りんご、落としましたよ。その一。
彼女はクリーム色のトートバッグを右肩にかけて、人通りの多い道を歩いている。
大学の授業が突然休講になったので、夕方には家へ帰れそうだと思いながら嬉しそうに歩いている。
帰ったら読みかけの漫画を読もう。続きが気になって、今日の講義はほとんど聞いていなかったのだから。
「すみません」
それにしても、朝っぱらから漫画を読む癖はやめなくちゃいけないな。少なくとも次のテストが無事に終わるまでは我慢しよう。
「あの、すみません」
振り返ると、顔の整った中年の男性が彼女の前に立っている。右手にスーツのジャケットを抱えて、左手にひと玉のりんごを乗せて。このうえなく真面目な表情で。
「りんご、落としましたよ」
彼女は呆然として、無意識に周囲の通行人を見まわす。けれども誰一人、その光景を不思議に感じてはいないらしい。
もう一度男性の顔に目を向けると、彼はごく自然な微笑みをその上に浮かべる。それ以外の感情や主張はどこにも見受けられない。
彼女は突然、自分だけが何かに取り残されたような孤独感をその胸に感じる。ひょっとしたら、自分の知らないあいだに世界は大きく変わってしまっていたのかもしれない…。
男性の透き通った瞳に見つめられながら、彼女はそんなふうに立ち尽くしていた。
・ ・ ・ ・ ・
気がつくと、彼女は左手にりんごを持ったまま帰り道を歩いていた。
その、まだ完全には熟しきっていない果実をどうしたものかと考えながら。
ーー続きは明日ーー
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