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水の惑星で生きる花との関わりを記述する  ――林桂句集『百花控帖』をめぐって

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  水の惑星で生きる花との関わりを記述する 
                     ――林桂句集『百花控帖』をめぐって 

                                                 (現代俳句協会 令和三年十一月刊)

 
     ※ 本句集にて第77回現代俳句協会賞を受賞されました。
       心よりお祝い申し上げます。 
 2022年8月30日記    

    

 先ず本書の「あとがき」から著者のことばを以下に摘録する。
    ※


 (略)花を詠むとは、花そのものを書くというよりは、その関わり方を書くことだったと、まとめながら思ったことだった。(略)
 花という装置の不思議を改めて思う。地球は水の星と言われるが、また花の星であろう。喪失を癒す花がなかったら、地球はどんなに淋しい星になっていただろう。(略)
    ※


 引用文の最初のことばは、季語の本意、季語としての花そのものを詠む伝統俳句の手法とは別次元で、花との「関わり方を書く」という視座が提示されている。花と時空を共有する中での、己の生のあり様と花との関わりを書くという意味だろう。現代俳句としての矜持であるかのような見解でもある。
    引用文の後の方のことばに、わたしが特に共感するのは、(水の惑星ともいわれるこの地球に)「喪失を癒す花がなかったら」という、作者が花というものに投げている視座の在り方だ。


 梅花(ばいか)卯木(うつぎ)に花むぐりゐる水の星

   この句の含みいる思いとも通底していよう。「むぐり」は「潜り」の古語的な読みだろう。水鳥の「かいつぶり」の意味もあり、その潜水、潜在感を広げている。
     これは日本詩歌の原初のあり方のアナロジーに、わたしには聞こえる。
わたしは、詩歌のはじまりは大いなる喪失という悲劇に纏る口誦的な「うたい」であったものだと理解している。だから林桂が花の存在意義のようなものとして、「喪失を癒す」という側面をいちばんに取り上げている感性に、「うた」に対する視座にも通底するものがあるに違いないと憶測するのである。
      この二つのことばに、この句集を編んだ林桂の創作動機、表現意図、そして方法論が暗示されているように感じた。
     それはわたしが林桂の近年の一連の試行のあり方に感じていることとも通底する、もっとも重要なことでもある。
   それは「いわずに言う」「語らずにかたる」という詩歌の骨法であるとわたしが近年思うに至っていることの視座から生じているものである。
    近代文学は作者があらかじめ表現において、ある企み持つ「主題」の提示を主眼としているように感じている。
 だが近代小説がそうであっても、そもそも詩歌というものは、その原初の口誦の「うた」としてのはじまりにおいて、「主題」はわが内にあるものではなかったのではないか。「うた」の生まれる現場にあったのは、ただ「うたわずにはいられない」という純粋衝動だけであり、自分も含む現世過去世に疑似体験する、大いなる喪失体験としての悲劇こそが「うたいたい」衝動を突き動かしたものではなかったか。


 長病(ながやみ)の幼馴染よ夏水仙


 不治に近いような病が罹患者の一生に取り憑き、健常者とは別次元の命を生きることになる近親者の象徴である「幼馴染」の、幼少にして負わされた宿痾に心傷めている句だろうか。そこに添えた「夏水仙」として、作者はその他者である運命に関与し寄り添わむとする表現のように感じられる。
「かたり手」はその自分自身のものでもあり得た喪失体験としての悲劇を、それを被って果てた幾多の魂たちに成り代わって「うたった」のが、詩歌のはじまりではなかったか。近代文学が、三人称を主人公として書いている場合も、あくまでも自己表出という近代文学としての形式の内に留まるのに対して、古代からの口誦的「うた」の本質は、「他己表出」的な衆人としての土俗的文化の暗黙の共有としての「うた芸」だったのではないか。
林桂が花そのものを詠むのではなく、喪失を癒す花との関わりを書くと、「まとめ」文に書いていることに、このような意味合いにおいてわたしは共感する。
   そしてこのことは、高柳重信が「俳句は形式が書かせる」といったことばの理解のしかたに含まれることであると思う。
   わたしはこれを単なる定型などいう形式の重要性を説いたことばだとは解さない。
    詩歌としての韻律の型に準ずることによって、逆に自己表出という、近代文学観の閉塞感を超えた表現の地平を拓くという含意のことばと捉えている。
   近代文学の文学的自己表出と主題主義では、自我という近代の檻を破ることは困難である。それに囚われることなく、ただ定型などの詩歌的韻律に何を盛ることができるのかということを主眼とし、試行する営為の中に、「わたくし性」を超えた、自由な表現の可能性も拓けてこよう、という含意のことばであり、真の自己という固有性という意味での独創的「わたくし性」は、その営為の中にしか生じ得ないものではないか、という問いかけとして受け止めたいのである。
    林桂が近年試行している「動詞」「頭韻」という「形式」に準じることで、逆に表現の自由な地平を拓こうとしている営為も、以上の文脈の中で共感している。
    その試行から、何が可能なのか、その器から何が引き出せるのか、そこに関与する「わたくし性」はどんな可能性と不可能性を顕在させるのか、そんなことを問うている試みのように受けとめている。
 この句集『百花控帖』が、近年の俳句表現に多く見られる、狭い意味での境涯詠とは一線を画しているように感じられるのは、林桂のこのような姿勢に感じられる視座ゆえではないだろうか。

    では『百花控帖』において、林桂はどんな可能性と不可能性を顕在化させたのか、その試行に関わることによって、ほんのりと可視化される林桂固有の「わたくし性」の秘密を、作品に即してうかがってみよう。
一頁一句の明朝太字体という編集にも驚かされるが、その黒々とした巻頭の句が次の句だ。しかもかつての印刷物文化にあったような総ルビ表記である。(失礼だが、読みが重要である場合を除いて、本稿の引用ではルビは省いて表記させていただく)


 花薄巨石は神となりにけり


   花薄は風に揺れることの象徴のような花だ。それと地球時間の地学的凝結物としての巨石に聖性を見出す古代的感性を対比させる表現である。秋という四時のひとときを揺れる花薄の限定的時間と、地球が岩石を生み出してから現在・未来を貫いてゆく時間の表現に、ことばとしては登場しない「わたし」という存在の束の間の関与が暗示されている表現といえばいいのだろうか。
花を生かしている水のモチーフは当然すぎるので、まず動態としての「風」の中に置かれた花との「関わり」具合を調べてみよう。


《風》
 二の腕に風の来てゐる稲の花
 海からの風の中なる桔梗かな
 秋桜の花影花に揺れてあり
 夕焼や吾亦紅にさす風の影
 夕風に明日咲くべき牡丹かな
 白(は)木蓮(くれん)に風の道空く光かな
 山薫る躑躅見に来(こ)し風の中
 風出でて午後をひかりの土佐水木
 百年を風と遊んで花茅萱
 十一人ゐて夏萩に風止まず


   風を含むこれらの句を、こうしてまとめて読むと、風の中に置かれた花たちの時空の中に、人間であるわたしを含む誰かが、共に在り、何かしらの思いを揺らしていることが明確に感じられる表現になっていることに気付かされる。
十一人ゐて夏萩に風止まず」の句からは先ずサッカーのことを想起する。      少年サッカーの八人制が大人の十一人制になるとコートのサイズが倍になる。そのサイズに空間の把握と動きの制御を学び直す必要がある。つまりこの句の十一人はそのようなことを踏まえた、少年期から思春期、青春期、青年期の過渡期のこころの揺らぎが風に揺れる萩の姿に託されているのかもしれない。十一人という数字からは他に、鎌倉攻めの際の十一人塚や、黒沢映画の集団抗争時代劇『十一人の侍』、萩尾望都の青春友情恋愛ミステリー漫画『11人いる!』も想起する。何か悲劇や危機を孕んだ象徴的な数字のようだ。

《明かり 照り 光》
  花終はり続けて木槿明かりかな
  山落暉野に紺色の菊照りて
  空の彼方に海あるひかり曼珠沙華
       母と訪ふ日向明かりの梅の園
       しののめの光りそめゐる花辛夷
       菜の花に身体(からだ)明るくして戻る
       ひさかたの光を開くチューリップ
    光の中に垂れてひかりの藤の花
    白木蓮に風の道空く光かな
       風出でて午後をひかりの土佐水木
       花菖蒲脂(あぶら)のごとく水明かり

    光という陰影の中に置かれた花たちと共に、私たちの身体という直接性の中にも光は差し込んできている。「菜の花に身体(からだ)明るくして戻る」という官能を花たちも、今ここで、という実存的な時空を共有している。

 《翳り 暮れ 闇》
  茶の花の翳りそめゐる昼の月
  暮れ泥むもののひとつに花馬酔木
  捩花の日ごと日暮を惜しみけり
  紫陽花や地球半分翳りつつ
  泰山木の蔭に翳りて仰ぎゐる
  夕闇の始めの螢袋かな
  九輪草庇の影を出でて午後
  柿の花集まるところから翳る

 陰や闇は単に光の属性として発生している現象ではなく、命の実存的陰影を深め、命そのものの実存性を際立たせるものとして表現されているように感じる句群である。「紫陽花や地球半分翳りつつ」は咲き切った紫陽花の球形をなぞるように、地球という影ある球体を出現させて、太陽に照らされて共に在る命として、そこに存在し恥じる。それに立ち会う人の命も同じである。

《匂い 香》
  大学に海の匂ひす葉鶏頭
 男郎花錆びて匂へる父の鉈


 花ならば色形と匂いだろう、というのが定番の認識だろう。だがこの句集では立った二句だけである。それも青年と壮年の男性的な身体の匂いという実存性を表現するに留めている。花といえば女性的な色形や匂いという通俗性が拒否されている。

《家族》
  蠟梅や母の忌近づきつつ遠し
  男郎花錆びて匂へる父の鉈
  娘(こ)のために使ふ一日花八ツ手
  母と訪ふ日向明かりの梅の園
  満天(どうだ)星(ん)や父恋ひ蟲を花影に
  妻留守の陽の中に出すシクラメン
  蒲公英を点して母へ帰るなり
  出征の日の父麦の花一列
  父母の死にたる家の花通草
  月下美人へ兄呼んでくる弟よ
  母死後を千年生きき花秋(オク)葵(ラ)
  花茗荷溶けて母郷や母の亡き
  母逝きて独逸(ジャーマン)菖蒲(アイリス)風を生む
  夏椿薄明薄暮を姉とゐる

 この圧倒的な表現力。ここに来て、私たちはこの句集の真の主題は「家族」だったのではないかと、思案させられることになる。ここから浮かび上がる家族という主題性を、直接的に俳句に詠んでいる句はたくさんある。だがこの動かしがたい実存性に比すればものの数ではないだろう。これらの句の中の花と人の命には、それを包む地球という今もある。だが多くの句には添え物のような、記号としての季語しかない。季語という死んだ花という命が、ともにある人の命との関係性の中で、命を取り戻しているかのような感慨を受ける表現である。
 
 他にも印象的な句がたくさんがある。


  南蛮煙管を誰にも言へぬ日暮かな
  人流の絶えて久しき蘆の花
  とこしへに戦前にあれ石蕗の花
  まだ人が空飛ばぬ日を百日紅
  花瓦斯てふ言葉のむかし合歓の花
  花柘榴漱石を持つ子規がゐて


「南蛮煙管」の句は何か悪徳の秘密を抱えてしまったような雰囲気を感じる。
「人流の」の句は新型コロナウイルス感染症流行の世相の中で多用されたことばをふくむので、屈折した思いが湧く。
「とこしへに」の句は「あり」なら傍観者の視座だが、「あれ」で祈りの想いが付与されているように感じる。
「まだ人が」の句は自然が人工物に溢れた環境へと変貌してきた近代を思ってしまう。
「花瓦斯てふ」の句の「花瓦斯」は種々な形にきれいに飾り立てたガス灯。装飾兼用の広告灯として用いられた。一八八九年パリの万国博覧会で使用されたものであるが、これをそのまま真似たものといわれる。このほか一八七六年六月、新富座の再建時にともされたガス灯のサインであった花瓦斯なども、一種のイルミネーションであるという。時代の変遷というよりも、一時代のパラダイムに縛られて生きるしかない命の象徴のように感じる句である。

「花柘榴」の句は下手な鑑賞文さえ拒絶する秀句であろう。これを読む人毎にそれぞれの思いが沸き起こる筈である。
最後に付言すれば、個人的には次の童遊びうたのような響きを持つ句がこよなく好きである。


  立葵〈ぽこぺんぽこぺんだーれか〉


句集『百花控帖』は次の句を掉尾として巻を閉じる。


  藪萱草山河神代のままになく


 花が蕭々と生きてきた神代の山河を私たちは喪失している。その悼むべき山河とわたしたちの心象へ、『百花控帖』の俳句は、まるでその「喪失を癒す」かのように咲かせ置かれている。
                                                                                                                                                 ―了


 

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