誰かの「人生の影」を書くことについて
「私の人生について書いてみたら、きっと面白いものになる」
ものかきの知り合いがたくさんいるわけではないから、他の人たちがどうなのかわからないけれど、会話の中で、このようなことを言われることがある。こうした提案を僕にしてくれる人は、往々にして女性が多い。
そして話を聞いてみると、たしかに彼女たちの人生には文脈のあるエピソードが満ちていて、僕はしばし会話をしながら、彼女たちの持つストーリーの海の中を泳ぐことになる。
あるときから、僕は女性を主人公にした作品を書くようになった。
あれはおそらく、2012年くらいからだと思う。過去作品で、女性が主人公のものは以下のとおり。
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2012年、北日本文学賞への公募のために執筆。東京の街で生きる、ひとりの女性の物語。愛人としての暮らしや、華やかな社交世界から逃避し、孤独に自分自身を見つめることで、彼女は進むべき道を見出していく。女性目線の一人称で、別離と回復を描いた中編小説。
2015年、文學界新人賞への公募のために執筆。三人の女性たちの会話劇。結婚、恋愛、仕事。女性たちの違った生き方や価値観がぶつかり合いながらも、互いの想いを語り合い、それぞれの出口に向かって歩んでいく。女性目線の一人称で、胸のうちに抱える葛藤を解放していく姿を描いた長編小説。
2017年、note無料公開のための執筆。誰とも共有しえない「怒り」を抱えた女性の感情の爆発と、別離のエピソードを描いた短編小説。「分かりあえない」という葛藤と、「分かりあいたい」という欲求。それらのスパイラルから解き放たれた後に訪れる人生の凪をテーマに、女性目線の一人称での感情の描写に特化した実験的な作品。
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今回、二年ぶりに新しい短編小説を公開した。そこでいくつか気づきがあったので、良い機会だからまとめておこうと思う。
僕はこれまで、自己治癒のために文章を書いていた
小説を書き始めた2010年からの二年間は、「僕」という一人称のありふれた小説を書いていた。いろんな小説の書き方があると思うのだけど、僕はいつも自分の経験の中から、何かしらのエピソードを紡いでいた。だから、過去の僕の小説はこじんまりとした個人的な世界を舞台にしたものばかりで、あまり大衆向けのものではなかった。どちらかといえば、自己治癒のための慰みの文章だったのだ。
その後、2014年にあるきっかけで出会いがあり、小説を書くうえで長くメンターとして付き合ってくださる恩師を得た。
僕に小説の書き方を指南してくださった恩師からは、一人称の私小説的な世界からは離れたほうがいいという助言を受けた。もっとエンターテインメントに満ちた躍動感のある作品を書いたほうがいい。作家として食べていくならば、まずはその道に舵を切っていくのがいちばん近道になる、と。
結局、まだ恩師の助言に見合った作品を生み出すことはできていない。プロットはいくつも書いたものの、何かがしっくりこず、筆が進まない作品の残骸ばかりが積み上げられていくことになった。
「シチュエーションが限定された女性三人の会話劇は、難しいから別のテーマで書いたほうがいい」と恩師からは反対されていたのだが、どうしても女性目線の作品を書くことにこだわりがあり、先ほど紹介した「薄暮譚」を2015年に書いた。恩師からは案の定、完成後に厳しいお言葉をいただき、それ以降は会社員として働きづめだったので、作品を生み出すことができずに二年の月日が経ってしまった。
今、僕にテキストを書かせているのは「僕以外の何か」
そんな中で、先日「和むのは、ずっと後になってから。」を書いたとき、何か自分の中に、これまでの一人称小説では表現できていなかった「何か」が息づいてきている感覚があった。
それは、「自己治癒を目的としていない小説を書くようになった」という手応えだった。
今回の作品もこれまでと同じく女性目線の一人称だが、主人公の感情の動きを生み出す原動力が、僕の心ではない「どこか別の場所」にあることを感じ取っていた。僕はテキストを生み出すためだけに存在する媒体であり、生み出されたテキストは僕自身を救済するものではない。では、いったい何を目的として生まれたものなのだろうか。
ひとつだけはっきりとしていることは、今、僕にテキストを書かせているのは「僕以外の何か」なのだ。そして、その正体はおそらく、僕の中に蓄積されてきた女性たちの「人生の影」なのである。
「私の人生を書いてみたら、きっと面白いものになる」
そんな言葉から始まったひとつひとつのストーリーが、僕を媒体にして世の中に姿を見せようとしているのである。そしてそれらのストーリーは、発信者だった女性自身を離れ、まったく別の意志を持った影となって、潜在意識の暗闇の中で大きく育ち、テキストとして解放されていくことを望んでいるのだ。
「肖像画家」のようなものかきとして生きていく
僕はこうした現象に自分自身がシステムの一部として組み込まれていることを感じ取ったとき、ふとアメデオ・モディリアーニのことを思い出した。
彼は肖像画家だったが、彼の描く肖像画は潜在意識を具現化したような特異なものだった。当時の肖像画家といえば、クライアントの姿を写実的に描写するのが普通だったから、彼の作風は世間に受け入れられず、不遇の人生を過ごすことになる。彼は、パートナーであるジャンヌ・エビュテルヌの肖像を何度も描き、自分自身の画家としてのスタイルを確立していくことになる。
アメデオ・モディリアーニが、ジャンヌ・エビュテルヌに出逢ったのは1917年。当時、モディリアーニは33歳で、ジャンヌは19歳だったという。
奇しくも、100年前のモディリアーニと、現在の僕は同い年である。
もちろんこれは偶然の一致に過ぎないのだが、特異な肖像画を一心不乱に描き続け、そして死んでいったモディリアーニのことを思い出しながら、「肖像画家」のようなものかきとして生きていくことも、わるくないかもしれないと思っている。
僕が人生の中で出逢った、文脈に溢れた様々なストーリーを抱えた女性たち。パートナーとして過ごした女性もいたし、友人として長く付き合っている女性や、飲み屋などで偶然会って話をしただけの女性もいる。
自らの人生のストーリーを語る彼女たちの表情は、それぞれに活き活きとしていて、とても美しかった。
彼女たちの残した影を、かたちにしていくこと。それが、僕がものかきとして生きる、ひとつの使命なのかもしれないと今は思っている。
これからどれだけ作品を残していくことができるのかはわからないけれど、読者がたったひとりでも、僕の書くテキストを読んでくれているうちは、地道に作品を生み出していかなくてはならないだろう。そして何よりも、潜在意識の闇の中を歩き続けている影が、それを求めているのだ。
恩師に二年ぶりに書いた短編小説を送った。これまで、ものかきとしてほとんど実績を残せていなかった僕のことを、今でも忘れずに応援してくださる恩師には、心から感謝している。改めて、この場を借りて感謝の気持ちを綴っておきたい。
そして何よりも、こうして書き残すテキストをいつも読んでくださっている読者の皆様の存在が、僕に勇気をもたらしてくれている。
これからも、僕は書き続けていこうと思う。
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狭井悠(Sai Haruka)profile
三重県出身、立命館大学法学部卒。二十代後半から作家を目指して執筆活動を開始。現在、フリーランスライターを行いながら作家としての活動を行う。STORYS.JPに掲載した記事『突然の望まない「さよなら」から、あなたを守ることができるように。』が「話題のSTORY」に選出。STORYS.JP編集長の推薦によりYahoo!ニュースに掲載される。2017年、村田悠から狭井悠にペンネームを改名。
公式HP: https://www.sai-haruka.com/
Twitter: https://twitter.com/muratassu
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