現代俳句界の表現多様化の見取り図―堀田季何「明日も春を待つー俳句の十年後の問題」
終刊となっている「季論21」という総合誌にかつて、「楽園」主宰で現代俳句協会幹事の堀田季何が、俳句界の未来を展望する論考を寄稿している。
堀田は「俳句は認識の瞬間を強調する詩文芸」だとする視点を提示している。
伝統俳句とか、前衛俳句とか、死語となりつつある大雑把な括りを使わず説明しようとしている。
「その認識は、内容だったり、言葉だったり、音だったり、文体だったりすることもある。」
作者が表現のポイントをどこに置いているかで分類する視点であり、分かり易い。
そして従来の俳句は長い間、一番の「内容」を伝えることが表現の主眼とされてきたと解説する。その例句として次の句を揚げている。
〇 内容表現派
流れゆく大根の葉の早さかな 高濱虚子
戦争が廊下の奥に立ってゐた 渡邊白泉
この「内容」表現派は今も多数を占めているが、堀田の分類ではそれが大きく二つに分類できると解説している。
一 古風巧(たくみ)派
伝統以上に伝統、いや、古風を志向しつつ、内容は類想を怖れずに、表現の巧みさに注力する方法
梅東風に荒々と蛸煮てゐたり 堀下 翔
喪ごころや麦茶の中をうごく茶葉 柳本佑太
枯蓮の上に星座の組まれけり 村上鞆彦
「内容」派はこの「古風巧」派以外に、
二 現代を句に反映させる表現派
これは四通りに分類できると堀田は解説している。
A 平凡な事物を特異な認識で捉え、読者へ面白くみせることに腐心する表現
例句 焼鳥の空飛ぶ部位を頂けり 岡田一実
焚火より手が出てをりぬ火に戻す 山田耕一
B 重たい(ヘビーな)内容でも深刻さ感じられないほどライトにする表現
例句 門松が対空砲のようにある 福田若之
春はすぐそこだけどパスワードがちがう 〃
君はセカイの外へ帰省し無色の街 〃
C 現代社会における重たい(ヘビーな)内容を読者にそのまま重く(ヘビーに)突きつける表現。
これは新興・前衛俳句の師系に連なる俳人によって長年詠まれてきた方法。
例句 車にも仰臥という死春の月 高野ムツオ
原子炉を遮るたとえば白障子 渡辺誠一郎
この高野ムツオは「小熊座」の主宰で、渡辺はその初代編集長であり、私もこの結社に所属する。師系は佐藤鬼房と金子兜太、兜太の師は加藤楸邨である。
この表現系列に当たる若い世代の例
人類に空爆ある雑煮かな 関 悦史
ビルディングごとに組織や日の盛 高柳克弘
社会的距離たんぽぽと私の距離 神野紗希
アフガンの起伏に富める蒲団かな 堀田季何
堀田自身もここに位置づけているから、彼女の結社「楽園」も同じだろう。
個人的な好みで偏見を述べさせていただくと、同じ「派」に属すると思われる、これらの俳人の句を、今はわたしは余り好きでなくなっている。
私もこの傾向の句を詠んできたが、やはり、頭の中だけで作っているような限界のようなものを、最近、感じている。
この方法を、もっと「わたし」という命の実感の現場から立ち上げる方法が、好ましいのではないかな、と最近、思案しているところだ。
D 意味そのものよりも内容が醸し出す空気感や雰囲気を売りにする表現。
例句 ガーベラに刺すコロナビールの空壜に 榮 猿丸
好きな淋しさ鶺鴒は頷きながら 佐藤文香
〇 現代の「新傾向」=極端化 「無内容派」の台頭
最後のDの一群の表現のように、しだいに顕著になってきている俳句表現のトレンドは「極端化」であり、この標準的な「内容」の伝達表現以外に、
「イメージ、言葉、音、文体を極端に強調するために敢えて無内容に近い形にして句」
が多様に台頭してきたと、堀田は解説している。
内容、つまり伝えたい表現上の主題が予め作者の中にないので、「無内容」に見える表現方法の多様化が進んでいて、「イメージ、言葉、音、文体」という言葉の属性を操作表現することで、何か一つの俳句作品らしさをぎりぎりのところで留め得る表現まで「極端化」されつつある、という意味だと思われる。
この態度は、かつては実験的に前衛俳句と呼ばれる一群の俳人たちが試みた方法で、彼等には自分の中に予め存在するとされる主題、メッセージそのものへの根深い不信感が根底にある俳人たちだった。
だから、自分がメッセージを伝えようとして表現するのではなく、「イメージ、言葉、音、文体」の操作によって表れる何かに、「語らせよう」として、何かが語られてしまうこと自身を拒否する表現にまで突き進んでしまった俳人たちが台頭し、多様に存在し始めたという意味でもあろう。
これは堀田の先の分類の一の「内容表現派」にたいして二、「無内容表現派」とでもいうべき方法だろう。
若い俳人に多いその一群の俳句例として、次の句を揚げている。
蝶啼く旅人たちを酢に沈め 九堂夜想
麿、変? 高山れおな
皿皿皿皿血皿皿皿皿 関 悦史
ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ 田島健一
いきものは凧からのびてくる糸か 鴇田智哉
くれなゐのとがりは肉の北寄貝 佐藤文春
せりあがる鯨に金の画鋲かな 生駒大祐
〇 作句態度の傾向
堀田は論考の最後に、作句態度の傾向を二種類に分類している。
● 高度な娯楽派
● 命の詩芸術派
高度な娯楽派としている佐藤文香の言葉「自分は不要不急コンテンツの担い手だという自負があり、『役に立たない』ということを売りにさえしてきました」を引いて、そのような覚悟の裏打ちがあってはじめて、何かしらの意味を持つ表現ではないかというような位置づけをしている。つまり「無内容」であることの「意味」を自覚しているという、屈折し、ひねくれた詩歌派が増えているということだろう。
この二極化が進むと展望しつつも、堀田自身の作句態度を後者の「命の詩芸術派」とし位置づけているようで、その気概をこめた次の文でこの論考を結んでいる。
※
後者は正反対で、急を要する、今この瞬間のコンテンツを言葉にする。高度な洗練とも片言性ともユーモアとも無縁で、時には血まみれ汗まみれ汚物まみれで、意味は限界まで込められ、読者の強い感情(悲しみ、怒り、不快感と言った場合もある)を引き出そうとする。「この戦争」を詠まなくてどうするのだ、今を生きているのだ、という態度である。(略)
※
堀田が分類してみせた現代俳句表現の見取り図で、自分がどこに位置しているか、自覚することは、意味のあることだ。
表現方法も、無自覚に受容するものではなく、選択創造するものであるという自覚を促してくれるだろう。
自分としては、どの表現方法に現代と切り結ぶ言語表現の可能性を見出すか、という重要な問題でもあるからだ。