【今日のnote】毎日更新180日目の「私信」。
どうも、狭井悠です。
毎日更新のコラム、180日目。
太宰治の短編小説に、「私信」というものがある。
わずか、600文字程度の小説である。この文章が、どういう経緯で書かれたものなのか、詳しいことはわからない。ただ、僕はこの文章がとても好きで、ときおり、ふとしたときに読み返す。
以下に、全文を引用する。
叔母さん。けさほどは、長いお手紙をいただきました。私の健康状態やら、また、将来の暮しに就いて、いろいろ御心配して下さってありがとうございます。けれども、私はこのごろ、私の将来の生活に就いて、少しも計画しなくなりました。虚無ではありません。あきらめでも、ありません。へたな見透しなどをつけて、右にすべきか左にすべきか、秤にかけて慎重に調べていたんでは、かえって悲惨な躓きをするでしょう。
明日の事を思うな、とあの人も言って居られます。朝めざめて、きょう一日を、充分に生きる事、それだけを私はこのごろ心掛けて居ります。私は、嘘を言わなくなりました。虚栄や打算で無い勉強が、少しずつ出来るようになりました。明日をたのんで、その場をごまかして置くような事も今は、なくなりました。一日一日だけが、とても大切になりました。決して虚無では、ありません。
いまの私にとって、一日一日の努力が、全生涯の努力であります。戦地の人々も、おそらく同じ気持ちだと思います。叔母さんも、これからは買い溜などは、およしなさい。疑って失敗する事ほど醜い生きかたは、ありません。私たちは、信じているのです。一寸の虫にも、五分の赤心がありました。苦笑なさっては、いけません。無邪気に信じている者だけが、のんきであります。私は文学をやめません。私は信じて成功するのです。御安心下さい。
「私たちは、信じているのです。一寸の虫にも、五分の赤心がありました。苦笑なさっては、いけません。無邪気に信じている者だけが、のんきであります。私は文学をやめません。私は信じて成功するのです。御安心下さい。」
なんと力強く、美しい言葉だろうか。
馬鹿な台詞だと思う者もあるだろう。
けれど、僕はこの文章を読むたびに勇気付けられる。
そして、こんなことをいうのは甚だおこがましいことかもしれないけれど、太宰治という人が、このような短い文章をあえて書き残した気持ちも、34歳の売文稼業で食っている物書きとして、なんとなくわかるような気がするのである。
物書きの孤独は、物書きにしかわからないのだ。
太宰治は、「私」という一人称の文脈に、ときおり「私たち」と一人称複数を織り交ぜて書くことがある。同じく、僕が好きな随筆である太宰治の「如是我聞」にも、同じように「私たち」と一人称複数が混じる文章がある。
いのちがけで事を行うのは罪なりや。そうして、手を抜いてごまかして、安楽な家庭生活を目ざしている仕事をするのは、善なりや。おまえたちは、私たちの苦悩について、少しでも考えてみてくれたことがあるだろうか。
私たちの苦悩は、私たちにしかわからないのだ。
だから、物書きは自らの意志と使命感によって、借り物の言葉ではなく、己の文脈を切り拓き、自らの血肉をすりつぶして書き綴っていくよりほか、生き残っていく術はなく、他人や世間に迎合している暇(いとま)はない。
180日間、毎日文章を書いてきて思うことは、自分という存在を支配し、手なづけることができるのは、結局のところ、自分だけということである。
180日間、毎日文章を書くことなんて、誰かに要求されていたら、とてもじゃないけれど、できたものではないだろう。
しかし、今日のように連日の取材で身体がヘトヘトになっていても、こうして文章を書くことができているのは、他でもない自分自身と約束しているからだ。
約束は自分としかできないし、僕の心は、誰ひとり支配できない。
僕に何かを要求できる人間は、僕以外には存在しない。
神にも、悪魔にも、僕を支配させはしない。
これは、毎日更新180日目の、僕自身に宛てた私信である。
いつか、この文章を振り返ったときに、自ら書き綴った「私信」を誇りに思うことができるような人生にしていきたいと思っている。
今日もこうして、無事に文章を書くことができて良かったです。
明日もまた、この場所でお会いしましょう。
それでは。ぽんぽんぽん。