格と武、能力も価値も文化から違ってる話①
先日、武術好きの知り合いと話をしたんだが、とにかく会話が成立しなかった。
それは、お互いに対する信頼の積み重ねが少なかったことが原因かな?と思った。
彼は僕のことを識(し)らないし、識(し)ろうとも思ってもないので、こちらも教える気もないから、中身について詳しく話すこともなければ、深く論じる会話も起こらなかった。
とにかく彼は持論に自信を持っていて、僕のことはナメている状態。
そもそも、僕のことを“素人”だと認識してる。
格闘技や武道武術について、僕が造詣が深いとは露(つゆ)ほどにも思ってもない。
そこにさらに、彼の思い込みと幻想が加わってて。。
まぁ僕としては逆に、話を聞くのが新鮮で、むしろありがたくオモロい話を聞かせてもらえて楽しかった。
そーゆー切り口で、そーゆー解釈で観てる人がいるのか!と。
聞いた話は、いくつかあるけど、中でも代表的な一つを挙げると、
『武術の“達人”はプロ格闘家より強いか?』
という話題。
これは、僕らからすれば、そもそもの前提からしてズレてるので、土台の“何が?”を設定してないから、例えるなら
『トップサッカー選手はプロ野球選手より上手いか?』
と言ってるような、そんなおかしな話題なんだが、彼の持論と独特の思い込みを聞くのは、とりあえず新鮮でオモロかった。
動画サイト界隈で一時期、プロ格闘家と武術の“達人”とされる人らの交流が流行したんだが。
それらの動画が大好きな彼は、その“達人”らへの思い入れと幻想が強くて、その熱で、僕にも
『プロ格闘家より圧倒的に“達人”は“実戦”なら強いんだ』
ということを語ってくれた。
昔のプロレス最強説を唱えてた人みたいだ、と思って、微笑ましく話を聞いてたわww
その“武術の達人”が格闘家より“実戦”なら強い証拠として、彼が挙げたのは、動画内でのスパーリングやら技のキレや威力やらのこと。
細かく説明してくれたんだが、まぁ彼自身が
“「素人」から「経験者」に到らないレヴェル”
なので、論理的にいえば反論の余地しかないんだが。
ここまで熱狂的な、不勉強と思考停止に加え、願望と思い込みが強烈に加わってる盲信者だと、会話としては現実的には、逆に反論のしようがないな~と。
経験上、こういう人との会話では、実際に強印象の体験をしてもらうしか、納得してもらえないことをよく知ってる。
ちなみに、この
“「素人」から「経験者」に到らないレヴェル”
というのは、僕が説明する際によく使う概念化した簡単な定義付け。
ど素人、素人、初心者、経験者、玄人、専門家、名人。
この7段階に分けるとして。
簡単に、
①ど素人→全く無知の門外
②素人→やってないけど中身を知ってる
③初心者→やりはじめた
④経験者→複数の修得した技がある
⑤玄人→経験者までにはプレイでまず負けない
⑥専門家→プロやセミプロ
⑦名人→トップレヴェル
と段階分けしたやつ。
つまり
“素人から経験者に到らないレヴェル”
は②から④の手前ぐらいのレヴェル。
「やりはじめってほどでもないが、修得した技があるとも言えないレヴェル」
の、素人以上で初心者は脱したかな~?くらいの幅。
僕も、彼のことを詳しく知らないので、会話の内容から認識がこのくらいだな~という僕の評価。
で、本題に戻るが、彼の主張による
『武術の“達人”先生がプロ格闘家より“実戦”だと圧倒的に強いか?』
もこれを使えば解決できる。
“実戦”とは何を想定してるか?
何を以て“実戦”とするか?
シチュエーションは様々なので、広すぎるから、彼に関しては、その頭の中にある幻想を取り払わないと、どうしようもないんだけど。
ただ、理屈としては解決できる。
彼が推してる“達人”先生は、打撃に特化した武術の人なので『揉合系』になったら対処できないのは確かなこと。
※今回、使用する『揉合系』という言葉は、組み技、投げ技、関節技、絞め技、寝技などの総称として使う。
僕も『揉合系』の錬究に関しては熱心にやってた時期があって。
一応、柔道も二段位を取ったくらいには上手。
タイマンで武器ナシで、開始の合図と勝敗のゴールが設けられてる
【格闘技】
をやるとしたら、『揉合系』の素人を相手にすれば、僕は“絶対に”負けることがない。
さっきの分け方でいうと僕は④経験者~⑤玄人くらいの位置付けになる。
相手が『打撃系』のプロ格闘家であったとしても、それが世界レヴェルであれ、よっぽど規格外の怪力とか巨漢重量級とかでもなければ、素人は素人なので、まず負けることが起こらないだろう。
長く見積もって20~30秒あれば2~3本は取れるんぢゃないかな?
グラウンド(寝技)なら尚更。
偶然負けるなんてことが起こりようがないので。
素人の方は『揉合系』をナメてるかもしれないけど、やってる側の人からすれば、これ“絶対”って感覚。
ちなみにエピソードとして、僕は高校時代、柔道部に所属したんだけど。
僕としては、もちろん武術の研究の延長だったんで、別に柔道をやってはいなくて、柔道ルールの中での錬究をやってたって感覚なワケだが。
部自体は弱小柔道部だったとはいえ、ちゃんと柔道の技もいくつか身に付けはしてて。
一応、公式には、講道館?か何かで行われた一般昇段審査の乱取では、6人抜きオール1本勝ちをやって、二段位を取得した。
『揉合系』の寝技というのは、特に、完全実力差が顕(あらわ)になる競技なので、まぐれ勝ちというものが基本的には起こらない。
当時、僕の普段の部活稽古では、弱小部なんで後輩や同級生が全く相手にならな過ぎた。
なので、僕はハンデ戦ばっかりしかやんなかったくらいで。
例えば、僕だけ両手を使わないとか、目を瞑ってやるとか、1対2でやるとか。
最終的には、目を瞑った上で2人を同時に相手してたけど、それでも一切負けようがなかった。
『打撃系』ならラッキーパンチが可能性として起こり得るけど。
『揉合系』の、特に寝技に関しては、偶然に決まる技がまず存在してない。
“勢い”とかが通用しないので、仮に筋力差や体力差があっても、例え極めきれないことがあったとしても、万に一つも極められることもないので、素人相手には負けようがない、というのが理屈。
例えば『打撃系』の格闘技の、軽量級の世界王者と『揉合系』ルールで戦ったとすれば。
それは、体力のある素人と戦ってるのと変わらないので、基本的には楽に圧勝できるって話。
昔、空手が強くて地元ぢゃ有名な暴走族の総長やってた同級生が、
「ケンカ慣れした人やったら、関節技なんか効かへんで」
なんて嘯(うそぶ)いてきたけど、後日、僕に何度か戦いを挑んで、すべて秒で制されてたけど、別に大したことではない。
これは構造とか理(ことわり)の話なので当たり前のこと。
つまり、武術の“達人”先生らを盲信してる彼には残念な話だけど。
動画で有名な武術の“達人”先生らであれ、プロのMMA(総合格闘技)の選手とタイマンで格闘技をやれば、あっさりと勝敗がつくことが予想される。
動画内で“達人”先生らは、格闘家へのいわゆる格闘競技的な“反則技”である、彼らが不慣れな目や金的への攻撃で、
『圧倒的力量で、さも制圧したかのような』
演出内容とはなってたけど、あと数戦も練習させれば、プロのトップ格闘家ならば対応しはじめて、そのルールでも圧勝しはじめるだろう。
幻想と現実は大きく違ってて。
歴史とパラダイムの話をすると。。。
今で言うMMA(総合格闘技)のはじまりは1993年あたり。
UFCの第一回大会がアメリカのデンバーで開催されたのが大きなはじまりの出来事と言える。
その前後までは、みんなわかってなかったから、彼のようにそれぞれが幻想に支配されてた。
「ホントに戦(や)れば○○が最強なんだ」
という最強論は語られまくってた。
だけど、UFCがはじまって、だんだんみんなわかってきた。
『ノールール』とはいえ“ノールール”という名のルールが生まれるだけなんだ、ということを。
勝敗を決める時点でルールが存在して『競技』となるので。
すると、必ずそのルールにおける有利になる攻略法みたいなものが次々と出現し、そのスタイルに適応した人が勝ちやすくなるだけなんだ、と。
武術の“達人”先生らに幻想を抱きまくってる彼は、時代遅れというか、MMA登場以前の武術ファン格闘技ファンらの価値観と同じ。
当時は、それぞれ
『ホントに“ノールール”で戦(や)れば~』
「カラテが最強」
「プロレスが最強」
「ケンカ屋が最強」
などなどの意見が飛び交っていた。
そんな中、まさかそのルールでの大会がアメリカでホントに開催されることになる。
目潰しと噛みつき以外は何でもありの
『ヴァーリ·トゥード(全てが有効)』
というルール。
(当初は金的もアリだった)
「主催は、グレイシー柔“術”だって??ww」
「柔道ぢゃなくて?柔術を名乗ってんの??笑わせる(笑)」
「昔の武術の“柔術”を名乗る、いかがわしい柔道もどきのブラジル人かよ」
そんな認識だった。
だけど、そんな夢の天下一武道会が開かれるなら、と、大会には錚々たる格闘家たちが次々と出場した。
プロレス界からは、ノールールに近いパンクラスのリングで圧倒的な強さを見せ、後にチャンピオンとなる日本でも有名なケン·シャムロック。
カラテ界にあって、極真から派生し、打撃のみならず投げや組み技ルールの実戦カラテ·大道塾からは実力者·市原海樹。
いつの時代も語られてる相撲最強説、元力士のエマニュエル·ヤーブロウ。
ケンカならオレが最強だと言わんばかりのファイトを見せた、ジェラルド·ゴルドーやパトリック·スミスといった“ケンカ屋”の異名の選手たち。
他にも柔道、忍術、カポエイラ、拳法など、様々なバックボーンのある有名無名な色んな選手たちが出場した。
『最強は誰なのか!?』
『どんな熾烈な戦いが繰り広げられるのか?!』
『最後に立ってられるのは誰か!!?』
と。
大会はノーグローブで、ダウンした相手の顔面を蹴ったり、馬乗りになってボコボコに殴ったり、凄惨な試合がたくさん生まれたものの。
フタを開けてみれば、現実は、あっさりグレイシー柔術ホイス·グレイシーが、無傷で優勝を繰り返した。
ずっと無敗で無傷。
2回戦で棄権した第3回大会を除けば、第1回2回4回大会を、わりとあっさりと優勝。
挙げ句、優勝コメントでは
「兄のヒクソンは僕の10倍強いよ」
だって。
閉じた思想の日本の格闘家たちはグレイシーを“黒船”と称して、いかにグレイシー退治をするか!と息巻いた。
柔軟な思想の格闘家たちはグレイシーを学びに海外へ行ったり招いたりし技術を吸収しようと動いた。
だんだんわかってきたことは、
『タイマンで素手で開始がハッキリしてるバトル(格闘技)』
ならば、重力の働いた地球上では、
『立って離れてるよりも、組んで寝技に持ち込めば、偶然を廃した実力勝負ができるのも含めて、有利である』
というルールと競技の構造。
初期UFCでもホイスは一貫して、打撃の届かない遠間から、間合いとタイミングをはかって近間へと密着したりタックルに入り、テイクダウンさせて寝技で極めた。
当時、この法則を知らなかった各種格闘技の実力者たちは、みんなあっさりとやられちゃった。
実はグレイシーの道場では、有名格闘家がフツーの色帯のグレイシー生徒に“ヴァーリトゥード”で負けたなんてエピソードはすでにたくさんあった。
格闘技と武術は、概念から価値観から、全く別のもの。
タイマンで素手でヨーイドンで勝敗をつけるならば、それはどこまで追求しようと“競技”としての“強さ”でしかない。
それを“強さ”とするならば、その競技性を理解し、そこでの合理化を体現した人が有利。
というだけの話。
だけど、ホントの武術の実力者は、そのモノサシで観る限りでは実力は測れない、ということ。
もちろん、格闘家も同じ。
競技で、試合で、のみがモノサシとなれば、不利な相手や不利な条件の試合を受けないことも含めて“強さ”となってしまうワケで。
その人間の、ホントの価値を測るならば、もっと多角的な視点で観なければ、理解なんてできない。
せっかく、素晴らしい実力者がいるならば、自分に活かすために観た方が、よっぽど健全。
僕はそういう立場。
深く理解することで、優れた人らから“学び”を獲て、自分の人生に活かせる。
奥行きのある深い楽しみ方が僕のオススメではある。
とはいえ、盲信的なファンを否定も一切してない。
娯楽として、エンターテイメントとして観るならば、僕よりも彼のような幻想も含む態度のほうが正解。
外側から一切、中には入らずに純粋にエンタメを楽しむ。
人生のスパイスとして、それもサイコーだと思う。
ただ、指導者としては、誰かに、何かに
『与えてもらい楽しませてもらう』
スタンスでいるよりは、誰かに、何かを
『与えることが出来て楽しみにゆける』
スタンスになったほうが、クリエイティヴな脳を遣うので、ハッピー度合いは高いんぢゃねーかな、とは。。。
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