親知らずを抜く。後編
パソコンに映されたレントゲン写真を指差しながら、いかに手術が難航したかを医師が語り始める。男の意識はまだ宇宙の彼方を彷徨っていたので、抜けた歯の破片を手渡されるまで何一つ耳に入ってはこなかった。
「これね。せっかくだから記念にプレゼント」
男は小さな透明の袋に入った自分の体の一部、いやかつてそうだった2つの破片を手に取って見つめた。それを今後の人生でどのように活かしていくべきは皆目見当もつかなかったが、何も言わずズボンのポケットにしまった。
ぽっかりと穴の開いた歯茎を縫われ、注意事項やらなんやらを説明されたうえで無事に手術は終了した。男が立ち上がると、歯科助手の若い女性が「大変でしたね。おつかれさまでした」と優しげに言った。その場で抱きしめたい衝動に駆られたが、傷口のある部分を殴られたくなかったのでやめておいた。
会計を待っているあいだトイレで用を足すと、なぜか1日分溜まっていたんじゃないかというくらいの水分が流れ出た。そのまま自分の魂までもが抜け出ていってしまいそうな気がしたけれど、男はなんとか現世に留まり便座の上に留まった。
薬を受けとって外に出ると、来る前まで降り続いていた雨が止んでいた。男が息を吐くと、それは今年はじめての白い霧として宙に浮かんでから、湿った風によってどこかへ運び去られていった。
家まで歩いて帰るあいだに男が考えていたのは、この世界には2種類の人間がいるということだった。(実際に抜くかどうかはともかく)親知らずを抜く必要のある人間と、そうでない人間だ。
神はなぜ親知らずなんてものを創りたもうたのだろうと、男は疑問に思った。なぜもっと調和のとれた、完全な体を与えてくださらなかったのだろうか(この野郎)と。
少し考えてから、あえて不完全にしたのかもしれないという結論に男は達した。歯並びが乱れたり、ハゲたり、胸が小さかったり、足が臭かったりするのもぜんぶ、人が不完全な自分を受け入れるための仕掛けなのだろう。完璧じゃなくていい、そのままの自分でもいいのだと。
そう悟ってもなお、明日からの痛みを想像すると男の気は滅入った。それからふと、ヘレン・メリルの歌う「Born To Be Blue」のメロディが頭の中で流れ始めた。
クローバーに囲まれて暮らすように
生まれついた人たちもいる。
でもそれは、限られたわずかな人たち。
クローバーの緑なんて、目にしたことはない。
だって私はブルーに生まれついたのだから。
この曲が流れている歯医者だったら、通ってもいいんだけどなと男は思った。
'Cause I was born to be blue.
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