20200503
5時半に目が覚め、そのまま読書。最近薬が変わってから調子がいい。日中の眠気も5割方治まり、集中して映画を観たり読書をしたりできるようになった。ただ、夜はかなり早い時間から眠くなってしまうので夜はほとんど何もできない。
遂に想田和弘監督『精神0』を「仮設の映画館」で鑑賞。前作の『精神(2008年)』から8年の歳月が流れている。前作は精神科クリニック「コラール岡山」を舞台に、心の病を患う当事者、医者、スタッフ、作業所、ホームヘルパー、ボランティアなどが複雑に織りなす世界を観察したドキュメンタリー映画であった(Wikipediaから引用)。
その中に出てくる重要なキーパーソンである山本昌知医師が82歳、精神医療の現場から引退するということにカメラを向け、「観察」した映画。前回の『精神』はフレデリック・ワイズマンの映画に通ずるともいえる観察映画だったのだが、今回は非常にゆったりとした空気が流れており、別のものであるということがはっきりと観て取れた。監督自身も映画に関わる重要な人物となっていた。
山本医師の診療のシーンから始まり、診療所に通う患者たちの「先生が引退されたら私たちはどうしたらいいのですか」と不安に駆られ悲痛に迫る患者たち。その患者たちに「あなたがこの苦しい病を耐え、努力してきたことは本当に凄いことだ、わたしは患者さんに人間の凄さを教えてもらった、人生を豊かにしてもらった」と感謝の言葉を捧げ、自分がいなくなっても大丈夫と、前に進めるようにと、穏やかに勇気づける。その真摯な姿にまず心を打たれる。妻の芳子さんの登場。彼女は認知症を患っており、人の手を借りないと生活することができない状態だった。その妻を静かに見守り、穏やかに共に生活していく。二人の生活の場面は山本医師も一人の老人となり、夫となっていた。昔は忙しい医師である夫を支え、働きものでしっかりしていた妻だったのだろう(昔の映像も織り交ぜられており、そのことも知ることができるようになっている)、彼の脱いだ靴をそっと揃えたり、彼が何かをしようとする度に自分も手伝おうとしたり、お客様を丁寧におもてなししようとする姿が、昔の彼女の姿を想起させ、涙を抑えられない。そんな妻が昔のようでなくなってしまって、会話もままならなくなってしまっても、彼は彼女のことをただ静かに見守り、何も口出しや手出しをせず、ただただ彼女のすべてを受け入れ、尊重する。
夫もまた食器棚から食器一つ取り出すにしても時間がかかってしまう場面、屈むだけで腰が痛む場面や少し動くだけでも息が上がる場面が長い時間をかけて映し出されており、医師という肩書は一切そこにはなくて、ただ、老い、というものを私たちへ実感させることができている。
二人の生きてきた実際の生活を知ることは出来ないが、今、こうしてお互いに変わってしまってもお互いを尊重し、寄り添いあっていることから、今までどのような関係だったのかということを私たちは垣間見ることができる。何度も何度も出てくる妻の皺の刻まれた手。その手と彼の手を取り合い、ゆっくりとあの暗喩のような景色の中の険しい道を歩く後ろ姿に、全てが詰まっていた。熟成された偉大な木のような、崇高な人間の人生が描かれていた。
この映画は繊細な感性と、人間に対する深い慈愛と、忍耐力がなければ撮ることは出来ないと思う。本当に素晴らしい映画だった。
仕事で認知症の患者さんと関わることが多いのだが、その点でもとても勉強にもなった。大切なおばあちゃんの手の皺を触りたくなった。
わたしの日記を読んだ人はこの機会に、ぜひこの映画を観てください。人生の中で大切に熟成されゆく映画です。本当に愛するとはどういうことなのか、ということを知ることができます。変わりゆくものと、変わらないものと、変わってはいけないもの。共生。
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