親知らずを抜く。前編
男は待合室で自分の名前が呼ばれるのを待っている。目の前の壁に設置されたテレビでは「となりのトトロ」が無音で上映されている。
「むらながさーん。むらながひろとさん」
男は返事をして立ち上がる。正確には「むらおさ」だが、「そんちょう」と呼ばれなかっただけマシだ。
診療用の椅子に座ると、歯科助手の女性が置いたコップに薄緑色の液体が注がれる。男は黙ってそれを口に運び、軽くすすいでから適切な場所に吐き出す。
それから15分ほど経過するけれど、誰もやって来ない。男は飼い犬のように大人しく待ちながら、壁に飾られた「朝嵐」というタイトルの風景画を凝視し続ける。風で激しく揺れる木々を見ているとくしゃみが出そうになったので、その絵を見つめることもやめてしまう。
さらに5分ほど経過して、ようやく担当の医師がやってきた。おそらくは50代後半の、人当たりが良さそうな男性だった。なんだかんだと話をしてから、席を倒される。二回にわけて麻酔を打たれる。
麻酔が効き始めるまでのあいだ、暇を持て余した(もしくは緊張をほぐしてやろうと試みた)医師が「海外の親知らず事情」のようなテーマで話をし始める。
「ドイツ人なんて骨が強そうでしょう? あんなのゴリゴリやるなんて考えるだけで恐ろしいですわ」
一方的に愚痴のようなものを聞かされたうえで、本格的に抜歯が始まった。天井に設置されたスピーカーからはなぜか流行りのJ-POPが流れていて、男は困惑せずにいられなかった。自分の歯がドリルで削られる音の背景に、クラシックやオルゴールでなくコテコテのラブソングを聴かなければいけない理由がわからなかった。ついでに、待合室で「となりのトトロ」をたれ流したりするのはぜひともやめていただきたいと思った。
そこで医師が一旦手を止め、倒されていた椅子がもとに戻される。左上に設置されたパソコンの画面には男の歯のレントゲン写真が映されている。
「えっと、これから歯を二等分にするか、三等分にします。どっちがいいですか?」
男は黙っている。医師が本気で聞いているのか、冗談を言っているのかがわからなかったからだ。
「まぁ、半分にしたほうがいいかなぁ」
医師がそう言うと、返事をする間もなく席が倒される。いったい何のための説明だったのか理解できないまま男は口を開け、解剖される魚のように全身をゆだねる。
やがて、自分の歯にひびの入る音が聞こえ始める。それから、、、
ーー続きは明日ーー
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