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「むじな」2024



 
 俳誌「むじな」は、東北の若手による結社横断的な仲間の俳句会で、その活動の集大成として、年末に刊行される誌である。
 私の所属する結社「小熊座」からは、編集長の及川真梨子、副編集長の千倉由穂他数名が参加している。
 俳誌は会員のその一年の代表句のページと、会員の動向、そして毎号、独特の視点の特集記事が掲載されている。
 今号は「座談会 分からない俳句」という企画で、各自が選出した難解俳句について、多角的な視点の議論を掲載している。
 難解句を是としない俳句会だという印象を抱いていたので、真面目に何を手懸りにすれば、「分からない俳句」も、かろうじて、どんな鑑賞が可能なのかと真剣に討議していることに、意外性を感じた。排他的な姿勢がない公平で大らかな姿勢の会員たちの集まりなのだ、と認識を新たにした。
 作品の良し悪しに言及しないのは、公平ではあるが、会としての纏まりのある一定の俳句観や、価値観なども不問する点に、独自性があるということだろうか。
 
 今号は代表の浅川芳直の第十五回田中裕明賞と、第二十回日本詩歌句随筆評論大賞のダブル受賞が報じられている。


 それを受けて、「第十五回田中裕明賞受賞式所感 代表句・ワンダー」と題して、浅川芳直が受賞のことばを掲載している。
 その後半部分を以下に摘録する。
      ※    
地味でも真面目な句というのは、自分を一旦捨てて対象に没入することで、無自覚な自分の感情が、自然から反射されているような作品だと思います。大向うを張った目立つ句を目指して努力するというのは自分の作り方ではありません。作者の人間味によって二つとない作品になるような、読み継がれて嫌味のない句を目指したい、と言うのが今の気持ちです。対象に向き合って、凝視のあとは一気に言葉を凝集させる知性がほしいものです。清水が湧いていたら、驚く前に、ごく自然に両手で掬して自然の恵みをいただく、そんな経験値と勇気とを持ちたいと思います。
 会場でのスピーチは、ワンダー(驚異)を目指さない、という
趣旨を述べたつもりです。
(略)ワンダーではなく、自然体で受け止め、納得した言葉を求
めたいというのが自分の気持ちです。
 技術については一応認めていただいたと思うので、今後は技術から態度へ、自然への態度、姿勢の崩れなさを追求してゆこうと思っています。

       ※
 俳句表現技術としては、一定の評価をされたのだという認識で、この受賞のことを受け止めているようだ。
「自分を一旦捨てて対象に没入することで、無自覚な自分の感情が、自然から反射されているような作品だ」というのが、彼が大切にする俳句観だと述べている。これはわたしの記憶違いかもしれないが、虚子とその仲間や弟子たちも言っていた、自我を捨てて、主に自然などの対象に没入するという俳句観だったと思う。
 そして、「驚く前に、ごく自然に両手で掬して自然の恵みをいただく、そんな経験値と勇気」は、主観を表現に持ち込まず、その姿勢を貫くことで、自己の中に自然に形成される何かを発見してゆきたい、という考え方のようだ。
「地味でも真面目な句」を自己の俳句の王道とし、「自然への態度、姿勢の崩れなさを追求してゆこう」という作句姿勢は、自己表現より、俳句を日々詠むことが、生きることと同義である姿勢でもあろう。
  最初から文学的な自己表出や社会批評性を大切にすると公言する俳人たちの、俳句に対して「目的論」的に向かい合う人に多くみられる、陥穽からは自由な姿勢だろう。
  俳句は短いので、一句ごとの文学的自己表現や、社会批評のための「目的」のために詠むには向かない。作品世界が限定され、狭く浅くなる傾向がある。
  文学性や批評性は俳句を詠む俳人の「姿勢」の問題であり、俳句作品自身の「目的」や手段ではない。
  それらのことは、その俳人が句作を重ねてゆく行為の過程で、その俳人の生きる姿勢として徐々に明らかになってゆくものである。
  そこで見えてくるものが、日々の境涯詠の集積だけであっても、それが元々俳句を詠むことの第一義であって、それはそれでいい。
  そこに、他にはないその俳人の生き方から浮かび上がってくる、もっと奥深い文学性、批評性、固有性、独創性が浮かび上ってくれば、それはそれで読み応えがある作品集となるだろう。
  それが、彼がいう「作者の人間味によって二つとない作品になるような、読み継がれて嫌味のない句を目指したい」という姿勢のことだろう。
  そういう視点で、この若手俳句仲間の「むじな」の明日と、代表の浅川氏の今後の発展を楽しみにしたい。
 
 

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