く軽さ
髦にほうたるのつく凛と点く
リフレイン詠法俳句を抜粋するだけにするつもりだったが、もう少しだけ講釈をさせていただきたい。
髦(たれがみ)だから、前髪が眉のあたりまで垂れた子供の髪形である。つまり自分の子の髦に「つく」螢の火が「点く」さまを詠んだ句だ。読み過ぎかもしれないが髦の字義には「秀でる」の意も持つ。賢そうな吾子のキラキラ光る瞳の上の、髦に付いた螢火まで「凛と点く」と表現されている。その細やかな愛に溢れた眼差しがここにある。
この平成十五〜十六年の句には弾んでいるような命のリズムを感じる。
千姫の菊ひとかかへふた抱え
癌告知甘柿の種甘柿に
読後、平然としていられなくなる句だ。作者が平然と「癌告知」を受け止めているようにみえるから猶更である。癌細胞は身体という器がなければ存在し得ない。柿の種は柿という器がなければ生じない。「同じことよ」と作者が微笑んでいるように感じるから身震いしてしまうのだ。「もちろん、そうですが…」と、私は敢えて問うてみる。「でもなぜ、甘柿なんでしょうか」
すると作者はこう応えそうな気がする。
「甘いも渋いも生きてることの証よね。この場合は渋くっちゃいけないわ」
感服。
虎落笛湯玉をつぶす湯玉かな
この句については長谷川久々子氏の次の鑑賞文がある。
「虎落笛」の句は単なる写実ではなく、対象を凝視して得られた感動が、詩に昇華した句。沸騰した湯玉はやかんの湯であろうか、沸いたのを音で知らせるものならば、「虎落笛」の季語の捉え方に緩みがない。
長谷川久々子氏が主宰だった「青樹」という会派は、千葉信子氏のような感動(つまり観念)を造形する現代俳句のような作風も容認した伝統俳句派だったのか、そうではなくて、この会派の中で、千葉信子氏だけが独特な存在だったのか、私には知るすべがない。長谷川久々子氏の「鑑賞」の視座は伝統俳句派の流儀の内で慎み深い。
もう少し踏み込んで味わってみたい。
表現する句の中に表れるあらゆる「もの」が受け身ではなく、能動的に行為をするように詠まれている。それは千葉信子氏が伝統俳句派的な「観察者」の座を降りて、自分の心の中の現実を生きて行為するように詠む現代俳人に他ならないからだ。
この句の場合も、「湯玉」が「湯玉をつぶす」という行為を生き生きと繰り返している。「つぶす」などという生存競争の殺し合いのような語句を用いながらも、殺伐とした景ではなく、ほのぼの温かく感じるのはそれが文字通り、「湯玉」という熱を持つ「生きる」姿の喩だからだ。ここには子孫代々へと生を繋ぐべく繰り返される、悲壮感など微塵もない楽し気な生のリズムがある。
平成十七年
髪を梳く髪みなうごく良夜かな
こうして処女句集『縦の目』の世界は完結している。
句集の「あとがき」文の最後には次の句が置かれている。
息吸うは一瞬ほたる初螢
千葉信子俳句世界を象徴するような俳句である。
この度上梓された句集『星籠』では、この完成の域に達している千葉信子氏の独創的なリフレイン詠法俳句は、どうなっているだろうか。その軌跡を追ってみよう。
『星籠』
二〇一一年(平成二十三年)
※『星籠』では西暦表示になっているので、『縦の目』と合わせるために括弧内に元号を付記した。
さくらさくらナースコールを押し続け
告白も告知もありし寒昴
二〇一一年、戦後日本の病理と闇が露呈した東日本大震災が起こった年である。千葉信子氏は闘病のベッドの上に居た。その特徴的なリフレイン詠法俳句も、この二句のように緊張感に満ちた内容で始まり、『縦の目』から継続している。
桃熟れて嫌ひな人を嫌ふなり
病室の上も病室つちふれり
高層建築の大病院の一室に幽閉されているような闘病の姿と、しっかり今を見詰める眼差しを感じる俳句だ。
とけはじむ塩のまはりに塩の春
白きもの白く炊きあげ月の寺
道標の雪のよごれは雪が吸ふ
トンネルの先もトンネル山笑ふ
胡桃には胡桃の在所母の声
川あれば川をのぼりて稲の花
髪ほどく髪みなうごく良夜かな
「髪ほどく」の句は平成十七年『縦の目』の最後の年に詠まれた「髪を梳く髪みなうごく良夜かな」と対をなしている句だ。「梳く」「ほどく」の違い。「梳く」は日常の一コマで、「ほどく」は闘病中の一コマの違いか。その微妙な差異の手触りも句に捉えてしまう。
雀いろどき菜の花は菜の高さ
二〇一二年(平成二十四年)
睡るには桜が足りぬ血が足りぬ
すずなすずしろ嬰あやすごとすすぐ
さくらさくら雨になる雲ならぬ雲
鬼になる子もならぬ子も柿齧る
雪に産みまた一人産み吾子とよぶ
「雪に産み」の句はもちろん回想句である。千葉信子氏の出産と育児も男二児のリフレインでもあった。それが降り積もるような雪の記憶と重なり合う。
二〇一三年(平成二十五年)
寒卵も卵キルギスはキルギス語
これが郁乎俳句だったら自同律的無意味感が漂うとこだが、千葉信子句集の中に置かれていると、その過不足の無い自己同一性のような、生の確かさに触れるような気持ちになるから不思議である。それは次の句にも共通する。
左手のための右の手トマト煮る
さくらさくら閂のごと風生まれ
数へぬと決めし螢火かぞへてる
白桃の傷ひとつなき明日は明日
「白桃の」の句は巷で言う「明日は明日の風が吹く」の楽観ではない。「傷ひとつなき」生の充実感の表現である。
二〇一四年(平成二十六年)
粽結ふ親指小指嫁の指
月光の食べたいものを食べにいく
煙突は煙突のまま巴里祭
春隣歩けるところまで歩く
この年のリフレイン詠法俳句は眼差しがどこか遠くに投げられている雰囲気がある。「粽結ふ」の句は懐かしいわらべ歌のような響きで、「月光の」の句はファンタジック、後の二つは望遠の句である。
この年の、リフレイン詠法ではない他の句は回想、異郷への思いなどに混じって、闘病中であることをうかがわせる俳句が多い。
この次の年、二〇一五年(平成二十七年)は収録句がなく、空白の年になっている。病状が悪化し辛い闘病生活を送られたのだろうと推察する。
そしてこの句集の最終年を迎える。
二〇一六年(平成二十八年)
釜石の秋刀魚よ尖るだけ尖れ
楸邨忌根のあるものは根を太く
あきる野の雨雨雨雨草田男忌
すすきするかや其処までとこれまでと
鬼になるあそびビー玉うつあそび
穴惑ひ日向ちいさくちさくなり
馬冷やす未だ塩の道塩の道
父に父ありて積乱雲太る
硝子切る音も紙裂く音も寒
句集の結びの章のリフレイン詠法俳句には、これまでと比べるとやや緊迫したリズムを感じる。厳しい闘病中の身体のリズムを反映しているのだろう。
以上、『縦の目』に二十五句、『星籠』に三十五句、合計六十句もリフレイン詠法俳句が収められている。
これはただの個人の趣向というに留まらないことである。通常の作句の常識で言えば、季重なりを嫌うように、同じ語句を一句の中に使用することは、なるべく避けようとするものだ。他の俳人たちの使用例を見ても解る通り、特別な意図があって使用する以外には滅多に使用されない作句法である。
そのような、どちらかと言えば作句上「忌避」される方法を多用し、自分の表現主題(文学的主題)を表現する技法として使いこなし、磨き上げていることは、俳句表現史上、特筆すべき功績だと言えるだろう。
千葉信子俳句は忌避される傾向の強い語句の繰り返しを、「リフレイン詠法」とでも名付けるべき優れた技法として確立し、俳句の表現世界を豊かにしたのだ。
そして最も大切なことは、自分の切り拓いた詠法によって、命の現場、その日その時を丁寧に生きる命の息吹きという独自の表現主題(文学的主題)を、巧みな造形的表現で成し遂げたことである。
Ⅳ 命の息遣い・胎動・彩の中を行為する俳句世界
この章では、リフレイン詠法以外の句を抜き出して鑑賞し、リフレイン詠法俳句で見た千葉信子氏の表現主題(文学的主題)が、どのように表現されているかを検証しよう。