運命の人。
電車がゆっくりとホームに入っていく。夕方の七時くらい。
彼女は本を読んでいる。列の一番前で。僕の隣の席は空いている。
これが地下鉄だったなら、誰が座るかなんて気にもしなかっただろう。横並びになって運ばれていくだけなのだから。
でも今は違う。どうせならサラリーマンのおじさんじゃなくて、電車を待ちながら本を読むような女性がいい。
扉が開く。僕は窓の外に顔を向けたままでいる。彼女はいくつかの空席に目を向けてから、僕の隣に座る。たぶん、一番近かったからだ。
電車が動き出して、彼女はまたページをめくり始める。ばれないようにさりげなく目を向けると、作者は知っているけれどまだ読んだことのない作品だった。
信じてもらえないかもしれないけど、ノートから切り取った紙片と鉛筆がカバンの外ポケットに入っていた。表面にはメモが書きなぐられているけれど、裏面は白紙のままだ。
迷ったまま二駅を通過して、僕はようやくそれを取り出す。
それから迷った結果としての言葉をそこに書いて、そっと彼女に見せる。
話は盛り上がった。好きな本について、僕の日帰り旅行について、お互いの仕事について。その他もろもろ、エトセトラ。
15分くらい経って、「次で降ります」と彼女が言った。僕は迷う。連絡先を交換するかどうか。
「お話しできてよかったです」
そう言って彼女は立ち上がる。結論は出ていないのに。
「こちらこそ。応援してます」
彼女は微笑んで、扉のほうに向かう。電車が停止して、乗客が駅に降り始める。
今ならまだ間に合うはずなのに。僕は何も気にしていないような表情を浮かべて、開いたドアの反対側に貼られたどうでもいい広告を見つめている。いったい誰がこんなものをここに貼り付けたんだろうと思いながら。
扉が閉まって、電車は走り始める。
どうしてだろう。わざわざ聞かなくたって、紙に書いてゆだねるだけでも良かったのに。
終点の駅に到着するまでずっと、そのことを考えていた。あそこで降りて彼女に追いついていれば、この先だってあったかもしれないのに。
…いや、それは映画の見過ぎだろう。
くよくよしながら、隣に座ってきたサラリーマンのおじさんに理不尽な怒りを覚えながら、僕はホームに降りた。
どうしてこういう大事な場面に限って、頭というのは正常に働いてくれないのだろう。
・ ・ ・ ・ ・
家への帰り道、僕はふと思った。
彼女はどうして、「一人暮らしですか?」って聞いたんだろう。
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